嫌われ者のアルカード1-1
黒髪の吸血鬼、その名をアルカード・カンタレラという。
吸血鬼社会を牛耳る三貴族の一つ、カンタレラ家の長男である。
今夜は招待された父、スバル・カンタレラの代理でこの夜会に参加したのだが、他の参加者から向けられる視線はあまり友好的でない。
その理由は明白で、それはアルカードが正式なカンタレラ家の血筋でないこと、そして――死後、吸血鬼に転化した元人間であることが原因だった。
人間だった者が死後、吸血鬼に転化する事例は数多くあるし、元人間だからと言って、吸血鬼社会で差別を受けることは殆ど無い。
彼らは、元人間で、きちんとした血筋でない、しかも素行のよろしいとは言いがたいアルカード・カンタレラが、強い権力を持った貴族の一員だということが気に喰わないだけなのである。
――貴族なんか、なりたくてなったんじゃねィ。親父の奴が勝手に決めたんだ。
アルカードは、背中に突き刺さる冷たい視線に苛々しながら、ケッと喉を鳴らす。
針のような視線から逃げるように、庭先に転がるレイナードに近付いたアルカードは、燃えるような赤い瞳で冷然と彼を見下ろす。
「ふん、ざまあねぇな、こんにゃろ。ちょいと顔がいいからってチョーシのりやがって。あのときの仕返しだ」
アルカードは唾でも吐きかねない様子で、八つ当たりとばかりに、何度も足元の頭をげしげし蹴った。
あのとき――百年前に初対面で、「余所者のたなぼた野郎」と
ひとしきり憂さを晴らし終えると、アルカードはふと顔を上げ、大広間を見渡す。
――それにしても、あの生意気な子どもは何者だ。仮にも三貴族の一員であるオレに挨拶もしないとは、随分と世間知らずな坊やだ。
☆
レオンが広間に戻ると、どこにもエディ・ソワーズの姿はなかった。先程まで彼と談笑を交わしていた客たちも、今は別の相手とおしゃべりに夢中の様子。
「見失った……!」
焦燥感に駆られて広間内を探し回るも、目立つ長身の姿はどこにもない。
――自室にでも戻ったのか?
レオンは賑やかな大広間を抜け出し、人気のない廊下に滑り出た。廃城だとは到底信じられない程、綺麗に手入れが成された長い廊下の先に、直角に折れ曲がった角がある。
壁に背中を張り付けて真っ直ぐ進み、そっと角へ顔を出す。左右を見、周囲に誰もいないことが確認できると、屋敷の奥へ向かう形で進んでいった。
床には赤い絨毯が敷き詰められ、喧騒から遠ざかりつつあるレオンの足音を吸い取ってくれる。
しばらく歩いてゆくと、夜会の賑わいから最も遠ざかったところから、人の(否、おそらく吸血鬼の)話し声がした。
レオンは壁にくっつきながら、そっと足を止めた。
耳に意識を集中する。レオンは他人と比べてちょいとばかり耳が良い。遠くの会話を探るように神経を研ぎ澄ませば、声は弱々しく彼の鼓膜を揺らし始めた。
――いたか。
――いない。レイナード様はどうした?
――それが……。
――金髪の若い男だ。
――……安っぽいタキシード……。
――……。
――探せ……。
――……。
誰かを探しているらしい会話だ。望み薄ではあるが、尋ね人が自分でないことを期待しながら、レオンは次の角を右へ曲がった。
――その時だった。角を曲がった途端、物凄い力で背後から頭部を殴られたのだ。
欠片ほどの気配も感じなかった。なにで殴られたのかはわからないが、目の前がちかちかするほどの強力な衝撃だった。
――跡をつけられていたのか。だとしたらいつから? ここの屋敷の奴か? ああ、背後を取られてしまうなんて、僕としたことが――。
意識を失う直前、レオンはやわらかな絨毯の上に倒れ伏しながら、己の失態を悔いた。
一面に広がる暗闇の中央を、時折雷のような眩い光りが弾ける。
その光りが弾けるのと同時に、目のずっと奥の方がずきずきと痛み、やがて暗闇が薄っすらと白みがかってゆく。
瞼越しに太陽を見ているみたいに視界が赤い。重い瞼を持ち上げると、世界は水中から見た景色のように酷くぼやけていた。いくらか瞬きを繰り返せば、不確かだった視界が徐々に像を結び、世界がくっきり見えてくる。
ずっと遠くに豪華な装飾の天井があった。
黄色い照明は、キラキラ輝くシャンデリアから煌々と放たれ、ああ、豪華だな、などと思わずぼんやり眺めてしまう。
後頭部と背中を抱きとめる柔らかい感触。どこかに寝かされているらしい。
しばらくそうして、寝起きの気だるさに逆らわず、悠長に天井だけを眺めていたが、不意に見覚えの無い風景に違和感を抱いて、
――あれ、ここァどこだ。
と思考を巡らせた。
手を動かそうとして、指先がほんの少ししか持ち上がらないことに気が付く。
眠っていた思考が一気に覚醒した。
どこにも拘束されている様子はないのに、全身が全く言うことを聞かない。自分の身体じゃないみたいだ。例えるなら、やけに意識がはっきりした金縛り状態、と言ったところか。
そこでレオンはようやく、自分が敵の手中に落ちてしまったことを悟った。この脱力感は、
吸血鬼は血だけでなく、生物の体力――エナジィを吸い取ることも出来る。実際に吸われたのは初めてだったが、こんなにも気だるく、瞬きすら億劫になるとは思わなんだ。
まずいな、と動かない身体とは対照的に、頭の芯が冷たい炎で激しく炙られるような感覚。脳に回したいエネルギーがなかなか巡ってゆかず、苛立ちが募ってゆく。
自分でもびっくりするくらい大きな舌打ちが洩れると、それを聞いていたのは自分だけではなかったらしく、
