第三話 秋霖の切片

第三話 秋霖の切片(1)


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 ガラスウォールの向こうで、ながつきさめが降り始めていた。

「雨の日のパリが、一番甘く香るって言ってたね」

 映画館を出るとさんは天を仰ぎ、ワルツでも踊るように、くるりと回って見せた。

「私、くりの木が甘く香るなんて知らなかった。ゆう君は知ってた?」

「いや、知らなかったよ。前にも観たことあったんだけどな」

「近くに栗の木林があったら良かったのにね。私、きっと今日なら雨を好きになれると思う」

 本日、映画館でリバイバル上映されていたのは『うるわしのサブリナ』だった。

 サブリナ・フェアチャイルドをオードリー・ヘプバーンが演じた恋愛映画だが、観たことがなかったという真扶由さんは、最後までその展開にハラハラさせられたらしい。

 ごうララビー家に仕える運転手の娘が、おんぞうに恋をする物語。今の僕らの関係性を暗示するような三角関係の物語でもあったのだけれど、彼女はそこまでの深読みはしなかったようで、素直にエンディングの展開に心を躍らせていた。

「前にも観たことがあったってことは、優雅君はオードリー・ヘプバーンが好きなの?」

 パステルブルーの傘を差してから、真扶由さんは僕の顔を覗き込んでくる。

「そうだね。多分、彼女のことは、きっと誰だって好きなんじゃないかな」

「言われてみれば確かに……。私も昔から好きだった。『ローマの休日』しか観たことがなかったのに不思議」

 自分の傘を広げ、真扶由さんの隣に立つ。彼女と僕は頭一つ分の身長差がある。

「次に向かうのはパン屋だったっけ? あれ、『Littleリトル Puddingプデイング』ってケーキ屋?」

「一応、パン屋さんかな。でも、スイーツも充実しているから、ケーキ屋さんって言っても問題無い気がする。楽しみだな。久しぶりなんだよね」

 多くの女の子がそうであるように、真扶由さんも甘い物が大好きらしい。


 付き合い始めた二人は、一体、何をすれば良いんだろう。

 たかつきゆうふじさきの交際は、そんな問いを自分たちに投げかけるところから始まった。

 恋愛経験がないのは彼女も同様である。真扶由さんも僕と等分の揺れ幅で、この新しい関係性に戸惑っていた。

 曖昧な時間を過ごすことで、緊張が不安に、期待が失望に変わり、たんを迎えてしまう恋もあると聞く。

 だが、僕らは毎日、共に遅くまで部活動に励んでいる。放課後に遊び歩くなんて考えられないことだった。

『今日も激しい練習をしていたね』とか『夕御飯のポトフがしかったの』なんて、さいなメールが送られてくるようになったけれど、世の中に存在する多くのカップルと比べてみれば、熱量の低いやり取りしかしていないだろうことは明白だった。

 この交際の目的は互いを知ることにある。能動的な努力も必要だろう。共に午前にしか練習がない日曜日、初めてのデートに出掛けてみようという話になったものの、すぐに何処へ出掛けるのかという次の難問が顔を現す。

 僕にはサッカー以外に夢中になれるものがない。真扶由さんも似たようなもので、楽器をかなでている時が一番幸せだという。それぞれの趣味に触れてみるというのは、互いを知る上での有用な案に思えたが、僕が楽器を弾けない上に、今週末のJリーグはアウェイ開催だった。

 恋愛というのは鏡のようなものなのかもしれない。サッカーの次に熱中しているものは何か。そんな問いを前に考察を始め、熟考の末に辿り着いたのは、古い映画を観ることだった。

 結局のところ、僕はきりはらおりの影響を何処までも強く受けているのだろう。伊織が好きになったもの、興味を惹かれたものに共に触れながら、今日まで生きてきたのだ。


 十五分ほどバスに揺られ、真扶由さんのお気に入りだというお店に到着する。

 今日は一日中、こんな天気なのだろうか。相変わらずぬるくて弱い小雨が降っていた。

 Little Puddingなる名のれん造りのお店は、日曜日ということもあり、幅広い年齢層の客でにぎわっていた。奥には喫茶のためのスぺースも設けられている。

「プリンを丸ごと一つ入れて焼いたパンが大人気なの。一度、優雅君にも食べて欲しいな。お土産に買っていこうよ」

「お土産ってことは、今食べるのは……」

「迷ってたけど、私はスフレにしようと思う」

 そんな風に告げて、真扶由さんは悪戯いたずらっぽく笑って見せた。


 キャラメリゼされたクリームブリュレの表面を、スプーンの先で壊していたら、

「恋する女性はスフレをがす」

 少し前にスクリーンでも聞いた台詞がまくを揺らした。

「あの映画、楽しんでもらえたみたいだね」

 真扶由さんが注文したのはスフレチーズケーキだが、商品は別に焦げてなどいない。

「一生のおもになると思う。多分、私は今日のことをしようがい忘れない」

おおだよ」

「駅で合流するまで、ずっと緊張で頭がどうにかなりそうだったの。会話が途切れたらどうしよう。沈黙に動揺して、言わなくて良いことを口走っちゃったらどうしよう。色んな可能性を考えてしまって、昨日はろくに眠れなかったんだ」

「僕なんか緊張に値するような男じゃないのに」

 真扶由さんは首を勢いよく横に振る。

「そんなことない。月に手を伸ばすなって、サブリナもお父さんに言われていたじゃない。私、耳が痛かった。失敗しちゃ駄目だ。上手くやらなきゃ駄目だ。緊張で足が地につかないような感覚でいたのに、不思議だよね。駅で優雅君と会った瞬間から、ずっと楽しく過ごせてる」

 胸の辺りに手を置いて、想いをはんすうするように彼女は頷いた。

「ざわついていた心が優雅君と会った途端、穏やかになって、それからは街の風景が明るく見えるの。映画で耳にする台詞の一つ一つが、胸の砂地に染み込むみたいだった」

「その感覚は理解出来るかも。緊張していたはずなのに、不思議と今は穏やかな気分だから」

「優雅君も楽しく過ごせている?」

 不安と期待をない交ぜにした顔で問われ、肯定しようとしたまさにその時……。

「だから、いい加減に分かってよ! もう、うんざりなんだってば!」

 真後ろのテーブル席から、少女の悲鳴にも似た叫び声が上がった。

 店内はけんそうで満ちている。ただならぬ雰囲気に気付いた客は半分もいなかったが、隣接する席で不意に始まった口論は、予期せぬ事態を運んでくることになった。







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