死のあそび

フルトリ

死のあそび

「死ぬなんて、風邪をひくようなものさ」

 それは僕の祖父が他界した一週間後のことだった。僕と彼は脇にランドセルを放り投げて、通学路からは大きく外れた河川敷に寝そべっていた。見上げる空は青く、間もなく染まる紅さなど微塵も感じさせなかった。小学校から流れる下校時間を知らせる放送が、僕らの頭の中に響いていた。




 祖父が死んだのは、何の変哲もない病院の何の変哲もない病室だった。もっと言うと、何の変哲もないベッドの上だった。罹っていた病気は珍しいことで有名なものではあったけれど、祖父の年齢を考えると、絶対に治らず必ず死に至る病というのも、結果だけを見れば珍しくもなかっただろう。

 祖父がそろそろ危ないということで、僕たち(祖母と僕の家族、そして叔母の家族)は病室に集まっていた。それにも関わらず、僕は祖父の最後の瞬間に立ち会うことが出来なかった。事の深刻さをいまいち理解していなかった僕は、従弟とともに待合室でくだらないテレビを見ていたのだ。

 祖父は随分前から喋ることもできなくなっており、僕にできることと言えば、大して反応もない祖父に一方的に話しかけるとか、握り返すこともできない手をさするくらいのことだった。それでも僕の両親や祖母はやって欲しいと思っていただろうし、祖父が僕の行動に対してどんな感想を持つのかなんてわからなかったけれど、両親や祖母が望むならやってもいいと思っていた。だから義務のように(実際そう思っていた)話しかけ手をさすっていたが、されるがままの祖父がどうにも不気味に感じられて仕方がなかった。

 そんな僕に対して、祖母は寛容だった。たまの見舞いでも待合室に逃げ出そうとする僕の頭を撫でて、謝る母に「子供は仕方ないわね。退屈だから」と言っていた。

 祖父の心臓が停止して、僕たちは病室に呼び戻された。僕は初め、祖父が死んだことに気がつかなかった。もう一度待合室へ逃げ出そうとして母に腕を掴まれて初めて悟った。祖父は死んでしまったのだと。




 彼の友達は僕だけで、僕の友達も多分彼だけだった。

 彼は病気がちで学校をよく休んでいた。その間は本ばかり読んでいるらしく、そのせいか周りのクラスメイトたちと比べても飛びぬけて理屈っぽく、かなり好意的に彼を見ているはずの僕から見ても、彼はべらぼうに知的ぶっていた。何事も他人事のように思っているのか、体育にも半分くらいしか参加できない自分のことを、「どうやら俺は体が弱いらしいよ」と笑っていた。

「多分、単純に話が合わないんだよ」

 彼は自分に友達がいない理由をそう分析していた。

「俺がもう一人いたとしたら、俺のいい友達になっていたんじゃないかと思う」

「ふうん」

 彼が彼自身と隣同士の席に(ちょうど他の同級生たちがしているように)行儀悪く腰かけて仲良く話している光景を思い浮かべると、それはとても自然に思えた。一方の彼は半ば一方的に昨日読んだ小説の解釈について語り、もう一方の彼は適切なタイミングで相槌を打ち、時折、二人揃って笑い声を上げていた。二人は同じように上履きのかかとを踏み潰して、鏡同士のように向かい合っていたけれど、彼らは紛れもなく別の人間のようだった。なるほど、と僕は思った。彼が彼自身といい友達になれるというのも納得できる。

「むしろ俺はお前が心配だよ。俺が休んでる日はどうしてるんだよ」

 そう言われて自分の行動を思い起こしてみると、どうやら僕には彼がいない日の学校での記憶がないようだった。そんなはずはない、としばらく頭の中を掘り返していると彼の深いため息が聞こえた。「これからはなるべく休まないようにするよ」