「やあ、目が覚めたようだな」
気さくな声と共に、部屋の空気が動いた。
レオンは瞳だけを声の方へ向ける。
声の主は、革靴が絨毯を踏みしめる音を響かせながら、横たわるレオンの傍に近寄ってきた。レオンは掠れる声でその名前を呼んだ。
「エディ……ソワーズ!」
エディは、うっすら微笑むと、息を呑むほど美しい顔をレオンのそれと近づけて、深緑の目を覗き込んだ。
薄ら寒さを覚える程の妖美なその相好は、魔的なちからでも宿しているかのように、見る者をうっとりとさせた。が、次の瞬間、その美しい表情は、まるでまやかしであったかのように消え失せた。
キュッと縮んだ瞳孔の中に、激しい怒りの炎が揺らいでいる。捲りあがった薄い唇の内側では、生き物の皮膚を食い破る鋭利な牙が露出し、まさに今、レオンの首筋を食い破らんと疼いているに違いない。
美しい顔というのは、それと同時に残忍なまでの冷酷さを伴っている。
レオンは、喉が干上がってゆくのを感じた。眼前に迫った恐怖の権化に対する動揺が、表に現れないようにするのに苦労した。
ゆるくウェーブした金の髪がレオンの頬をさっと撫でて離れてゆく。エディは折った腰を伸ばして姿勢を正すと、盛大な溜息と共に肩を竦めた。
「舐められたものだ。こんな若造に我が豪邸を踏み荒らされるなんて」
エディは嘆かわしげに呟くと、レオンの足元にそっと腰を下した。
「ふふ、動けないだろう? 暴れられたら困るのでね。お前のエナジィを少しばかり頂いたよ」
冷酷な顔に、今度は嗤笑が浮かんだ。
「私は警戒心が強い方でね。どうも様子のおかしい客人がいる。そこで、家臣にその客人の監視を任せたのだが、あいつはたかが小僧の一撃で、すっかり役に立たなくなってしまった」
彼の語る様子のおかしい客人が、自分を示しているということはすぐに理解できた。
「レイナードはソワーズ家の家臣、アンバー一族の長子でな。昔から何事にもやる気は十分なのだが、それを生かせる頭脳が足らんのだ。だから、見習いの吸血鬼ハンターなぞにあっけなく敗北してしまう」
エディは呆れたように、視線を自分の足元に落とすと、
「レオン・シェダール。わたしたちの祖先と因縁のある血筋か」吐息のような声で独白した。
名前まで知られているのか、と落胆したレオンだったが、よく見てみるとエディの手には、ポケットにしまっていた筈の学生証が握られていた。いつの間に抜き取られたのか。
「聖エドアルドの学生か。十九歳……まだ十九年しか生きてないのか。その朝陽のような金の髪――私は陽光を拝んだことはないがね、絵画でしか。稀代の天才吸血鬼ハンター……将来有望な若者よ。お前の未来を私は奪ってしまいたい。シェダール家には代々、一人の子どもしか生まれないのだろう? 今、私がここでお前を殺せば、先祖同胞たちの仇が討てるのだな」
そう。シェダール家には、何代も前から解き放てない呪いがあった。それは今、彼が言ったとおり、シェダール一族は一組の夫婦に一人以上の子が生まれないということ。
レオンは八代目当主となるわけだが、先代も先々代も、そのさらに先代も、シェダール家のたった一人の当主として、役目を務めてきた。
「よく、調べてある、な。……さすがの、エディ・ソワーズも、エドアルドの子孫、は、怖いと見える」
レオンは渇いた荒野のような声で、挑発するようなことを吐き捨てた。
人間の虚勢を鼻で笑ったエディは、学生証をベッドの下に放ると、身動きの取れないレオンの上に跨った。
「さ、どうしてくれようか。大人しく私の食糧になるか。それとも、人間の尊厳を踏みにじられ、いっそ殺してくれと慟哭せずにはいられないような苦痛を味わいながら息絶えるか」
レオンは、ぐい、と近寄ってきた魔的な美貌を睨みつけながら、
「どちらも……お断りだぜ」
力の入らない喉ががさがさと音を立てるのに混じって、その口からは尚も挑発的な言葉の羅列が紡がれた。
レオンは裏返りそうになる声に力を入れて、続ける。
「五件の女性殺害容疑……心当たりは、あるよな? 無い、とは、言わせない」
エディは何も答えない。
「お前に、あるのは、それだけじゃないだろ? 今まで何人、殺してきたんだよ、人間の、女をさ」
「黙れ」
その華奢な手からは想像も付かない力で胸倉を掴まれると、乱暴に上半身を引き起こされた。
「お前の処刑法はこうだ。その喉からじっくり血を飲んでやりながら、順番に一本ずつ手足をぶった切ってやる」
夜会で見せた優美さは、もはや欠片ほども残っていない。エディは品性の無い言葉でレオンを脅すと、三日月形に裂けた唇からギラリと光る牙を覗かせた。
レオンの余裕は引き潮のようにすっと引いてゆき、次いで思考が一気に氷点下を回る。
――万事休す。
死を目前に見た途端、レオンの脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。
――ごめん、ルシー……僕は死ぬ。吸血鬼に負けてしまう。あんたの夢を叶えてやれずにこの世を去ることを、どうか許してほしい。
ハンターとはもとより死地にある仕事。些か早すぎる悟りではあるが、レオンは目の前にした死と向き合いながら、心の中で懺悔した。
レオンの首筋に向かって吸血鬼の牙が襲い掛かる――その時だった!
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