第三話 秋霖の切片(2)-2


 今から十三ヵ月前、僕は左膝のぜんじゆうじんたいを断裂している。スポーツ障害の中でも重症度の高い怪我だったが、ACL再建手術に成功し、リハビリを経て現在は回復に向かっていた。

 しかし、僕が抱える真の問題は、蓄積したダメージが暴発した右膝にある。原因がはんぜんとしないせいで、時間による回復を待つことしか出来ていないのが現状だ。一年以上、体育の授業を欠席しているし、今も主治医にランニングすら禁止されている。

 駅の方角へ向かった天馬の後を追うと、戻って来た彼とはちわせになった。

「何であんたまで店を出て来てんだよ」

「一人より二人の方が効率良く探せるだろ。彼女は見つかったか?」

「いや、駄目だ。何処に行きやがったのか分からない」

 肩で息をしながら、天馬は苦々しげに天を仰ぐ。

「雨も降ってるし、バスを使うんじゃないか? しようおおはしから続く大通りに停留所がある。あっちの角を右に曲がれば見えてくるはずだ。僕は走れないから先に行ってくれ」

 推測を告げると、意外にもあっさりと頷き、天馬は駆けていった。

 緩慢な歩調で後を追い、角を曲がると、大通りの反対車線に停車中だったバスが、道路に戻るためのウインカーを出したところだった。

 車の流れが途切れ、バスが通りに出ようとしたところで天馬が追いつく。乗客の中に彼女の姿を発見したのか、バスと身体を平行にしながら四、五歩進み、天馬が大きく両手を振った。

 引き止めることに失敗したとはいえ、重要なのは雨の中を追いかけたという事実を見せることだろう。彼女が気付いていれば、少なくともその熱意は伝わったはずである。

 追いかけたことには十分に意味があった。そう思った次の瞬間……。

きよう! 好きだ!」

 視界の先で展開されたのは、目を疑うような光景だった。

 時代遅れのトレンディドラマじゃあるまいし、あいつは真っ昼間から、大通りで何を叫んでいるのだろう……。

 おうらいの激しいかんせん道路である。行き交う車の音に紛れ、注目が集まることはなかったものの、公道であんなことを叫べる神経が信じられなかった。

 駅へと向かい始めたバスが、僕の前を通過していく。

 窓ガラスの向こう、両手で口元を覆い、目をうるませる少女の姿が目に入った。

 どれだけ恥ずかしいシーンでも、当事者にとっては特別な意味を持つこともあるらしい。

 鼻の下を指でこすりながら、達成感に満ちた顔で天馬が戻って来る。

 何でこいつは、やってやったみたいな顔で得意気に僕を見ているのだろうか。

「彼女の泣きそうな顔、あんたも見たか? 俺の気持ちが伝わったみたいだぜ。まあ、分かってくれたんなら許してやっても良い」

 何故、こいつはいつも上から目線なんだろう。

「そういや、さっきあんたと一緒に店にいたさくらざわなな似の女、あれは誰?」

「櫻沢? ああ、新潟出身とかっていう女優のこと? 似てるかな」

せいな感じが似てるだろ。まあ、そんなことはどうでも良いや。一応、礼を言っておこうと思っただけだ。アドバイスのお陰で助かったのも事実だしな。俺からの感謝を伝えといてくれて構わない。あの女、あんたの彼女なんだろ?」

「そういうことになるのかな」

「そういうことって何だよ」

「付き合い始めたばかりだからさ。あんまり実感がないんだ」

「ってことはつまり、あれか? 向こうから告白されたってことか?」

 面白くなさそうに天馬は吐き捨てる。

「あんたは良いよな。怪我をしていたって、ちやほやされて、皆に認められて。おまけにあんな女に告白されてんのかよ。あんたを見てると、マジで努力ってものが馬鹿らしくなるな」

 いつの間にか愚痴が始まっていた。

「恭子はうちの中学で一番人気があったんだ。入学してすぐにひとれさ。最初に告白した時は、あっさり振られたけど、振り向かせるために出来ることは何でもやった。サッカーが好きだって聞いて、バスケ部から転部して、エースナンバーをもらうために死ぬほど練習もした。やっとの思いで10番をもらって、エースの証明を手に入れた後でもう一度、告白した」

 もてるためにサッカーを始めた。そんな人間は都市伝説の中以外にも存在していたらしい。

「その時に言われたんだ。勉強の出来ない男とは付き合いたくない。別々の高校に進学したら、どうせ別れることになるってな。まったく幾つの壁が立ちはだかるんだと思ったよ。あかばね高校はサッカー推薦が突然無くなるし、マジで焦ったけど俺は諦めなかった」

 聞いてもいないのに天馬の自分語りは続く。

「俺が赤羽高校に合格したことで、彼女もようやく気付いたのさ。俺がスポーツも勉強も万能に出来る男だってことにな。だけど、歯車はすぐに狂い始めた。彼女は俺がサッカー部に入らなかったことが許せなかったんだ。サッカー部はすぐに潰れる。そんな部に入っても無駄だって何度も説明して、やっと納得してもらったのに、サッカー部はいつまで待っても廃部にならなかった。デートの時間を沢山作れるようになったのに、会う度に愚痴られるようになった」

「それ、話が矛盾してない?」

「何がだよ」

「前に喋った時、僕を倒すために赤羽高校に入学したって言ってたよな。サッカー部が廃部になるって知っていたら、うちになんて進学しなかったって……」

「うるさいな。あんた、神経質? そういう細かいことばかり言ってると嫌われるぜ?」

 伝統的にサッカー部には優等生と問題児、両極端な生徒が多いと聞く。間違いないだろう。天馬は後者だ。どうしてこうも無駄に面倒臭い奴ばかりが集まってしまうのか。

「ちゃんと分かってんのか? もとを正せば、全部、サッカー部のせいなんだからな。廃部になるって言うから入部しなかったのに、その約束が変わったせいで、彼女と上手くいかなくなったんだ。俺の人生をかき乱した責任、どうやって取るつもり? ちょっとは申し訳なさそうにしろよ」

 理論が無茶苦茶過ぎて、何処から突っ込めば良いかも分からない。

「サッカーをやめてから上手くいかないことばっかりだ。それなのに、あんたはあんな清楚な恋人を連れてスイーツデートかよ。見せつけられる俺の気持ちにもなれってんだ」

 僕の記憶が確かならば、彼も同じ店でデートをしていたと思うのだが……。

 その時、ポケットの中の携帯電話が、メールの受信を告げた。

『彼女には会えた? お店を出てバス停に向かうね。プリンパンもお土産に買ったよ』

 どうやら真扶由さんがこちらに来てくれるらしい。

 天馬はこの後、どうするつもりなのだろう。話しているだけで疲労感に襲われるというのが正直なところだが、勧誘が完了していない以上、対話を適当に切り上げるわけにもいかない。

 考える必要があった。もしも今、先生が僕の立場なら、どうするだろうか?


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