第239話 探索・松前藩邸
「お前様、武家屋敷はこんなにも火災が多いのですか」
「武家屋敷だけでは無い、お佐紀も江戸の名物を知っておろう」
佐紀の問いに龍一郎に代わって昔に詳しい小兵衛が語った。
「火事と喧嘩で御座います」
「そう、その通りじゃ、真左様に江戸は火災が多い、元は様々じゃそうな、煙草の火の不始末、行燈の倒れ、行燈に着物が落ちた、竈の不始末、料理油の不始末、子供の火遊びなどじゃが、悪質なのは放火じゃ、中でも質の悪いものは左官、大工、などの職人に寄る放火と材木商に寄る放火じゃ、家が燃えて無くなれば新たに建てねば成らぬからのぉ~、そうなれば仕事が増え銭が入ると考えるのじゃ、外には面白半分に火を点ける者もおるそうじゃ、明暦の大火は聞いた事があろう、十万の人が亡くなったそうじゃ、江戸は跡形も無く燃え千代田の城も燃えた、故に千代田の城には、それ以来天守が無い、それ以前にも天守が燃えた事があったそうじゃが立て直した、が其れには莫大な金子が掛かる、お上にはもうその様な金子は無いでな」
「爺、天守って何」
舞が無邪気に尋ねた。
「火の見櫓を知っておろう、あの何十倍も高い物見櫓じゃ」
「爺、お城には大きな建屋が幾つもあるよ、あれが天守じゃ無いの」
「舞、あれは千代田の城の物見櫓じゃ、城から四方を見張れる様に幾つもあるのじゃよ」
「じゃ~あ、あれが本当のお城じゃないの~、爺」
「そうじゃ、舞、昔は大きな大きな櫓の何倍もの大きな天守があったのじゃよ、まぁ、儂も見ては居らぬがな、儂は今も残る他の城の天守閣をみておるから解る、儂が行った処は高崎の城じゃ」
「松前藩は五度も焼失しています、多く無いのですか」
「加賀前田家も一度か二度の火災に合うておる、千代田の城も儂が知るだけでも五度の火災に合うておる、それ程に江戸の街は火事が多いのじゃ」
「そんなに多いのに何か防ぐ方か小さく済む方は無いの、爺」
「此れまでにも歴代の上様がいろいろな事をしておる、いっぱいある火の見櫓、火除け地などじゃ」
「火除け地って何だ、館長」
今度は平太が聞いた。
「火が広がらぬ様に所々にある広場の事じゃ」
「えぇ~、あれは子供の遊び場じゃ無いのか~」
「馬鹿者、只の遊び場に空けておくものか」
「館長は俺に対する態度と舞に対する態度が全然違うよなぁ~」
「当たり前じゃ、舞は可愛いからのぉ~」
「あ~あ、どうせおいらは可愛く無いよ、ふ~んだ、今度の試し合いで爺を叩きのめす」
「まだまだ、平太には負けぬぞ」
「それ位にしなされ、お前様」
「平太殿、父上を叩きのめした刻は、私がお相手致します」
お久の小兵衛への窘めの後に佐紀の平太への一言が続いた。
「皆でおらを虐める気か、師匠は味方だよね」
「儂も佐紀には勝てぬ、平太の負けじゃ」
龍一郎にも見捨てられ平太はしょげ返った。
浅草観音前の敷地千二百坪の松前藩上屋敷を隣の屋敷の屋根の上から龍一郎と佐紀が眺めていた。
「噂の薄気味の悪い用心棒殿の気配は致しませぬね、お前様」
「せぬな、儲けた金子で別邸でも建てて愛妾と用心棒を連れて住んでいるのであろう」
「さて、何処でどう始末を付けたものか」
「あら、お前様が迷うなど珍しい事」
「儂とて人ぞ、迷い、悩み、不安、苦しみ、弱みはある、其方の前では正直になる・・・」
「お前様の弱みは何で御座いましょう」
「聞きたいのは弱みだけか・・・儂の弱みは其方じゃ」
「ありがとう御座います、囚われぬ様に致します」
「頼む、さて、藩主も在府の様じゃ屋敷の様子を見に行こうかのぉ」
「お殿様が在府のおりにも関わらず妾の処に行くとは・・・」
「それは私の思い込みに過ぎぬぞ」
「お前様の想像は大体当たります、辻占よりも当たります」