 僕は返事をする代わりに、僕と僕自身が楽しく話しているところを思い浮かべようと試みた。僕の目の前に現れた僕と全く同じ顔をしたそいつは、僕と目を合わせようともしなかった。そして一切口を開かず、だんだんとぼやけて消えてしまった。

 祖父が死んだのはその次の日だった。




 忌引き休暇は三日で明けていたけれど、僕はそこから更に三日間学校を休んだ。

 祖父が死んだことがそんなにショックだったのかと言われると、それは自分でもわからなかった。ただ、病室で横たわる生きていた祖父と、涙も出なかった葬式のことを交互に思い出していた。

「死ぬって何なんだろうね」

 一週間ぶりの学校の帰り、河川敷に寝そべって、彼に問いかけてみた。

「死ぬなんて、風邪をひくようなものさ」

 彼は即答した。それは一体どんな意味なのだろうかと考えてみたけれど、下校時間を知らせる放送が頭の中でわんわん響いていて、考えを組み立てるそばから崩されているようだった。

 彼は嘘を吐かなかった(正確には少なくとも僕にバレる嘘は吐かなかった)ので、僕はある意味安心して彼の言葉を受け入れることができた。

 下校時間を知らせる放送がカーペンターズに切り替わった。それに押し流されるように、さっきまで空に貼り付いていた雲が東へと動き始めた。唾を飲み込むと、草の匂いが体を包んだように思えた。

「葬式をしよう」

 僕は言った。彼は体を起こして、毛虫を見るような目で僕を見た。

「それは誰のだよ」

「君だよ、もちろん」

 彼は大きく息を吸った。そして吐きどころがわからないといった風にしばらく溜め込んだ後、ゆっくりと首を傾げた。

「それは、何故?」

「僕が知る限り、君が一番死に近いと思う。今まで何回くらい風邪をひいたの?」

「何回と言われてもなあ。少なく見積もって100回くらいかな」

「100回?」

 僕は素直に驚いた。12歳の僕にとって、100回というのは永遠にも思えるような数だった。

「じゃあやっぱり葬式をしないと。君はほとんど死んでるようなものじゃないか」

「いや、その理屈はおかしい」

「どの辺が?」

「うーん」彼は顎に手を当てて唸りだした。「もしかしたらおかしくないかもしれない」

「じゃあ葬式はしよう。大きな火が使えるところを探さないと」

「もしかして、俺を燃やす気じゃあないだろうな」

「冗談だよ」僕は言った。「でも明日やろうよ。君の葬式。随分遅くなっちゃったけど」

 彼は「早すぎるんだよ」だとかぶつくさ言ってはいたが、最後には同意してくれた。




 物事には「あそび」というものがあるのだと、祖父から教えられたことがあった。

「それは遊び心みたいなもの?」

「似ているけど、少し違う」

 その頃はまだ祖父は元気だった。元気だったと言っても寝たきりではあったのだが、少なくとも喉に流動食を流し込むための穴は空いていなかったので話すことはできた。僕はベッドの脇に立って、祖父の左手を両手で握っていた。汗もかかない祖父の手はなぜかほんのり湿っていた。

「あそびとは、言い換えるとゆとりみたいなもんだ。物事はそれぞれが密接しているようでいて、実はそうじゃない。その間にはちょっとした隙間が空いているんだ。その隙間のおかげで、人生というものは滑らかになるんだ」

「よくわからないや」

「自転車に乗るだろう?」

 僕は頷いた。

「ブレーキをかけようとして、レバーをぎゅうっと握ったとする。そうしたとしても、自転車はすぐには止まらないんだ」

「僕のはすぐに止まるよ」

「そうか」祖父は顔を綻ばせた。「良い自転車を買って貰ったんだな。それでも、止まるまでにはほんの少しだけ時間がかかるんだ。レバーを握ると、まずスピードがだんだんゆっくりになっていくだろう? そうしてしばらくして完全に止まるわけだな。だけど、レバーを握ってからスピードが落ち始めるまで、ほんの少しだけ間が空くんだ」

