第241話 料亭・揚羽亭の危機

翌日から探索も一件に絞られて皆の行動に余裕が見られる様になった。

皆は心の鍛錬も為されているので焦りや忙しさは普通の者たちには解らぬが龍一郎と佐紀には歴然とその違いが解った。

怒り、焦りは気配を消す事を疎外するのである、龍一郎は皆の心の鍛錬の不十分さを痛感していた。


二日後に思わぬ処から道場に知らせが入った。

料亭・揚羽亭の小僧が龍一郎宛ての手紙を持って現れたのである。

門の近くを掃除していた婆が受け取り道場で稽古を付けていた龍一郎に渡した。

受け取った龍一郎は裏書、つまりは差出人を見ると即座に断りを入れて奥へ引っ込むと文を読みだした。

日頃、何にも動ぜぬ龍一郎の只ならぬ動きに何かを感じた佐紀、久、小兵衛が奥の龍一郎の側に行った。

読み下した龍一郎が珍しく考え込み文机に向かうと文を掻き始めた。

文を書き終わると誠一郎を呼んだ。

「誠一郎殿、この文を能登屋の番頭・善兵衛殿に龍一郎からじゃと渡し、至急、大至急、揚羽亭の女将に内密に渡して下され、とお願いして下さい、其方は番頭殿がお店を出るのを確かめたなら、此方に戻って下さい、くれぐれも番頭殿の跡を付けぬ様に、揚羽亭に近づいては成りませぬ、良いですね」

「は、はい」

誠一郎は何時に無く厳しい表情と物言いに驚き急いで外に飛び出して行った。

「佐紀、他出します、其方の二人、大身旗本の次男坊とその内儀の役です、揚羽亭に参ります、支度を願います」

「何事じゃ、龍一郎」

我慢出来ずに小兵衛が尋ねた。

「揚羽亭のお高殿より文にての知らせです、松前藩・留守居役殿と用心棒が客として来た様です、予約は別人だった様で驚いた様です、揚羽が気に入られた様で用心棒の腕前が思いの外凄く、太刀打ち出来そうも無いとの事で己らの腕前を隠す事に精一杯の様子です、そこで私と佐紀が馬鹿侍の役でもしもに供えに参ります、皆に申しておきます、くれぐれも揚羽亭に近づいては成りませぬ、用心棒に気配を気取られれば揚羽亭全員の命に関わります」

