天井の逃走劇1-2
アルカードは咥えた煙草に
道順を聞こうにも、周囲には誰もおらず、勘を頼りにただ歩き回るだけである。
外観より遥かに広く感じる城内には、大広間に押しかけた客人たちの話し声が響いているが、どんなに歩いても、さながら迷路のように目的地は遠い。
――退屈だな。用事がある父親の代わりに出席したはいいけど、やっぱ楽しくねえし。
昇ってゆく紫煙をぼんやり眺めながら、内心で愚痴を零す。
アルカードも、吸血鬼として永き時を生きてきた。人間だった頃と違い、仕事に追われることもなし、早寝早起きもしなくなった。
あれだけ欲していた時間が、今は腐るほど手元にある。
生前からの趣味であるピアノ。大好きだった一曲を、夜通し弾き続けていたら、ある時ふと、その曲を奏でるのが嫌になってしまった。
そういうことを何度も繰り返した。やがてはピアノに触れることすら億劫になった。大好きなピアノを嫌いになってしまいそうで、恐ろしかった。
父親に「そんな暇なら、私の代わりに出席してくれ」と尻を蹴飛ばされて、仕方なく今夜は、エディ・ソワーズの主催する夜会に参上したのだが、正直、来るんじゃなかったと後悔している。
何度、突っかかってやろうと思ったか。喧嘩じゃ負ける気はしないが、わざわざ自分から騒ぎを起こすのも面倒なので、無視を決め込んでいた。
さっさと帰ろうかとも思ったが、それだけでは癪なので、来たからにはただ飯をたらふく食ってやろう、と一心に大広間を目指しているのである。
腐るほどある時間の使い道を模索する日々に戻るのは、それからでも遅くはない。
……しかし、無限にある時間の有効活用術を考えるのも、そろそろ苦痛になってきた。
生前の友人らはとうの昔に鬼籍に入っている。
生前の生活サイクルは吸血鬼に不要である。ましてや起きている時間が違う。何世紀経っても吸血鬼は太陽には適わないし、食糧たる人間に溢れた社会で、腹八分目で生きてゆくのも楽ではない。人間と同じで、吸血鬼も空腹には弱い。否、吸血鬼の方が空腹には弱い。
昔のように、好き勝手に人間を殺せる時代じゃないのだ。人間が不審な死に方をすれば、全世界へそのニュースが広まってしまう。
三貴族たちは騒ぎになるのを好まず、なるべくなら、人間社会に干渉しないで生活したいと思っている。
しかし、全ての吸血鬼が、そのようにお利口なわけではない。
とくにあいつは――エディ・ソワーズは、理想の馳走を目の前にして食欲が抑えられる程、行儀が良い男ではないのだ。
☆
レオンは二階にやってくると、手摺から身を乗り出して、天上まで吹き抜けになった夜会の会場を見下ろした。
ざっと目を通すが、眼下には優雅な魔物たちの夜会の様子が広がっているだけである。レオン・シェダールという侵入者の存在には全く気が付かず、和やかな気配が満ちている。
あーあ、腹減ったな……レオンは、思考の真ん中を過ぎった緊張感に欠ける独白を、首を振って追い払う。
追ってきた三人の他にも家臣がいるはずだ。また、いつ背後を取られるかわからない。
もう油断はしない。四方八方、全てに意識を張り巡らせ、どこから襲って来られようと、そっ首叩き斬って迎え討つつもりである。
レオンは正面を見た。その視線の先には、己の放つ灯りにきらきらと輝く、豪華なシャンデリアが釣り下がっている。
