『たかが』という犯罪

冷門 風之助 

前編

 その日、俺は暇だった。


 いや、その日ばかりじゃない。


 このところもう二か月近く、暇な状態が続いている。


 無理もなかろう。


 例の『新型なんとかウィルス』の蔓延で、都内はほぼパニック状態だ。


 こんな時、わざわざ新宿くんだりまで足を運んでくる依頼人がいるとも思えない。

 そうは言っても、何もしなけりゃ、顎が干上がる。



 何せこっちは一本独鈷、個人経営の私立探偵オペレーティヴ様なんだからな。


 銀行預金は今のところまだ多少の余裕はあるが、それだってこの先何時いつまで持つか分かったもんじゃない。


 しかし首から札をぶら下げて依頼人を探して回る訳にもゆくまい。


 コーヒーを3杯飲み、シナモンスティックを3本齧った。


 そこにノックの音がした。


 俺は半分”待ってました”という気分になりながら、ドアに向かってどうぞと呼びかけた。


 ドアから入って来たのは、重武装の男だった。


 額まで隠れるほどのニット帽。


 大きなサングラス。


 そして顔の下半分をすっぽり覆ってしまうマスク。

 おまけに肘くらいまである、革製の手袋と来ている。


 幾らウィルスの脅威の中を潜り抜けてきたといったって、ここまですることはあるまいにと思いながら、まず一昨日薬局でようやく手に入れた消毒用エタノールの噴霧器を差し出した。


 彼はそこでようやっと手袋、二ット帽、そしてサングラスを外したが、マスクだけは『これだけは勘弁してください』といってソファに座った。


 仕方ない。

 俺もデスクの引き出しを開け、エタノールと一緒に手に入れたマスクをめた。


 彼はジャケットから名刺入れを出し、卓子テーブルの上に置く。


 映画監督・映像プロデューサー、島村京介、とある。


 最近問題作を幾つか発表して”鬼才”との呼び声も高い映画監督だ。


『花田弁護士から聞いて来たんですが・・・・』彼はこっちの承諾も受けずに、エタノールのボトルを勝手に使い、マスクのせいで籠ったような声を出した。


 花田、というのは、確かに覚えのある名前だ。


 仕事で二度三度顔を合わせたことがある。


 結構売れている名前だ。


 ああ、断わっておくが、

”売れている”というのは、

”有能だ”とか、

”人柄がいい”とかいうのとはまったく関係がない。


 弁護士にも色々いる。


 彼の場合、単に口が上手くて商才に長けている。それだけのことだ。


『実はあることで今非常に弱っているんです』


 彼は傍らに置いたバッグの中から写真とファイルのようなものを取り出しながら、ため息交じりにそう言った。


彼の話によると、こうである。


 実は今度、新しい映画を撮ることになった。


 ある女優をイメージして脚本も書き、向こうにもオファーを出して、内諾を取り付けていた。


 ところが、ようやく決定稿が出来上がり、それを彼女に渡した途端、向こうから連絡があり、


”折角だが、この役は降板させて欲しい。”


 というのだ。

 

 幾度か彼女と対面し、説得を試みたものの、向こうは頑として、

”個人的な理由なんです。わがままと言われても構いません。どうしても出来ないんです。”


 その繰り返しだったという。


 さすがの鬼才監督も、これには頭を抱えてしまった。


 幸か不幸か今回のウィルス騒ぎで幾らか余裕が出来、撮影に入るのもコントロールが効く。


 しかし、彼女ほどヒロインのイメージにぴったりする女優はいないのだから、何とかして受けて貰いたい。


 で、花田弁護士に相談したところ、


”君が直接出て行くよりも、第三者に頼んで、冷静な目と耳で調べて貰ったらどうだ?”


 とのアドバイスを受け、それで俺、つまりは”東京一の名探偵、乾宗十郎いぬいそうじゅうろう”への依頼をする気になったのだという。


『・・・・ま、とりあえずもう少し詳しくお話を伺いましょうか?依頼を受けるか否かはそれからということで如何です?』


 俺はわざと勿体をつけた。


 本当なら懐具合も考慮して、すぐにでも飛びつきたいところではあるが、俺にだって探偵プロとしての意地があるからな。




 

 

 


 

 

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