エピローグ(3)


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 六月八日。月曜日の放課後。

 掃除を終え、クラスメイトのくすと共に、部会が開かれる視聴覚室へと向かった。

 この二日間に世間で浴びた注目については、全部員が理解している。理事会の決定に変更が加えられたのではないか。そんな希望を捨てられずにいるのは、きっと僕だけじゃない。

 視聴覚室に全部員が揃い、それから、どれくらい経っただろう。

 怖いくらいの沈黙で満ちた教室の扉が開き、

「めちゃくちゃ怒られたー。大人になってから、あんなに怒られるなんて思わなかったよー」

 室内に足を踏み入れるなり、いつもの緊張感のない顔でまいばらはそう言った。

「理事会に呼び出されていたのか?」

 低い声で尋ねたのは三年生のおにたけ先輩。

「午後の授業がなかったから、ついさっきまでね。今、学校に最も多額の寄付をしているのって舞原家なんだよ。その一族の娘に怒鳴り散らすとか、経営を何だと思ってるんだろう」

「あんたのインタビューが問題になったんだろ? 自業自得じゃねえか。あんな啖呵を切った挙句に廃部になったら、恥ずかしくて街を歩けねえぜ」

「まあ、老人たちはSNSとは無縁の生活を送っているし、ネット上の騒ぎのこともよく分かっていないみたいだったけど、実は今朝から、学校に問い合わせが殺到していたんだよね」

「あんたのインタビューに対する抗議か?」

「まさか。最近入った取材の申し込みは全部、保留にしていたの。で、土曜の試合に負けた後で、月曜から教務課を通してお受けしますって伝えたんだよね。そしたら何件の電話がかかってきたと思う? 朝から十四件だって。問い合わせの応対で仕事にならないって、教頭に怒鳴られたわ」

 怒鳴られたと言いつつも、世怜奈先生の顔にはいつもの微笑が浮かんでいた。

「まあ、そういうのも含めて計算通りではあったんだけど、あんなに怒られるとは思わなかった。あれ、私たちが考えていた以上に、本気でサッカー部を廃部にしたかったんだろうね」

「……計算通りって、どういうことですか?」

 戸惑いの眼差しを浮かべながらおりが問う。

「最初に言ったじゃん。サッカーを大人が子どもから奪うなんて、絶対に許さないって。廃部になんてさせないよ。向こうが無茶苦茶なことを言ってるんだから、こっちも手段は選ばない。本音を言えば、私は偕成にも美波にも勝てるつもりでいた。まあ、そこは監督としての浅はかさが出ちゃったってことだけどさ。一応、負けた場合のことも考えて手を打っておいたんだよね。四月の夕刊に載った私の記事、あれ、こっちから働きかけてるの。新聞社にコネクションを持つ親族がいるんだけど、その人を介して私への取材が誘導されるよう、に頼んでおいたんだ」

「じゃあ、最初に先生が話題になったのは……」

「導火線に火をつけたのは陽凪乃だよ。私は自分の容姿のことなんて、どうとも思ってないけど、小さい頃からちやほやされてきたし、野次馬的な注目もされるだろうなってもくはあった。取材をきっかけに朝刊の特集記事にも繫がったし、その画像をSNSで拡散したのは、の仕業」

 舞原陽凪乃さんと舞原吐季さん。どうやら先生の二人のいとこは、僕らの知らないところでも暗躍していたらしい。二人とも無理やり手伝わされているだけかもしれないが……。

「あ、でも、一つ弁明させて。私に集まった注目は作られたムーブメントだけど、『ガラスのファンタジスタ』だっけ? ゆうに注目が集まったのは、吐季に確認取ったら自然発生だってさ。これだけ色白で顔の綺麗な子が、10番をつけて常に私の隣にいたら目立つよね。しかも、日本代表招集歴があって、前年度の大会得点王。ナチュラルに王子様じゃん。優雅は迷惑だったと思うけど、それだけのスター性が君にはあったってことだ」

 話から推測するに、偕成学園との試合後のインタビューを、即座に動画投稿サイトにアップロードしたのも吐季さんの仕業だろうか。

「私はこれから新聞社、雑誌社のインタビューを受けていく。テレビ取材の申し込みもすべて受諾したわ。レッドスワンの注目度は今後、さらに上がる。講師が勝手なことをするなって理事会に怒られたけど、私に怒鳴り散らすことは出来ても、世間の注目を逸らすことはもう出来ない。この流れで理事会はサッカー部を廃部に出来なくなった。だけど、だからといって素直に存続を認めることもしやくだったんでしょうね。子どもみたいな発想だけど、処分には変更が加えられたわ」