しばらくレオンは、それが放つ輝きに目を留めていたが、ふと何かを思いついたようにニヤリと笑うと、美しい細工の施された手摺の上によじ登った。
真下に広がる夜会の絶景。この壮観たる世界を、悲鳴のナイフが引き裂いたら、エディはどんな顔をするだろう。自分の開いた夜会が、最悪な形でちゃくちゃにされたら、あの美しい顔はどのように怒り狂うのだろう。
レオンは人の悪そうな笑みを深めると、何を思ったか、足場を蹴り上げて、会場の上、高さ十メートルの空間に躍り出た。
落ちる! と思いきや彼の爪先は、シャンデリアのアームを支えるリングをしっかりと引っ掛け、手摺からの距離、約十メートルをものともしない跳躍力で、夜会の真上で燦然と輝く照明器具の上に着地を果たす。
シャンデリアは大きく揺れ、下にいた数人の客が天井を見上げた。だが、まさか視線の先に人間がいるなんて思いもしないだろう。その証拠に、すぐに元通りの喧騒へ戻ってゆく。
レオンはこいつを天上から落下させようと考えた。夜会はフォローの余地なくめちゃくちゃだ。
相手がショックで放心している隙を突いて、自らが犯した罪の代償を払ってもらうとしよう。
エディのプライドをずたずたにする。そしてその命も頂く。プライドを傷つけられたのはこちらも同じ。
シェダール家の名にかけて、与えられた最初の任務を無事に遂行してみせる。
☆
「あー、やっと戻って来られたぜ。……ん?」
丁度その時、下の大広間をうろうろしていたアルカードは、頭上になにやら気配を感じ、背中を反らして真上を見た。
微かにシャンデリアが揺れているな、と思ったら、煌びやかな光りの隙間から、ちらちらと人が動いているのが見えた。あんなところに誰かいるのか、と訝しんでいると、やがて彼はその正体に気が付いたようで、大きく目を見開いた。
「げ」と妙な声が出て、「あのガキ、どうやってあんなところ登ったんだ?」
周囲の視線が一瞬だけアルカードに向くが、独白の出所が彼だとわかると、すぐに興味を失ったようにそっぽを向いてゆく。
皆、気付かないのか。天井に潜む狩人の存在に。
――何やってんだ、あんなところで。落ちたらどうする……。
その時、視界の端で何かが大きく動いた。はっとそちらに目を向けるや否や、アルカードの顔は不快そうに歪んだ。
「エディ・ソワーズ……!」
二階の廊下からエディが、レオンのいるシャンデリアに飛び移ったのだ。煌びやかな光の群れが、再び微かに揺れる。
――馬鹿野郎! あのガキ、自ら退路を断つような真似を!
アルカードは、考えるより先に吸血鬼の波を掻き分けて、二階へ伸びる正面階段を駆け上がった。
……楽しいことが待ち受けている子どものような表情を浮かべて。
☆
さて、どうやってこの巨大な照明器具を落下させてやろうか。ナイフで切り落とせるような軟な代物ではないし……やはりここは――
レオンは、天上とシャンデリアの繋ぎ目を、まるで睨むような目付きで見上げた。
深緑の双眸に、暗い色が混ざって……と、その時だった。
突き刺さるような殺気を感じて、振り返ったその刹那、レオンの白い首を、氷のように冷えきった骨ばかりの手が掴み上げた。不安定な足場の上に物凄い勢いで引き倒され、人の何倍もの力で首を締め上げられる。首の骨が折れる一歩手前だ。
思わずレオンはナイフを取り落とし、首に巻きつく手を引き剥がそうと、必死に爪を立てた。しかし手は剝がれるどころか、より一層強く巻きついてくる。
――放せ……!