佐紀が大身旗本の馬鹿息子が着ていそうな派手な絹物の衣装を用意した。

佐紀は既に自分の衣装も備え化粧は済んでいた。

佐紀の化粧は普通の人の化粧とは逆で美人に見える様にでは無く不細工に工夫していた。

一旦絹物に着替えた後に脱ぎ忍び装束に着替え絹物は風呂敷に詰めて背中に背負った。

そして皆の前から消えた。

「その用心棒の腕前は相当の物の様でのぉ~、儂では相手に成らぬ様じゃて」

「この江戸にまだその様な技前の武士がおりましたか、お前様」

「うむ、江戸におらなんだかのぉ~、じゃが日乃本中に知らせたはずなんじゃがな~」


龍一郎と佐紀の二人は加賀屋の主の隣室に現れた。

「総左衛門殿、龍一郎と佐紀で御座います、隣室を着替えに暫しお借り致します、その後、裏口より失礼致します、この事は御放念下さい」

「龍一郎様、佐紀様、お久し振りに御座います、御壮健で御座いますか」

総左衛門の問いに返事は無かった。

総左衛門は暫しの後に襖を開けたが其処には風呂敷包みが二つあるだけだった。

総左衛門は二つの風呂敷包みを自室に運び押し入れに仕舞った。

加賀屋の裏口から出た龍一郎と佐紀の二人はさも間の抜けた旗本の息子と嫁らしく見えた。

龍一郎は刀がさも重そうに歩き、佐紀は佐紀で小物入れをぐるぐると回し周りの顰蹙をかっていた。

二人は昼酒でも飲んだ様に少しふら付いて料亭・揚羽亭に向かった。

揚羽亭の玄関では珍しく女将が待ち構えていた。

「これは此れは、岩澤平四郎様、お峰様、お久し振りで御座います」

女将は玄関から奥に向かって大声で叫んだ。

「岩澤様の御夫婦がお見えです、奥の間へ案内をお願いしますよ~」

揚羽亭では此れまでにこの様な事は無かったので奉公人一同が驚き、入って来た二人を見て又驚いた。

そして、奉公人たちは女将が大声で叫んだ訳を悟った。

「これは、岩澤様、暫く振りで御座います」

皆から声が掛かり、奥から小走りにお花改め揚羽が出迎えに出て来た。

「岩澤様、お待ち申し上げておりました、お久振りで御座います、さぁ、さぁ、お部屋へご案内申し上げます」

案内された部屋は奥の二つ目の部屋であった。

勿論、隣は松前藩・留守居役と用心棒と二人を招いた主賓の部屋であった。

挨拶と注文を受けた頃、隣の部屋から大声が聞こえた。

「女将、女将を呼べ、若い方じゃ」

「これ、其方ら、わらわの評判を落とす様な振る舞いをするで無い」

「はい」

「わらわと同席する刻位は行儀良う致せ、良いな」

「解りましたよ」

「わらわが予約せねば、この料亭には入れぬぞ」

「そんなものですかねぇ~、只の料亭でしょう」

「其方らの品の無さでは玄関払いが落ちじゃな」

「私は力ずくでも自分のやりたい様にしますがね」

「其方は松前藩の留守居役であろう、その品の無さで良く勤まっておるのぉ~」

「藩邸では猫を被っておりますよ」

「何じぁな、猫を被るとは」

「本性を隠して、大人しく丁寧な言葉使いで行儀も良くして居ますよ」

「わらわと一緒の刻には、その猫を被ってはくれまいかのぉ~」

「畏まりました」

「うむ、顔付まで違うでは無いか、凄いものじゃ、隣の用心棒殿は変わらぬのか」

「この者は剣の腕前が売り物で御座いますれば、変える必要は御座いませぬ」

「それでわらわを呼んだは何用じゃ」

「はい、銚子の配下共が居なく成りました、消えたのです、それ故、暫くは魚をお渡しする事が叶いませぬ」

「漕ぎ手共は役所に捕らえられたとの知らせが松前屋に入って居ります、が松前屋の手代が行方知れずとの事で御座います」

「わらわとこの台所役の名は出ぬであろうな」

「それは御心配無用の事、松前屋は私共が黒幕と思っております」

「何、其方はわらわが黒幕と申すか・・・黒幕とは悪の親玉では無いか、無礼な」

「失礼とは存じますが命を出します一番上の位の者を黒幕と申します、我らの中ではお須磨の方様、其方様が一番で御座いますれば黒幕と申せましょう」

「そうか、わらわが黒幕か~、黒幕も良いものじゃのぉ~」

「それにしても、御台所方は無口な方ですなぁ~」

「其方が連れておる用心棒殿が怖いそうな、姿を見ると口が効けぬ様になると申してな」

「それは、其れは、ですが珍しい事では御座いませぬ、此れまでにも幾人も居りますれば」

「そうか、わらわは味方故に其方に危害は加えぬと申しておるのだがなぁ~」

「左様、味方は殺めませぬ、故に敵には成りませぬ様に」

「解っておる、その者ならば大奥とて安心は出来ぬわえ」

「この者の剣技が並外れている事は知っているが忍びの技まで出来るとは聞いてはおらぬがな」

「儂には忍びの技は無い」

珍しく不気味な武士が口を開いた。

「おぉ~、珍しや、その者の声をわらわは始めて耳に致したぞよ」

「お局様、そろそろお戻りの刻限で御座います」

「其方らも来やれ、其方らだけすると何をするやと心配で成らぬ、わらわと一緒に来やれ」

「・・・解り申した、同道いたしましょう」

「帰るぞ、妖七郎」

部屋の障子を台所役が開け、お須磨の方と呼ばれた女性が先頭に歩き留守居役、台所役、用心棒の順に玄関へ向かった。

途中で慌てた女将が応対に出て来てお礼の挨拶をすると台所役の男が会計した。

「こんな頂けません、多過ぎます」

「良い、取って置いてくれぬか、次の機会の良い接待を期待しよう」

松前藩・留守居役は名残り惜しい風情を見せながらもしぶしぶと玄関の門を出た。

女将が見送りに外に出てお礼の挨拶をしお局が迎えの駕籠に乗り込み去って行くまで見送った。


奉公人たちが客が帰った部屋の片付けをしている中、女将と揚羽が隣の龍一郎と佐紀の部屋に入って来た。

「急なお呼び出しにも関わらずお出で頂き大変ありがとう御座いました」

「お気持ちは解ります、気に為さらぬ事です、その為の仲間ですよ」

女将の礼の言葉に佐紀が優しい声で返した。

「あの不気味な武家には私達の腕前では到底叶わないと判断致しました」

「良い判断でした、しかし、私にはお二人の技量を偽る事が出来たとは思えませんでした」

「佐紀、その通りじゃ・・・あの者は二人、いや御亭主殿も含め三人の技量が解っていたであろう」

「無駄な争いを避けたのでしょうか」

「あ奴はその様な殊勝な者では無い、逆に弱いと解っている者をいたぶる事を好む奴じゃ、主賓に気を使ったのであろう、其れよりも今直ぐに玄関門の外に見張り立てる事じゃ、私には二人が此のまま帰るとは思えぬ」

