第35話
「…………来てしまった」
翌日、健治は真治が勤める病院を訪れていた。
真治に会おうと考えた場合、自宅よりも職場を訪ねる方が確実だ。ほぼ毎日出勤しているので平日の日中なら間違いなく病院のどこかにいる。
職場訪問は切ってはいけない切り札だと思っていた。
何せ迷惑だ。突然身内が職場にやってきて話をしようとするなんて邪魔以外の何物でもない。
プライベートな時間を割いてもらえない人間が職場に来るとは即ち修羅場である。職場で修羅場を演じた日には間違いなく噂になる。いたたまれない思いをするのは突撃された勤め人の方だ。
健治は真治に嫌がらせをしたいのではない。これだけはやめておこうと思っていた。
そんな常識的な思考を翻した理由は昨日の真治の対応である。
会うような素振りを見せて土壇場で逃げた。
お隣さんに文句を言われ、とぼとぼと家に帰った。
せっかく買った高級弁当は落とした拍子にぐちゃぐちゃになっていた。
報告がてら咲希と食べようという考えはそれを見た瞬間に霧散した。
冷えたハンバーグ弁当を黙々と食べた。脂が浮いたハンバーグは口当たりが悪く、こぼれたデミグラスソースを吸った飯はふやけて失敗した雑炊のような食感だった。
口に運ぶほど泣きたくなった。
何をやっているんだろうと思った。浮かれて、弁当なんて買って、何のために兄の家まで行ったのか分からなくなった。
次第に怒りが込み上げてきた。全部いきなり逃げた兄が悪いと思えてきた。
そっちがその気ならこっちにだって手はあるぞ、と翌日のバスに乗った。
「勢いで来ちゃったけど、どうしよう」
今さらながら腰が引けてきた。
バスに揺られる間、考える時間があった。
最初は目にもの見せてやるくらいの気持ちだった。
健治を出禁にはできないだろう。直接対面を避けられないぞ、あとで職場に変な噂でも流れて後悔すればいい、なんて考えていた。
バスが病院に近づくにつれて通常の思考を取り戻していった。
あと半年もしないで世界が滅ぶのに働き続けるくらいこだわってる職場なんだよな、そんなところで変な噂がたったら嫌だよな、それで兄さんが辞めざるをえない状態になったら困る人もいるんだよな、ただでさえ重要なのに人手不足で忙しい病院を個人的な都合で騒がせるってわりと最低だよな、と突撃をやめる理由がたくさん思い浮かんだ。
せっかく病院までやってきたので院内に足を踏み込んでみたが、あまり乗り気ではなくなっていた。
どうしても会いたいなら家で待ち伏せという選択肢もある。土壇場で逃げだすくらい会いたくないなら仕方ないか、という諦念も湧いてきた。
エントランスに足を踏み入れると、たくさんの人がいた。
真治が勤めるのは付近で一番大きな総合病院だ。紹介を受けてくる患者がいれば、入院患者の見舞いに来た家族もいる。近所のクリニックが閉鎖してしまい初診料を払っても受診したいという患者もやってくる。
見るからに具合が悪そうな人がいれば、会計待ちなのか談笑している人もいる。そんな人を横目に見ながら健治は各科の外来窓口がある方へ入り込んだ。
過去に来た時にはエントランスに患者の案内をする人がいた。初診の方はこちらへ、再診の方は再来機へ、と立て続けに案内しており、目的外の場所へ紛れ込む余裕なんてなかった覚えがある。
今日は簡単に潜り込めてしまった。看護師らしき人、病院事務らしき人、医師らしき人とすれ違うこともあるが、健治が何食わぬ顔をしていると誰も話しかけてはこない。
健治にとって病院と言えば近所のクリニックだった。総合病院の中を歩き回ったことはほとんどない。小学校低学年の頃に入院した祖父の見舞いに来た時だけだ。
窓口で真治を呼び出す踏ん切りは付かなかった。真治だけでなく病院にも迷惑だろうと思えば個人的な事情で煩わせることは躊躇われた。
懐かしさと好奇心が鎌首をもたげる。
「たしかこっちにエレベーターがあったはず」
かすかな記憶を頼りに進んでみると、記憶通りエレベーターがあった。
上の矢印のボタンを押せばすぐにドアが開いた。記憶にあるよりエレベーター内の座椅子が低くなっている気がしたが、自分が大きくなったのだと思い直した。
三階のボタンを押した。祖父が入院していた病室は三階だったはずだ。