頭の中を去来する言葉は、口に出せぬまま、苦しげな呻き声に変わる。
先程レオンが、渾身の力を込めて殴った頬には傷一つついていない。流石吸血鬼といったところか、人間離れした治癒力だ。
「人間風情が! よくも私の顔に泥を塗ったな!」
雅な視線を放っていた赤い瞳は獰猛にぎらつき、裂けた唇の端から伸びた牙は、まさしく血に飢えた獣のそれだ。もう、夜会の中心にいた美貌の青年の姿はどこにもない。目の前にいるのは、紛れもなく、人を喰う化け物である。
首筋に食い込む鋭利な爪が、脈打つ皮膚を穿つと、少年の喉から短く途切れた空気が洩れる。
レオンは、苦痛に引き攣った顔を無理矢理笑わせた。
「それは、お前が、人間風情に、舐められちまうような器だったって、だけだろ……!」
「お前……!」
エディの赤い瞳にどす黒い色が混ざった。それと同時に、カッと割れた口内が、まるで血のようにぬらりと光り、若い馳走を前にした牙が、レオンの首の肉を突き破った。
「……ッ」
穿たれた穴から温かな血が流れ出す。白い肌の上を這った化け物の舌が、甘美な美酒を味わうかのごとく妖艶に蠢いた。
だが次の瞬間、エディ・ソワーズは弾かれたように上半身を仰け反らせた。
「ウッ……、お前……!」
エディは愕然と呟き、口の中に入ったレオンの血を、ペッと吐き出した。
肩で息をし、顔を真っ赤にしたレオンは、流血する二つの穴を片手で押さえながら、にやりと笑った。
「お上品なエディ・ソワーズ。僕の血はお気に召さなかったかな?」
「なに……」
しばらくの間、エディは呆然としたようにレオンを見下ろしていたが、やがて納得したように目を細め、二、三度頷いた。
「そうか、お前……なるほど。ふふ、“半端物”というわけか。吸血鬼ハンターになるために生まれてきた男だな」
レオンは手をついて上半身を起こすと、挑発的な笑みを浮かべ、
「そう、そして、お前を殺す男でもある」
それから声のトーンを落し、続けた。
「アメリア・バート……ジェシカ・クレーン、グレース・フィンチ……」
エディは、何を言い出すんだ、と訝しんだ。
「マイア・ホーク、フィービー・ノーブル……お前はこの名前を聞いて何を思う」
エディは眉を顰め、口を噤んだ。どのような答えを求められているのかわからないといった様子だ。
レオンは残念そうに目を伏せる。
「……ははッ、そうだよな。お前は口を閉ざす。あたりまえだ。これが普通さ。いつ、どこで、自分が何を食ったかなんて、いちいち覚えてるわけないもんな」
レオンは、かろうじて指先に引っかかっていた十字架を、エディの額に突きつけようと腕を伸ばした。しかし、それは吸血鬼の怪力でもって制されてしまう。
「放せ……」
レオンは地を這うような低い声で言った。
「エディ・ソワーズ……お前は、僕に殺されるべきなんだ。お前のような奴は、生きていてはいけない」
「うるさい。殺されるべきはお前だ。俺が直々に手を下してやる」
その時、やけに大きな足音が二人の鼓膜を打ちつけた。ばたばたと、忙しない騒音の登壇に、両者の思考は一時的に外部へと逸れた。その刹那、
「大丈夫か、吸血鬼ハンター!」
声のした方を、エディは振り返った。
「カンタレラのガキ!」
この瞬間をレオンは逃さなかった。
右手をジャケットのうちポケットに滑り込ませる。ほんの一瞬のことであった。再び表に現れた手には、銀色の拳銃が。大嫌いな硬い手触りを掌に握り締め、銃口をエディの心臓部に定めた。
「ヘイ、エディ・ソワーズ」
ぞわぞわと這い登ってくる不快感を胸の奥底に押し込めながら、引き金に指をかけた。
こちらを向いたエディ・ソワーズは、己を睨みつける冷たい銀の筒の奥を見つめ、小さく息を呑んた。
「レオン・シェダール、お前……!」
「黙れ。お前から、時間という概念を剥奪する」
パン、と乾いた音が反響した。それと同時に、エディの左胸に小さな風穴が開く。
二人の間に流れる時間だけが、束の間、凍りついたように固まった。
銃口から、白く細い煙が微かに立ち上っている。
――ああ、やっぱり……この銀色は不快だ。
レオンは、胸焼けを堪えるかのような険しい顔で呟いた。
たちまち獰猛さを失った吸血鬼の瞳は、目の前の若き宿敵を見下ろすと、
「たかが人間の、クソ小僧……」
と、掠れた声を零した。真珠色の頬がひび割れ、渇いた泥のようにボロボロと剥がれてゆく……。紛い物の彼の美貌は、砂の城が波に攫われるかのごとく、姿を晦ましつつあった。
「僕は人間なんかじゃないぜ」
レオンは微笑むように目を細めた。
「僕はダンピールだ」
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