第2話 驚異的な能力
「料理長の高梨三郎だ」
「お噂は聞いています」
珠姫香織はそう言って口角を上げた。だがその眼は表情とは裏腹に笑ってはいなかった。思えばこの時に握手でもしておけば、もっと早くから気がついていたかも知れなかった。だが珠姫香織は、挨拶をすると何も整っていない料理場に向かってしまった。そして調理場の方から俺に向かって
「ここにある寿司用の皿を洗って片付ければ良いのですか?」
そう俺に訊いて来た。調理場の調理台の上には、回転寿司に使う丸い皿がダンボールに包まれて置かれていた。この店の寿司は値段が五段階に分かれていて、それぞれ皿の色が違う。
皿そのものは他の回転寿司と同じプラスチック製だが一見しただけでは、それとは判らない作りとなっていた。
「ああ、食器洗浄機で洗って値段ごとに食器棚に収めてくれ。追っ付け他の者も来るから」
調理や寿司の三名は交代でやって来る事になっており、午前は各一名が来ることになっていた。そして午後には交代要員の二名がやって来る事になっていた。
「了解しました」
珠姫は、静かだがハッキリと聴き取れる声で返事をした。
この店はホールの中央に楕円形の回転寿司特有のベルトが置かれている。今は動いていないが、開店すればこれが回りだす。そのカーブしている一方が、バックヤードに流れていて、お客からは見えなくなっている。ここでベルトの中で握っている寿司以外のもの……刺し身の盛り合わせとか、特に高価な食材を使った手のこんだものを作って出す事になっている。勿論バックヤードでは中で握っている寿司職人に向けてシャリに載せる具材をスライスして用意もする。
バックヤードはその他は普通の日本料理の調理場で、ベルトに沿ってカウンターが並んでおり、その脇入るとテーブル席となっている。ここでは寿司を頼むのも出来るし、コースの料理を頼むことも出来る。更に奥に行くと個室があり、ここでは四〜五人の会席から結構な人数の宴会も出来るようになっている。店の規模としてはかなり大きい方だろう。
料理責任者の仕事はメニューの作成だ。特にこの店は日本料理と寿司の組み合わせが試される店だ。通常なら料理のコースの最後は日本料理の場合は赤出汁と御飯と決まっている。季節の食材を取りれた御飯などで変化をつけるが基本的は変わらない。だがこの店の場合は最後に握り寿司が出る事になっている。
コース料理の最後を寿司で締めるのは珍しい。寿司はそれだけで完結する料理だからだ。前菜から始まって吸い物、煮物、酢の物、刺し身、揚げ物、と流れて行き、最後に赤出汁と御飯で完結する日本料理のコースとは基本的に違うのだ。
日本料理の板前は文字通りまな板の前に立つ存在を表している。それは刺し身を引くという意味でもある。だから本来の板前は、天ぷらや鰻、そして寿司はやらない。それらは、それぞれ「職人」と呼ばれる者が行うからだ。所謂、寿司職人、天ぷら職人、そして鰻職人である。その昔は「剥きもの師」と呼ばれる存在もあった。有名なのは人参や筍で鶴亀を作ったり、南瓜で松を作ったりする職人のことだ。今では京都に僅かに残っているが、東京では消えてしまった。俺がこの道に入った時は数名の剥き者師がまだ居たが、今は居ない。板前はそれを仕入れて煮物に使ったりしていたのだ。昔は分業だったと言う訳なのだ。
そんな事を考えながらコース料理の内容を店長の甘利と考えていた。すると珠姫が
「終わりました。片付きました」
そう声をかけて来たのだ。俺は思わず時計を確認した。五種類の皿はそれぞれ百枚あるから全部で五百枚だ。食器洗浄機は一度に24枚ラックに並べられる。洗う時間は洗浄とすすぎで九十秒かかる。つまりラックの交代の時間を無視していても三十分以上はかかる計算だ。だが彼女はそれを二十分掛からずに終わらせたのだ。まさかと思い見に行くと、皿が綺麗に棚に並んでいた。
「どうやった?」
自然とそんな言葉が口から出た。
「食洗機の一回の時間が九十秒ですから、洗い終わった皿を棚に並べて、次のラックに皿を並べたら、もうすることがありません。だから、その時間に手で皿を洗っていました」
「は、そんな僅かな時間でか」
「はい、わずかではありませんですが」
時間の概念が自分とは違っているとしか思えない言葉だった。
その時早番の者が店にやって来た。日本料理の者と寿司担当の者だった。高梨はそれぞれ面識があった。
「おはようございます。高梨さん」
「おはよう。紹介する。今度新しく入った、珠姫香織くんだ。最初はバックヤードで働いて貰う。慣れたら店に出ることになっている」
高梨は予め甘利と相談した仕事のシフトについて二人に話した。二人は珠姫に向かって
「はじめまして、調理の山本です」
「寿司担当の井上です」
そう自己紹介をした。そうすると珠姫は
