第六話 破滅の黙契(3)


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 県総体ではレギュレーションにより、後半の開始が前半終了から十分後と規定されている。

 用事があるから先に戻っていてと先生に言われ、選手たちと共に戻ったドレッシングルームには、飽和した怒りと失望が満ちていた。

「何で持ち場に戻らなかった! どうしてチームで決めたルールを守れないんだ!」

 おにたけ先輩がだかの肩を勢い良く小突き、たたらを踏んだ小さな背中が壁に激突した。

「……何すんだよ。自分で取ったフリーキックを蹴らせてくれって言って何が悪いんだ」

「お前はこの大会の意味が分かってんのか! 負けたら終わりなんだぞ! 俺たちが戦ってるのは、ただの一試合じゃないんだ。積み上げられた歴史を背負って……」

「そんなもん知らないっすよ。全国大会に何回出場したとか、そんな大昔の話、何の関係があるんすか? 練習中に水も飲めなかったような時代の話でしょ」

「敬意を払えよ! お前が今ここにいるのは、これまでレッドスワンで戦ってきた人たちがいるからだ。先輩たちが積み上げた実績があったから、恵まれた環境で練習出来ていたんだ。それが全部、今日で終わりだ。お前らの愚かなプレーのせいで、何もかもぶち壊しだ!」

 先輩が怒りに任せて蹴り飛ばしたペットボトルが、うずくまっていたおうろうに直撃する。

「央二朗、お前もだ。唯一のGKが退場したら、そこで終戦だってどうして分からないんだ! 死ぬ気で練習してきた結末がこんなもんだとはな。去年、早々に辞めていった奴らが正しかったってことだ。覚悟もない奴らと一緒に戦うなんて、所詮、馬鹿げた話だったってことだ」

「覚悟がないのはあんたも一緒だろ」

 ドレッシングルームの中央から、低い声が響く。

 顔を歪めて鬼武先輩が振り返った先で、おりが先輩を睨みつけていた。

「後輩に当たってんじゃねえよ。あんたに穂高と央二朗を責める資格なんてねえだろ」

「何だ、お前? この期に及んで俺にまで喧嘩を売りてえのか? 幾らでも買ってやるぞ。どの道、戦いは終わったんだからな。暴力沙汰で敗退になろうが知ったことか」

「あんたたちは去年もそうだった。勝手に投げ出して、独りよがりに諦めて、根性無しはあんたたちじゃないか。俺たちを押しのけて試合に出ていたくせに、簡単に諦めやがって。覚悟がないのはあんたの方だろ! 一年に八つ当たりしてんじゃねえよ!」

 伊織はそのまま鬼武先輩に摑みかかる。

「何であんな下らないカードをもらったんだ! あんたはこのチームの核だぞ。俺たちは六試合、戦わなきゃならないんだ。あんたが途中で欠けたらまずいって、どうして分からないんだ! 央二朗のカードを責める前に、まずは俺たちにあんたが謝れよ!」

 イエローカードは一試合で二枚提示されると退場になり、次節も出場停止となる。累積ならば二枚目の警告を受けても退場とはならないが、次節に出場停止のペナルティを科されるのは同様だ。

「やめとけ、伊織。どうせ、そいつには分かんねえよ」

 呆れたような声を発したのは、意外にもかえでだった。

「そいつらが根性無しなのは、俺だって去年の試合で嫌ってほどに理解させられた。二点差くらいで諦めやがって。審判を騙さなきゃ戦えないような奴らだ。恐れるような相手じゃねえだろ。勝手にびびって試合を投げやがって。さっさと交代しろよ。勝つ気がねえ奴は邪魔だ」