病室にたどり着いて何かしたいということはない。祖父は入院していない。誰かがいても赤の他人のはずだ。
ただ懐かしさに惹かれるように足を進めた。
入院病棟は西側と東側に分かれている。エレベーターはちょうど中間を通っており、エレベーターを降りて右に曲がれば東病棟へ、左に曲がれば西病棟にたどり着く。
祖父が入院していたのは西病棟だった。
左に曲がるとすぐにナースステーションがあった。
これはまずいと直感する。
入院患者がいる病棟に健康そうな高校生がいたら目立つ。見舞いに来る人もいるだろうが、入院患者に身内はいない。ただ病室の前をうろうろして引き返す、なんて不審者そのものだ。
兄に会うために押しかけてきたのだが、それでも不審者として捕まって、身元保証人として兄を呼ぶことだけは絶対にいけない。二度と兄に顔向けできなくなる。
「引き際かな」
気になって東病棟側を見てみたが、そちらにもナースステーションがあった。西にしても東にしてもこれ以上近付けば見とがめられるだろう。
エレベーターホールのそばには休憩所がある。自販機でお茶でも買って、一服して帰ろうと思った時だった。
「あれ、鈴片さんでしたっけ」
東病棟側の廊下から声をかけられた。
そこには額に汗を滴らせた、杖をついて歩く少年がいた。
「前島くん?」
先日学園祭で知り合った、前島歩がそこにいた。
―――
「こんにちは、今日は誰かのお見舞いですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。ちょっと人に会おうとして、やっぱりやめたところ」
「? そうなんですか」
歩は杖をつきながらも軽やかに健治のそばに寄る。
健治は言いづらそうにしているが、何か言いたげにも見えた。
「今、お暇ですか。時間があるなら立ち話もなんですし、僕の部屋に来ませんか」
「そんな、悪いよ」
「悪いことなんか一個もないですよ。入院生活って続くとヒマで仕方ないんです。リハビリも限度いっぱいやったところなんで、話し相手は大歓迎です」
にこやかながらも歩は押しが強かった。
歩のリハビリは筋トレと同じでやり過ぎれば怪我をする。今日は一日分の許容範囲ギリギリまで体を動かしたばかりで、この後は予定がない。
小百合以外の同世代と話す機会は殊更貴重だ。絶好の暇つぶしである。
健治の返事を待たずに歩はナースステーション間近の病室へ向かって歩き出す。なんとなく断る雰囲気ではなくなって健治はその後についていった。
「お邪魔します」
「いらっしゃい。今日は暑いんでドアを閉めなくていいですよ。そこの椅子を使ってください。お茶と水はどっちがいいですか」
「じゃあ水をお願いします」
「分かりました」
病室の勝手を良く知る歩はてきぱきと動く。出してあったタオルで額の汗をぬぐい、備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。とまどいがちに健治が椅子に座ると同時によく冷えた水が差しだされた。
「それで、今日はどうしたんですか? 人に会いに来たって言ってましたけど、お見舞いじゃないなら職員の人を探しにきたりとか?」
自分も水分補給しながら歩は直截に尋ねた。
健治は誰かに会いに来たのだと思った。一方で健治自身が人に話すことではないと考えているようでもあった。自分でも心の整理がついていないから、口にする言葉が思わせぶりなように聞こえてしまう。
ならば回りくどいことはしない。迂遠な聞き方をすればまるでやましいことのように聞こえてしまう。話したくても話せなくなる。
不躾には違いないが、今の健治にならこういう尋ね方をしても良いと思った。歩と健治は学園祭で自己紹介をした程度の仲だ。惜しむほどの人間関係を築いていない。健治は言いたくないなら嫌だと言って席を立つことができる。
「……兄に会おうと思って来たんだ」
健治は口を開いた。
「お兄さんですか」
「そう。この病院に勤めてる。珍しい苗字だからどうせ分かっちゃうと思うから言うんだけど、鈴片真治って看護師。知ってる?」
「あー、僕も看護師さん全員知ってるわけじゃないんですよね。看護師さんは配置換えも多いですし」
「そっか」