「車は急に止まれない、みたいなこと?」

「いつかわかるさ。その時までおじいちゃんが言ったことを覚えておくんだ」

 僕は頷いた。その約束は、今のところ守っている。




 次の日、河川敷で葬式は決行された。前日に言ったように流石に彼を焼くわけにはいかないし、ならば土に埋めるのはいいのかというとそんな訳はなく、他に葬式らしい何かを思いつかなかった僕は適当に流そうとした。流そうとした、というのは、彼がそうすることを許さなかったので未然に防がれてしまったということだ。

「生前葬に決まったやり方はないらしい。そもそもやる人が極端に少ないんだ」

 僕が適当に済まそうとすることを読んでいた彼は、自ら生前葬について綿密に調べてきていた。

「じゃあ自由でいいんだね」

「自由っていうのは適当って意味じゃあないぞ」

「わかってるよ」

「心してやれよ。俺の葬式だぞ」

 彼は放り投げたランドセルを引き寄せて、中から一枚のノートの切れ端を取り出した。どうやら彼は、自分の葬式の段取りを書き留めて来ていたようだった。

「本当は棺桶が欲しいところだけど、流石に無理だ。とりあえず」

「とりあえず?」

 彼は僕の目をじっと見て、重苦しく息を吐いた。

「構想を練りに練った結果、俺は地面に寝転ぶことに決定した」

「随分妥協したね」

「議会の決定だよ」

「それで僕は何をすればいいの」

「まずランドセルを下ろせ」

 僕は背負ったままだったランドセルを下ろした。背負ったまま済ませてしまおうという考えは見抜かれていたようだった。

「それで、お前が俺の生前のエピソードを話す。それでとりあえず終わりにしよう」

 今度は揚げ足を取る余裕がなかった。

「僕が何をするって?」

「お前が、俺のエピソードを話す」

 彼の顔がにわかに赤くなった。上下の唇を巻き込んで口を噤むその姿に、僕はそれ以上追求することもできず、僕の方まで照れてうつむいてしまった。

 彼は議会の決定に従って、草の上に仰向けに寝転がった。今となっては、彼のほうが手早く済ませることを望んでいるように見えた。

「ええと」とりあえず口を開いたはいいものの、僕はそれ以上話すことができなくなってしまった。学校からカーペンターズが聞こえてきていることにふと気が付いた。葬式には不釣り合いだなと思った。首に当たる草の感触が心地悪いのか、彼は目を瞑ったまま体をよじった。

 僕は彼の姿を思い浮かべた。彼は陽の当たる教室の、窓際の席に座っていた。そして彼と向かい合って座っている人を思い浮かべてみた。それは僕だった。彼は僕が知らない小説について半ば一方的に話していた。僕は半分くらい聞き流しながら、偶に相槌を打ったり、質問をしたりしていた。それが的外れなものであっても、彼は当たり前のように答え、説明し直していた。彼は楽しそうだった。そしてまた、僕も同じように楽しそうだった。

 いつの間にか、僕の目からは涙が溢れていた。祖父の葬式でも出なかった涙だった。こんな遊びのような葬式で泣いてしまう自分が恥ずかしかったけれど、涙はどうにも止まらなかった。




 葬式は無事に終わった。彼は、次はお前の番だと笑っていた。




 それから僕は、風邪の回数を数えるようになった。祖父が言っていた意味が理解できるようになった頃、ちょうどその数は100回に達した。

「待ちくたびれたよ」

 電話の向こうで彼は言った。数年ぶりに聞いた彼の声は、僕の記憶にあるものとは随分違ったけれど、べらぼうに知的ぶったその喋り方は懐かしくて仕方がなかった。

「葬式をしようか」




 どうやら、僕の人生はブレーキを握った状態に入ってしまったらしい。まだ失速は始まっていないが、僕たちは緩やかに死んでゆく。死にゆく中で、生きている。自転車が止まるその日まで。

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死のあそび フルトリ @furutori

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