女将が奉公人に伝え男衆が一人玄関へ向かった。

「処で、女将、主賓であった大奥の者は初めてでは無い様だの」

「はい、三度か四度目で御座います」

「その折に同席の者は居ったかな」

「本日のお供の方と二人でしたが、一度だけ能登屋の番頭さんと御一緒でした」

「能登屋の番頭な~」

「はい、番頭さんには珍しく帰りの機嫌が悪かったのを覚えております」

その刻、玄関を見張っていた奉公人が慌てて駆け込んで来た。

「女将さん、武家の二人が路地に戻って参りました。

龍一郎が立ち上がった。

「佐紀、其方は見ていても良いが離れておれ」

龍一郎がそう言うと部屋を出て玄関も出て門の外に出て二人の武家を待ち構えた。

「おぉ~、隣の部屋で飲んでおった、しこめの女房持ちでは無いか」

その刻、後ろを歩いていた用心棒が留守居役の前に庇う様に出て来た。

「どうした、妖七郎」

「どうやら、我らは謀られた様じゃ」

「どう言う事じゃ、たかが何処かの旗本の馬鹿息子であろうが」

「いや、並々成らぬ技前の者じゃ、儂でも勝てぬやも知れぬ」

「其方が勝てぬてか・・・そうは見えぬがなぁ~」

「殿、酔いが覚めました、本日は此れまでと致しましょう」

「帰ると言うのか、うむ、其方が言うのなら従がおう」

二人は踵を返すと来た道を戻って行った。

龍一郎は奉公人の一人に声を掛けると二人で一緒に大通りまで歩いて行き武家二人の後ろ姿を見詰めた。

揚羽亭の門の前で佐紀と女将が龍一郎と一人の奉公人を見ていると龍一郎が奉公人に耳打ちすると奉公人が走り去った。

龍一郎が門前に戻ると言った。

「能登屋の番頭殿を呼びに行かせた、部屋に案内してくれぬか」

龍一郎はそう言うと佐紀を連れて部屋に戻って行った。

暫くするとどたどたと廊下を走る音が聞こえ襖が勢い良く開かれ龍一郎の認めると入って来た男はその場にへたり込んだ。

能登屋の番頭・弥衛門であった。

番頭は頭を畳に擦り付ける様に平伏した。

「龍一郎様・・・お久しゅう御座います」

番頭・弥衛門は突然、はっとしてその場を見渡し立場を理解し己の龍一郎に対する態度を改め様とした。

その場には佐紀、女将のお高、若女将の揚羽がいた。

「番頭殿、安心しなされ、この場におる者たちは皆、私の素性は御存じです、ですが其方と私の繋がりは知りませぬ、今はまだその刻ではありません」

「龍一郎が此方でお待ちとの事付けに急ぎ参りました」

「それは御足労をお掛けしました、其方に尋ねたき事がありお出で頂きました」

「はて、何で御座いましょう」

「お高殿から聞いたのだか、其方が一度、大奥の方と同席された事があったとの事、その話の中身を知りたくてな」

「大奥の・・・あぁ~お須磨の方の事で御座いますな」

「そう聞きました」

「その会の後、珍しく番頭の其方が憤慨している様に見えたと女将が申しておる」

「はい、私共、能登屋では大奥の皆さまからそれぞれ個別にご注文を受けて居ります、あのお須磨の方は大奥の注文の窓口になってやると申しまして、ついては口利き料をと申しました、自分が口利きをすれば注文が増える、儲かると申しました」

「それで返事はしたのかな」

「番頭の私の判断では返事は出来ませぬ、とその場での返答を避けました」

「その事でも、お須磨の方はご立腹で御座いました、大奥の私が会いたいと申すのに主では無く番頭を寄越すとはわらわを愚弄しておる、などと申しました」

「私は大奥の方々と何人もお会い致しましたが、あの方ほど礼儀知らずで我が儘な方は初めてで御座いました、又その提案も呆れるものでした」

「返答ですが、私には旦那様の答えは知っておりました、私もですが答えは否で御座います、ですがその場では保留とさせて頂きました」

「その後、催促は無いのですか」

「今の処御座いませぬ、私も旦那様も不思議に思うておりました」

「な~に、他の儲け口を見つけただけの事ですよ」

「他の儲け口で御座いますか・・・迷惑された方がいるので御座いますね」

「そう言う事です」

心の鍛錬をし表情を日頃、表情を表さぬ佐紀、お高、揚羽の表情が珍しく厳しく怒りが現れていた。

「あのお須磨の方は私も許せませぬ、私の生母の名はお磨須と言うのです」

「何と・・・許せませぬな」

佐紀の声は怒りに満ちていた。

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