「下らない怪我でチームに迷惑をかけてる奴に言われたくねえよ。ただの二点差じゃない。最後のGKを失った上での二点差なんだ。現実を見てからえやが……」


「はい。そこまで! 全員、私に注目!」


 パンパンと二回、手の平を叩く音が響き、扉の脇に世怜奈先生が姿を現した。

「ごめんね。スポーツ新聞の記者に写真をお願いされていたの。古豪を指揮する美人監督ってことで、全国紙に紹介されるみたい。これで次の試合は、もっと注目が集まるね」

 室内はてついた空気で満ちていたが、先生はいつもの緊張感のない微笑を浮かべていた。

「本気で言ってんのか? こんな状態で逆転出来ると思ってんのかよ」

「最後の方のやり取りしか聞いてないけど、喧嘩してたんでしょ? 良かったじゃん」

「はあ? 何が良かったんだよ」

「喧嘩が出来るくらい気持ちが試合に戻ってきたってことじゃない。この二週間の空気は最悪だったもん。皆、心ここにあらずだったものね。やっと皆の気持ちが試合に戻ってきたんだから、あのダイブ野郎に感謝しなきゃ。まあ、感謝はしても、すぐに潰すけど」

 先生の顔から一瞬で微笑が消え、その視線が掛け時計に向く。

「手短に言うわ。伊織は着替えてCBに戻りなさい。GKには常陸ひたちに入ってもらいます」

「……俺が二点目を取られたからですか?」

「時間がないから着替えながら聞いて。私たちは残りの三十五分で最低でも二点取らなければならない。十分に遂行可能なミッションだけど、三点目を奪われてしまったら、致命傷になりかねない。DFを練習していた形に戻したいの。常陸をGKにコンバートするのは、バスケットの経験者で手でのボールの扱いが一番上手いからよ。常陸、シュートシーンでは、とにかくグラウンダーの低い弾道に気をつけて。高めのシュートなら勝手に手が反応してくれる」

「はい。先生の指示ならそうします」

 世怜奈先生は次に一年生のなりみやろうに視線を移した。

「狼、前半の出来は及第点だけど、ここで仕事は終わりよ。けいろうさんとひろおみがいれば、中央はまず突破されないって分かった。裕臣をボランチに戻して、中盤はいつもの布陣で戦うわ。りよういちを入れて後半は右サイドからも仕掛ける」

 圭士朗さんのボランチパートナーを争う狼と裕臣は、その特徴がまったく異なる。

 裕臣は狼ほど対人戦に強くないが、陸上経験があり、抜群の持久力を誇る。サッカーはメンタルが影響を及ぼしやすい競技だ。一人の足が止まると全員の足が止まりがちになるし、逆に一人が活発なアクションを起こすことで、周囲にポジティブな影響が波及することもある。裕臣はその運動量で、チームに攻撃のスイッチを入れられる選手だ。

 斜めに走ることで動きを交差させるプレーをダイアゴナルランと呼ぶが、裕臣はそういうかくらんの動きを得意としている。負けている状況で裕臣をピッチに残すのは納得の選択だった。

しんすけ、感情的になるのは悪い癖だよ。もう二度と下らないカードはもらわないで。君がいなきゃ私たちは勝てない。冷静になってね」

「冷静になんてなれるわけねえだろ。あんた、本当に分かってんのか? 人数が足りない上に、GKもいない。おまけに二点ビハインドだ。気持ちでどうにかなるような状況じゃねえんだよ。本気で勝ちたいなら、その姿勢を見せろよ! いつも余裕ぶって、へらへら笑いやがって。あんたからは緊張感が伝わってこねえんだよ!」

 狭いドレッシングルームに、感情を爆発させた鬼武先輩の怒号が響きわたる。

「登録メンバーにしたってそうだ。何で怪我をしてる楓がベンチなんだ? 監督ならベストを尽くせよ。試合に出られる可能性がある奴を、一年でも入れるべきだろうが!」


「楓をベンチメンバーにしたのは先生じゃありません。僕が頼んだんです」


 コーチの僕からよこやりが入るとは思わなかったのだろう。鬼武先輩の唇が止まる。

「あんな汚い真似を繰り返す奴らに、二年連続で負けるなんて耐えられない。勝利のために出来ることは、すべてやっておきたい。そう考えたから、楓をベンチに入れてもらったんです」

「……意味が分かんねえよ。指を骨折している奴にゴールマウスは守れねえだろ」

「時間がないので結論だけ言います。とにかく同点に追いついて下さい。追いつきさえしてくれれば、そこから先は、ベンチの力で勝利をり寄せて見せます。準備しておいたアイデアがあるんです。だけど、まずは得点を取らなきゃ話が始まらない。穂高」

