第13話 プロの仕事とは? 1
店の方は相変わらず順調だった。常連客の中には俺が前にいた店から移って来てくれた方も多く居る。
「やはりね、高梨さんの作ったのじゃないと酒が不味くってね」
とか
「あんたの腕に惚れ込んで通って来ているんだ」
そんな事を言ってくれる方も居る。ありがたいことだと思う。そんな中で俺は香織を寿司ではなく、日本料理の方に移動させた。別に香織が何か不祥事をした訳ではない。香織に本格的に日本料理を仕込む為だ。基本的な事は修行して済んでいるから、俺が仕込むのは料理に対する考え方。言い換えれば柔軟な対処の仕方と言っても良い。
そんな時に酒井さんという俺の馴染みの客が店に来た。この方は前の店でも良く来てくれていて、この店でも開店以来数回お見えになっていた。某大手の会社の重役なのだが、店ではそんな事は噯(おくび)にも出さない 。時にはカウンターに座った隣の人とも酒を酌み交わす陽気な酒だった。
そんな酒井さんの好物は金目鯛の煮付けだ。今日も早速注文が来たので俺は取り敢えず香織に作らせることにした。すると香織は
「出来ました。味をお願いします」
そう言って来たので、味見をすると、俺の味より味が薄い
「薄いな。これじゃ駄目だ」
そう言うと香織は
「でも酒井さんは血圧が高くて、医師に味の濃いものは絶対食べないようにと言われています。だから通常よりも薄味にしたのですが」
そう言い返して来た。香織は勘違いしている。俺は他の者にも見せるように香織に言う
「あのな。確かに酒井さんは血圧が高い。でもそれを治すのは医者の仕事だ。もっと言えば、健康に注意して料理に気をつけるのは家族の仕事だ。俺らの仕事ではない。酒井さんが薄味にしてくれと言ったのか?」
「いいえ言っていません」
「なら余計なことなんだ。俺らの仕事はお客の健康を心配することではない。お客を喜ばせることなんだ。料理を作って、味わって貰い喜んで貰うことなんだ。だからこの味じゃ駄目なんだ。貸せ」
俺は香織から煮付けの鍋を取り上げると味を修正した。そして皿に盛り、針生姜を乗せるとホールスタッフに
「これを三番の酒井さんに」
そう言って手渡した。僅かに鍋に残っていたものを香織に
「味見してみなさい」
そう言って食べさせた。
「美味しいです。でもこんなに濃くても良いのですね」
「この味だから酒が活きる。それに全部食べるとは決まらないだろう」
「あ……」
どうやら判ったみたいだった。
「私、大事な事を忘れていました」
プロの料理人として何が大事なのか、少しずつ教えて行かなければならないと強く思った。ホールスタッフがやって来て
「酒井さんが料理長に宜しく。と仰っていました」
そう言って来たのを香織が見ていたのが印象的だった。店を閉めてから甘利が帰る前に
「やはり私も推薦して良かったです。彼女を成長させることが出来るのは、あなたしか居ないと強く思いました」
大げさな事を言うと感じた
「当たり前の事をしただけですよ。普通の料理人なら誰でも出来る」
「でも、全部言わなくて、本人に悟らせることが出来る人はそうは居ません」
「ま、そこは好きに考えて下さい」
俺はそう言って店を出た。終電に近い電車に乗って部屋に帰ると部屋の前に香織が待っていた。廊下の薄暗い灯りに照らされた姿は香織の心の様だった。
「どうした?」
「今夜は一人になりたくなくて」
薄明かりに照らされた顔が少し微笑んだ。
「ま、入れ」
「うん。でも落ち着いたら直ぐに帰る」
「そうか。好きにしろ」
部屋に入ってお湯を沸かず」
「コーヒー飲むか?」
「はい。コーヒーは好きです。少し薄めのブラックがいいです」
この好みは俺が仕込んだのだ。湧いたお湯でコーヒーを煎れ、香織に出すと
「良い香りですね……今日は勉強になりました」
「ま。覚えておけば良いさ」
ソファーに座った香織の隣に座る
「全部食べるとは限らないと言われた時には本当にハッとしました。私の考えに欠けていた部分でした」
コーヒーを口にしながらポツリポツリと語る
「俺達の仕事は常にお客の満足するものを出すこと。少なくとも最善を尽くすこと。それさえ忘れなければ良いさ」
俺がそう言うと香織はコーヒーを飲み終わってからキスを求めて来た。それに応じると
「これ以上ここに居たら、この先まで欲しくなってしまいます。だから今日は帰ります。でも週末、来ても良いですか?」
「ああ歓迎するよ」
「嬉しいです」
そう言ってもう一度キスをして帰って行った。
翌日からの香織は仕事の上でも最新の注意をして行くようになった。周りの者も
「香織さん。何だかグレードが一段アップした感じですね」
そんなことを言ったのが印象的だった。
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