「お二人とも初めまして、この度入店させて頂きました珠姫香織です。何分初めてですので色々とご指導下さい」
そういって頭を下げた。その下げ方だが、頭が膝に届くような下げ方だったので、俺も山本もそして井上も驚いてしまった。
「開店に向けての準備を進めてくれ、回転寿司用の皿は彼女が洗ったから今度は料理用の器にお荷を解いて洗って食器棚に収めてくれ」
三人にそ言うと三人は「分かりました」と言って作業に入った。その姿を見て俺はメニューの作業に戻る。
「珠姫さんどうでした。上手くやれそうですか?」
部屋に戻ると甘利が尋ねて来た。彼は店長室に居て、今のやり取りは見ていない。
「いや、それは大丈夫だと思いますが、それにしても作業が速いんですよ」
俺の言葉に甘利は半笑いの状態で
「作業が速いって、だって食洗機でしょう?」
そう言って俺の言葉が理解出来ないようだった。
「それが、食洗機を回してる間に手作業でもやっていたんですよ。だから通常の半分で済ませてしまっていたのですよ。それも汗ひとつ搔かずにですよ」
そんな会話をしていると部屋のドアがノックされた。
「店長、高梨さん。少し良いでしょうか?」
その声は先程の山本だった。
「ああ良いよ。入れ」
俺の言葉で山本が部屋に入って来た。背の高い若者だ。
「どうした?」
問に山本は
「あの彼女……珠姫さんですか、仕事の仕方が……」
「仕事の仕方? 雑なのか?」
本来なら、日本料理に使う器は回転寿司とは比べ物にならないぐらい高価でもあるし、形状も複雑だ。だから食洗機では洗えないものも多い。だから手作業で洗わなくてはならないのだ。だから時間も掛かるので俺は三人でやらせたのだ。
「雑というより、メチャクチャ速いんです。それでいて器の取り扱いが丁寧なのです。何かそれだけ何かマシーンみたいで……」
先程のことからも、作業が速いとは思っていたが、山本が驚くほどとは思っていなかった。彼は高卒で入社四年目になる。一人前とは言えないが、店では日本料理では焼き方をしている。この店では煮方もさせるつもりだった。仕事に関しては間違いの無い作業をするので、この店に抜擢されたのだそうだ。その山本が戸惑うとは普通ではないと思った。
「判った、様子を見に行こう」
甘利に目配せをして山本と一緒にバックヤードの調理場に向かう。そこでは寿司職人の井上が珠姫の作業の速さに付いていけず、混乱していた。
「ああ、高梨さん」
井上は救世主を見るような眼で俺を見た。そこでは珠姫が洗った器が洗い物を揚げる大きな水切りの笊に山と積まれていた。井上はそれを一つずつ拭いているのだが、珠姫の洗う速さが尋常ではないので、たちまち器が積まれて行くのだ。
「珠姫くん」
俺が呼ぶと珠姫は手を止めた
「笊を見て見なさい。拭くのが間に合わないのでうず高く積まれているじゃないか。それ以上積まれると器が崩れて割れてしまう。作業はコンビネーションが大事だ。一人だけ速くても仕方ない」
そう言って注意した。すると珠姫は
「申し訳ありませんでした。器を壊してしまっては本来の目的とは違って来ます。それは私の本意ではありませんでした」
今度は布巾を手に取ると器を拭き始めた。今度はそのスピードが尋常じゃなかった。結局、その日一日、珠姫の作業の速さに山本と井上が振り回されたのだった。店に帰る時刻になると二人が喜んだのは言う間でもない。
夕刻になると
「今日はここまでにしよう。もう帰っても良いよ」
全ての従業員に向かってそう言って皆を帰らせた。そして店長の甘利に向かって
「甘利さん。珠姫香織は何者なのですか。あれだけの能力を持ちながら他の人間と上手くコミュニケーションが取れないという……何かの病を持っている人間なのですか? それに態度が丁寧だけど何となくそっけない感じもしますしね」
甘利は俺の言葉を聞いて暫く考えていたが、
「今日、これから時間はありますか?」
そんな意味不明なことを尋ねて来た。
「まあ時間ならありますよ。独り身ですから部屋に誰が待ってる訳でもありませんからね」
半分笑いながら答えると甘利はスマホで何処かに電話をかけた
「もしもし甘利です。今日最初の作業をさせたのですが……はい、そうです。やはり彼だけには、キチンと説明した方が良いかと……はい、それではこれから向かいます。店を閉めて行きますので三十分もあれば、そちらに到着すると思います」
甘利はそう言って通話を切ると
「高梨さん。今夜私と同道願います。色々と説明致します」
そう言って立ち上がった。
何を説明するのだと疑問に思ったが、店の実務を預かる身としては全てを把握しておかなくてはならないと思い
「判りました。一緒に行かせて下さい。着替えて来ます」
そう言って着替える為に自分のロッカーに向かった。
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