 話がいよいよ核心へと迫る。理事会が下した決定は果たして……。


「新しい決定はシンプルよ。冬の高校選手権に出場すること。それが達成出来ればサッカー部は存続を認められるし、予選で敗退した場合は今度こそ廃部になる。異論はあるかしら?」


 口を挟む者はいなかった。去年、県予選で決勝まで進めなければ廃部にすると聞かされた時は、誰もが戸惑うしかなかったけれど、今、県での優勝を至上命題にされたにも関わらず、全員がその条件を正面から受け止めていた。

「望むところです」

 キャプテンのきりはらおりが力強く宣言する。

「もう一度チャンスが与えられるなら、俺は全国に行くことしか考えないつもりだった。もう二度と、どんなチームにも負けたくない」

 伊織の断言に、先生は満足そうに頷いた。

「ついでに言うと、インタビューで大言壮語を吐いた私は、選手権予選に敗退した時点で、講師としての契約が破棄されるわ。文字通り次の大会が運命戦ってことね」

 あの敗戦で、もう何もかもが終わってしまったと思っていた。

 赤い白鳥は二度とはばたけない。今度こそ、完全に命を絶たれたのだと思っていた。

 しかし、もう少しだけ、あと一度だけ、僕らには戦うことが許された。


しんすけづきまさ。君たち三年生はどうする? ここで引退しても問題はないけど」

 選手権予選は八月から十一月まで続き、全国大会は一月におこなわれる。決勝戦の開催はセンター試験の数日前だ。これまでサッカー推薦で入学した者には、選手権予選まで部に残ることが強制されていたが、今やそんなルールもなくなった。

「残るに決まってんだろ」

 ノータイムで鬼武先輩は吐き捨てる。

「このまま終われるかよ。俺の目的は廃部を阻止して、あしざわ監督が積み上げた歴史を守ることだ。偕成には二年続けて逆転負けをくらってるからな。今度こそリベンジを果たす」

「俺は大学に行きたいんだよね。モラトリアムを延長して、もっとこの美しさを磨きたい」

 鬼武先輩に続き、手鏡に映る自分の姿をチェックしながら口を開いたのは葉月先輩。

「だから部に残るよ。俺に努力と勉強は似合わない。サッカーで華麗に推薦をもらうさ」

 おどけるように言って見せた後で、葉月先輩はもりこし先輩に視線を向けた。

「俺も迷惑でなければ残りたいです。やっと試合に出る喜びを経験出来たんだ。部活動を続けながらでも大学受験は出来ます。両立出来る自信もある。残らせて下さい」

「勉強も続けるつもりかよ……。まったくクレイジーな奴だな」

 森越先輩を見つめながら、頰を引きつらせて葉月先輩が零した。

 三年生が全員、部に残る意思を表明し、華代を含めた二十三名の部員は、誰一人として欠けることなく、選手権予選に挑むことが決まった。抽選会は七月におこなわれ、大会は八月末からスタートする。シードに入れば初戦は遅れるだろうが、あっという間にその時はくるだろう。

「それじゃ、最後の戦いに出向こうか。もう私たちは誰にも負けない。次の目標は頂点だ!」

 部会が終わり、仲間たちは気持ちを新たにしてグラウンドへと出て行く。

 今日からもう一度、新生レッドスワンの戦いが始まるのだ。


 部員たちの姿を華代と共に見守っていたら、最後に残った伊織が近付いてきた。

「あのさ、華代」

 視聴覚室には既に三人しか残っていない。僕も席を外した方が良いだろうか。

 伊織の意思を確認しようと思ったのだけれど、彼の視線は華代しか捉えていなかった。

「告白の返事。申し訳ないんだけど、もう少し待ってもらえないかな」

 華代から視線を外し、頰を搔きながら伊織は告げる。

「まだ何にも成し遂げていないのに、こんな状態でお前と付き合えない。待たせてしまって悪いんだけど、選手権予選が終わった後で、返事を聞かせてくれ。それを言っときたかっただけだから」

