無題短編集

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 柔らかくて優しくてぬるくてずっと体温が低かった。

 たゆたう中でいられたらいいのに。ずっとずっと。

 この波に乗ってどこまでも漂っていたい。それはどうしてかできないということが頭の中ではわかっていた。

 あなたが私の頭を撫でる。でも私はあなたの体温を感じることができない。じゃあこれは幻想? でも撫でられているという実感はあるのに。

 私はあなたを見上げる、あなたは微笑む。じゃあこれは現実。

 私は息を吐く、そして息を吸う。ずっと体が浮いているような、そんな感じがする。

 ずっとずっとあなたは私の頭を撫でている。それだけで私は幸せ。

 柔らかい、柔い、幸せ。それだけ。このまま眠って、二度と目を覚まさずに、眠り続けることができればいい。

 ぼんやりと意識が薄れ始める、ちょうどいい眠気、心地の良いまどろみ。だけどなぜか目を閉じるのが怖かった。

 「眠い?」

 あなたがそう聞く。私は素直にうなずく。あなたはやっぱり私の頭を撫で続けている。

 風が吹く、少し冷えているけど大部分は暖かい。それは懐かしい気持ちにさせる。あの頃の少し新鮮で不安だった気持ちを思い出させてくれる。

 でもやっぱり眠くてどんどんまぶたを開けているのが困難になってくる。

 ここで眠ってしまったら負けてしまう。

 誰に?

 誰と?

 負けたらどうなる?

 勝利の意味は?

 わからない。でも負けたくない。ただそれだけが頭の中を周る。ぐるぐると周回。きっと意味なんてない。

 「私を抱きしめて」

 こんな言葉、幼子の時だって言ったことがないのに。年を取るということは恥を失っていくことなのか、それともその感覚がどんどん鈍くなって鈍感になって最後には何も感じなくなっていくのか。

 あなたは一度だけ私の髪を梳いてからなんの重力も体重もないように抱きしめる。それがあまりにも優しくて抱きしめられている実感はない。でも確かに抱きしめられている。私が欲しかった温かさ、温もり。実際はほとんど感じないのだけれど、でもそれで充分だ。

 ずっとずっとこのままでいることができればいいのに。そうすればずっとずっと幸福の中に浸り続けることができる。

 世界の誰よりも幸せになれる。

 でもその世界はどこにいったのだろう。

 なにも見えない、ただ白い世界のなか、私は振り向いてあなたを見つめる。やっぱりあなたは微笑む。

 誰かへの勝利、でもその誰かは今どこにいるのだろう。もういない? もう消えた? では私は誰と戦っているの?

 もう何もわからない。

 でも私とあなたはここにいる。それだけははっきりとした事実。誰にも覆すことができない。できるとすれば私があなたの心臓を刺すか、あなたが私の首を絞めたときだけ。でもそうやっても私やあなたという物体は消滅しない。一固体が呼吸をやめるだけ、心臓の動きを止めるだけ。それは魂の消失、きっと悲しい。私は声を上げて泣くだろう。だから私はあなたの心臓を刺すことはない。あなたが私の首を絞めるならそれが答え。それがすべて、私は何も抵抗しない。ただ悲しいだけ。魂の喪失、もう私としての意識は消えてしまう。あなたは望みどおり一人になるの。

 勝利なんて本当は求めてはいない。求めているのはいつもただ一つだけ。

 その幸福は今、手に入った。永久的な、永続的な、消えることのない幸せ。満足感、充足感。私はそれをそっと手のひらで包み込む。力をこめすぎて潰してはいけない。

 それはあなたが教えてくれた。幸せの扱い方。

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無題短編集 @sakana124

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