嘘は言っていない。歩は真治を知らないとは一言も言っていない。入院が長いといえど全ての看護師の名前と顔を知っているわけではない。人数不足を補うために多くの看護師は流動的に配置される。
これが欺瞞であることは理解している。嘘はつかずとも健治に誤解させようとしていることは確かだ。
詐欺と違うのは歩に悪意がないこと。
もともと鈴片という苗字は歩が知る限り二人しかいない。学園祭で自己紹介された時には真治の弟かと察していた。
真治の話題を出さなかったのは、以前聞いた話で真治と健治の関係が複雑だと分かっていたからだ。
言わなくてよかったと思う。きっと歩が真治の知り合いと分かっていたなら健治は話をしなかっただろう。
「お兄さんの住所とか連絡先、知らないんですか?」
「いや、知ってる。メッセのIDも、住所も。けど、兄はなかなか返事をくれなくて」
「仲、良くないんですか」
「……どうだろう。悪いとは思ってなかったけど、いざ会おうとしたら逃げられるって、仲良くはないよね」
「まあ、仲が良い人が会いに来たら普通は逃げないですね」
歩は違和感を覚えた。
真治は以前、自分の身の上話をしてくれた。その中に弟も出てきた。真治を虐待した母親から庇っていたという話だ。
真治は弟を嫌ってはいない様子だった。真治が生きていい理由にはならなかった、と語った時には苦いものが覗いていたが、顔も合わせたくないほどとは思えない。
「ところで逃げるとは? たまたまお店で行き会ったとか?」
「アポとってお弁当を買って行ったら二階の窓から飛び出してった」
「うわあ」
思ったよりよっぽどガチな逃げ方だった。
――ていうかおかしいでしょ。真治さんなら相手が嫌いでもそんな逃げ方しないでしょ。
歩が感じていた違和感が大きくなる。
これまで関わってきた真治の印象と行動がかけ離れている。
真治は嫌いな相手ならはっきり言うタイプだと思った。言えない相手ならば適当に話を合わせて最低限の応対で済むように振る舞うだろう。間違ってもあと数か月で世界が滅ぶという状況で、暴力的にも見えない弟を相手に、二階の窓から飛び降りるような逃げ方をする人ではない。
仕事とプライベートで性格が違う人はいるだろうが、それにしても限度がある。
ならば、と考え方を変える。真治がそういう態度を取るのはどんな状況だろうか。
「それでさ、夕飯にって買った弁当を食べたんだ。冷め切っててさ、落としたせいでご飯もべしょべしょで、食べててすっごいみじめなの。なんかだんだん腹が立ってきて、職場に乗り込んでやるーって勢い込んで来たんだ。これだけはしないでおこうと思ってたのにね」
「住所を訪ねて会えなかったら他の心当たりに行こうって考えるのは普通だと思うんですけど。したくなかったんですか?」
「いやだって、普通に嫌でしょ。学校で、教室にきょうだいが来たら照れ臭くない?」
「……たしかにそんな覚えはあります」
歩自身にそういった経験はないが、想像はできる。小学校の頃、クラスメイトの姉が教室にやって来たことがあった。クラスメイトは顔を真っ赤にしてさっさと帰れと騒いでいた。
自分になぞらえるとどうだろうか。たとえば両親と小百合が病室でかち合って、両親が小百合に挨拶するような状況だろうか。
想像するだけで恥ずかしさで死にそうになった。
もう両親が見舞いに来ることもほとんどなくなったが、ある意味よかったのかもしれない。
確かに軽々しく行っていいことではない。
「そんなことをするくらい怒ってたのに、結局会ってないんですよね。家族なら窓口で呼べば会えそうなものですけど」
「うん、そうかも。でもさ、病院に来るまでにちょっと冷静になったんだ。兄にも病院にも迷惑だろうなって。あと、兄さんの気持ちもちょっと分かった気がする」
そう口にする健治は歩から目を逸らした。どことなく気恥ずかしそうだった。
「お兄さんの気持ちですか」
「会えないかってメッセ送ったり、会いに行くってメッセしたけど、兄さんの予定とかなんにも考えてなかったんだよね。いきなりそんなことされたら戸惑うでしょ」
最初に食事に誘ったのは咲希と恋人になった日。今ならメッセを送れると勢いで送った。
会いに行くと言ったのは独り立ちすると決めた日。咲希や秀人に頼り切りではなくなるための一歩として送った。
どちらも健治の一方的な都合だ。真治には合わせる理由がない。