 そんな言葉を最後に、伊織は早足に視聴覚室を去って行った。


 今度こそ、マネージャーの華代とコーチの僕が、二人きりで室内に残される。

「伊織は振られるかもって考えないのかな。何で私が待たされてごめんみたいな話になるんだろう」

 苦笑いと共に華代は呟く。

「今は選手権予選のことしか考えられないってことなんだろうね。今日の部会の後じゃ、そういう気持ちになるのも分かるけどさ。世怜奈先生って一流のモチベーターだよな」

 彼女の言葉に乗せられて、チームはここまで上昇して来たのだ。

「前から優雅に言いたかったんだけど、あんまり世怜奈先生の話を盲信しない方が良いと思うよ。あの人、噓はついていなくても、思っていることを正直にすべて話しているわけじゃないから」

「……どういうこと?」

「先生が赤羽高校に就任したのは、大卒三年目の六月でしょ。不思議に思ったことなかった? あんなに監督をやりたがっていたのに、どうして二年間も別の高校に勤めていたの? 親族に根回ししてもらって、もっと早く赴任出来たはずだよね」

「……赴任のタイミングに何か特別な理由があったってこと?」

「さあ? 私も知らないよ。世怜奈先生はお喋りだけど、肝心なことは話さないから。いつかJリーグの監督になって、日本代表の監督にも登りつめるって言ってたけど、そんな夢物語を本気で考えていると思う? 偕成学園も美波高校もレッドスワンの敵じゃないって、本当に確信していると思う? 正直、私にはそうは思えない。きっと、何が起きても自分にだけ批判の矛先が向くように、先生はあんな挑発的なことを言ったんだよ。つまりはそういうこと」

「華代がそんなことを考えていたなんて知らなかった」

「私、世怜奈先生のことが好きだから支えたいの。でも、そのためには先生のことを、きちんと理解していないといけないと思う。コーチの優雅にも同じ状態でいて欲しかった」

 そういうことか。華代は別に世怜奈先生に対して疑いを持っているわけではないのだ。

 ただ、真っ直ぐに支えるために、あの変わり者の監督を心底理解したいと願っている。

「世怜奈先生はもしかしたら、喋ったことを自分でも確信していないかもしれない。皆や自分を奮い立たせるために、大言壮語を吐いているだけなのかもしれない。でもさ、私たちの力でそれを現実に変えることは出来ると思うんだよね」

 妄想にも似た夢や目標でも、吐き出された言葉の真偽を決めるのは未来の自分たちだ。

「ねえ、優雅。九ヵ月前に尋ねそびれたことを、聞いても良いかな。正直に答えて欲しい。今、優雅はどう思ってるの? このままサッカー部に残る意思はある?」

 ……何だ。そんな質問か。だったら答えなんて考えるまでもない。

「むしろ、もう辞めたいなんて気持ちはじんもないよ」

 開いていた右の手の平を、ゆっくりと握り締めていく。

「チームを強くするために、やりたいことが山ほどあるんだ。そうやって、このチームで県を制覇したい。全国の強豪とも戦いたい。今はそういう野望みたいな目標が心の中心にある」

「そっか。だからなのかな。最近の優雅は、死んだ魚みたいな目をしていないものね」

「……そんな顔をしていたの?」

「何もかもを悟り切った老人みたいな顔をしてること、よくあったよ。一緒にいて鬱陶しかった。大好きだったサッカーが出来なくなったんだから、ある程度は仕方ないって分かっていたつもりだけどさ。実際、今でも落ち込むことはあるんだろうし」

「そりゃ、時々はね。過去の浅はかな自分に対する怒りで、眠れなくなる夜もある。でも、まだ高校生活は残っているし、復帰を諦めたわけじゃない」

 いつかまた、このチームで仲間たちと共に戦えたなら、それはどんなに素敵なことだろう。

 愚かな若者はいつだって、失ってから手にしていた当たり前の幸福に気付く。僕もまた、そんな何処までも馬鹿な一人の男だけど……。

「もう一度、皆と戦いたいって願いが叶わなくても、多分、必要以上に絶望することはない。世怜奈先生にコーチの仕事を与えられて、本当は何も奪われてなんかいなかったんだって、ようやく気付けたんだ。喜びも、情熱も、夢も、希望も、全部この場所にあった。僕は何も失ってなんていなかった。だから、もう自分から立ち去ることはしない。だってさ……」

 もう二度とフィールドに立てなくとも。

 チームのために、この足で戦うことが出来なくても。

 サッカーは、この大切な宝物のような競技は、僕からどんな幸せも奪ってなんていなかった。

 今ならあの日、彼女が言っていた言葉を、胸を張って言えるだろう。


「僕もサッカーを誰よりも愛しているから」




The REDSWAN Saga Episode.2『レッドスワンの星冠』に続く


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