 大きく身体を震わせて穂高が顔を上げる。その両目に涙が溜まっていた。

「僕は前半のミスを責めないよ。楓に怪我をさせてしまった責任を、自分で取りたかったんだろ? 気持ちは理解出来る。考え無しに軽率な行動を取ったんじゃないって分かってる。でも、チームのルールは守らなきゃ駄目だ。そうじゃないと、せっかく立てた作戦が台無しになる。チームに迷惑をかけた責任は、楓本人に取らせるから、自分の仕事に集中して欲しい」

 目元を拭い、穂高は楓に視線を向ける。

「……どういう意味? 楓、GK、出来るの?」

「まあ、余裕で出来るけど、そっちはやらせてもらえねえ。そうじゃなくて、秘密兵器として試合に出るんだよ。フィールドに出ても俺はゴミどもより有能だからな。優雅の策ってのが気にくわねえが、同点に追いついてくれさえすりゃ、あとは俺が何とかしてやるよ」

「……お前、その指で本気で出るつもりなのか?」

 鬼武先輩がくぐもった声で問う。

「ああ。あんたと代わってやろうか? SBくらい余裕でこなして見せるぜ」

 背番号1をつけたフィールドプレイヤー用のユニフォームは、既に用意してある。

「二点リードしている以上、こちらの反撃が強まれば、敵は必ず自陣に引きます。中央を崩すのは今まで以上に困難になる。ポイントはサイドを攻略出来るか否かだ。だから、ウイング適性のある涼一を狼の代わりに投入するんです。先生、そういうことですよね?」

 僕の問いに対し、世怜奈先生は満足そうに頷いて見せた。

「敵は穂高のスピードに対応出来ていない。疲労が溜まる後半はファウルも増えるし、数的不利に左右されにくいセットプレーは、これまで以上に重要になる。準備してきたことを思い出せば、焦る必要も絶望する必要もないんだ。僕らの攻撃が、この程度の敵に通用しないはずがない」

 世怜奈先生はドレッシングルームの中央に進み出ると、アセロラドリンクをがぶ飲みしていたリオに目を向ける。

「後半の作戦は優雅が言った通りよ。ワントップはリオに任せる。期待してるからね」

「ユアウェルカム。エネミーのファイトにはベリーベリーアングリーだったからな!」

「鬱陶しいから日本語をちゃんと喋ってね」

 世怜奈先生は掛け時計に目を移す。

「時間だから行こうか。三十分で一点を取れば良い。焦る必要はないわ。アディショナルタイムを考えれば、それからでももう一点取れる」

「先生、もう一つ良いですか?」

 右手を上げた僕に、全員の視線が再び集中する。

「前半を見ていて気付いたことがあります。相手の左SBは横の動きに弱い。鬼武先輩とづき先輩に準備してもらった例の作戦を使いたいです。先のことを心配する余裕はない。偵察に晒されるでしょうけど、ここで実戦に投入すべきです」

 次におこなわれる試合の勝者が、二回戦の対戦相手だ。どちらのチームもスタンドからこのゲームを観戦している。手の内を晒すのは得策ではないが、負けてしまっては元も子もない。

「ティーチャー。俺も優雅の意見に賛成だよ。俺という切り札を使うべき時は今だ」

 無意味に前髪をげ、しかも、何故か鏡に映る自分を見つめながら葉月先輩が告げる。

「皆は俺を左サイドのスペシャリストと評価しているけど、別の場所でだってラブリーに輝けるのさ。それをお見せするよ。この逆境は真実の封印を解くに相応しい舞台だ」

 封印とか馬鹿なことを言ってないで、常に全力でプレーして欲しいのだが……。

 まあ良い。品性はともかく、葉月先輩の実力に疑いはない。

「OK。後半のキープレイヤーは両SBと穂高よ。ミスを帳消しにする働きをしてきなさい」

 もう言葉はいらない。

 不満も、失望も、怒りも、願いも、このハーフタイムで十分に吐き出した。伊織が右の拳を強く左手の平に叩き込み……。

「今度こそ、あいつらをぶっ潰す。行くぞ!」

 レッドスワンは後半戦へと歩き出した。


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