健治が真治の立場だったとしてもうまく対応できる気がしない。
「それと、兄さんには僕に会いたくない理由があるんじゃないかって思った。前島くんが言った通りでさ、普通は会いたくないやつが家に来たからって窓から逃げたりしないじゃん。居留守とか、ドア越しに会いたくないから帰れっていうことだってできるわけだし。それなのに窓から逃げたってことは、兄さんには僕と顔を合わせたり声をかけたりしたくないだけの理由があるのかもしれないって、ようやく考えられた」
健治は天井を仰いだ。力が抜けたのか、両腕がだらりと下がっている。
口に出してようやく考えがまとまってきた。真治には真治の都合があって、感情がある。そんな当たり前のことを今の今まで考えられていなかった。
自分の考えを尊重せず、一方的に都合を押し付けて迫ってくる。そんな相手に会いたくなのは当たり前のことだ。
「前島くんと話せたおかげだ。ありがとう」
「どういたしまして。それで、どうするんですか。会っていかないんですか? 会いたいなら僕から話を通してみることもできますけど」
「いいや。気持ちだけ受け取っておく」
「でも、病院までわざわざ来るくらい会いたかったんですよね。いっそここで顔合わせだけして、あとでじっくり話すとかどうでしょう。一回でも会えばハードルは下がると思うんですよね」
「もしかしたらそのうち頼むかもしれないけど、今は大丈夫。兄さんが僕に会いたくない理由も分からないし、会ってもロクなことにならない気がする。今はどんな顔して会えばいいか分からない」
「それは……」
「だから、当分いいや。兄さんが会ってもいいってなったら連絡来るだろうし。もし世界が終わる直前になっても合えないようだったら頼むかもしれないから、その時はよろしく」
「はい、任せてください。首根っこ捕まえても会わせます」
歩は笑っていた。
健治は真治に会うことを諦めていた。
ただしそれは妥協した末の諦めではない。自分のことと真治のことを考えた上で、今は会わないと判断した。
きっとそれは決断と呼ぶべきもの。部外者の歩がとやかく言う筋合いはない。
学園祭の日には真治の弟としか印象に残らなかった人物が、一個の人間として歩の目に映った。
「頼もしいな。前島くん、学園祭の時から雰囲気変わったね」
「そうですか?」
「なんかこう、地に足がついたというか……うん。逞しくなった気がする」
「僕にも目標が出来ましたから」
「そっか。それはいいな。頑張れ。何かあれば言って。今日のお礼に付き合うから」
「僕としてはお兄さんとの仲直りを頑張ってほしいですね」
「善処する」
二人は笑った。
余計な力の入らない、からりとした笑い声が響いた。
「そろそろ帰るよ。これで兄さんに出くわしたら気まずいからね」
「そしたらここにまた来てくださいよ。場所は貸します」
「さすがにいたたまれないって」
「そうですか? じゃあ、仲直りが上手くいったら教えてください。僕は当面ここにいますから」
「分かった。きっと報告する。じゃあまたね」
健治は軽やかな足取りで病室を出た。
その背を見送り、待つこと二分ほど。健治は今頃エレベーターなり階段なりに立ち入った頃だろう。
歩は開けっ放しのドアを睨んだ。
「どうするんですか、真治さん」
歩の声に先ほどまでの和やかさはない。乱暴でこそないが、やや乱雑な響きがあった。
数秒して、ナースステーションに一人の男が現れた。
彼の名前は鈴片真治。鈴片健治の兄である。
健治の足音を聞き、見舞客かと顔を出そうとして、健治の横顔を見て反射的にカウンターの裏に座り込んでいたのだ。
このところ、歩は一人でリハビリすることが増えた。それでも真治はリハビリ後に体調を気にすることが多かった。そうでなくてもそろそろ昼食の時間だ。真治が顔を見せないのはおかしい。健治が来たことに気付いてどこかに隠れていると察していた。
どうするのかと話を聞いていた前提で声をかけたのはカマかけである。気になって聞き耳を立てる可能性があったので言ってみただけだ。
ナースステーションに立ち尽くす真治の姿は、歩が知る頼れる看護師のものとは違っていた。
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