「父上の話に寄れば松前藩は寒い処で米で採れぬ故、石高の無い大名じゃそうな魚のニシンとアイヌ民族との交易で幕府への運上金を賄っているようじゃ、 藩主は宝永二年(1705)から七代の志摩守・邦広様じゃそうな、
家紋は丸に割り菱じゃ、丸に松の字の船は松前屋の様じゃ、解らぬ、それ程藩が困窮している様には見えぬが何故、魚を奪うなどと不思議な事をするのか」
「藩の財政に悪は関係など御座いますまい、お前様の処とて何万両もの蓄えがあると聞いております」
「人の欲の為せる事と言う事かな、儂などは其方と子と仲良う暮らせればそれで良いがのぉ~」
「世間がお前様の様なお方ばかりで有れば平和で御座いますのになぁ」
「さてと、では、参ろう」
「はい、旦那様」
「寿一郎叔父、貴方の推挙故、遠戚の松岡・・・何と申したかな、を留守居役に就けたがとんと顔を見せぬでは無いか」
「松岡千之助で御座います、あの者の親父様に藩は救われておりますれば留守居役に登用致しました、しかし、倅殿は才も心も引き継いでおらぬ様で御座います、残念で御座います」
「第一、あの者が連れておる家来、用心棒の様で薄気味が悪いのぉ~」
「はい、藩士では有りませぬ、名を黒岩妖七郎と申します」
「では次からは儂の前に連れて来るで無い」
「畏まりました、ですが、あの者に拒まれますと、私には止める自信が御座いませぬ」
「其方は江戸家老では無いか、留守居役の上司では無いか」
「お言葉では御座いますが、殿はあの薄気味の悪い者に命じられますでしょうか」
「・・・無理であろうなぁ~、話たくも無い、顔も見たくは無い」
天井裏に潜む龍一郎と佐紀が見つめ合い聞いた事を確かめ合った。
「失礼致します、御留守居役・松岡千之助殿がお見えで御座います」
「殿は千之助だけのお目見えをお許しじゃ」
「失礼をば致します」
言葉と共に襖が開いて千之助だけが膝行して入って来た。
用心棒の黒岩妖七郎は襖の影で眼を瞑り静かに座っていた。
同じく控える二人の小姓は恐怖も露わに座っていた。
流石に凄腕の黒岩妖七郎にも天井裏に潜む龍一郎と佐紀の存在には気付かぬ様であった。
「殿、御用が御座いますでしょうか」
留守居役・松岡千之助が殿様に尋ねた。
この刻の殿様は第五代・松前宜広(のりひろ)で官位は従五位下で冠名は志摩守、在職は寛文五年から享保五年(1665年から1720年)であった。
家老の寿一郎が殿様に変わって答えた。
「殿に在られては我が藩の財政に御心配で在られる。
言わずもがなであるが前回の参勤は九日に江戸を出立し翌月四日に戻ると約一月の長き旅をせねば成らなんだ、長ければ金子も掛かる、日数を減らす方に知恵を出すか、実入りを増やすしか無い、我が藩の収益は米が採れぬ、魚のニシン、アイヌとの交易が頼りじゃ・・・其方に何か知恵は無いかな」
「残念で御座いますが、御座いませぬ」
留守居役・松岡はあっさりと否定した。
「儂の聞いた処では礼文島で採れる利尻昆布が高値で売れておるとの事ではないか」
「高値と申しましても只の昆布で御座います、高が知れて居ります」
「そうか、そうであろうな、昆布で参勤の金子は無理と言うものじゃの、其方も思案してくれぬか、頼むぞ」
「他に御用が無ければ退出致して宜しゅうございますか」
家老が殿様を見て退出を許した。
「失礼致します」
留守居役・松岡が部屋を出て自室へ向かうとその後を薄気味悪い武家も続いた。
殿様の警護に襖際に控える二人の小姓から安心の溜息が漏れた。
「本に薄気味の悪い奴じゃ」
「近くにいるだけで息苦しい」
「某は眼にするだけで息苦しい」
「馬鹿な殿と家老じゃ、のお、妖七郎」
「はぁ、利尻昆布は高値も高値、黄金で御座います」
留守居役・松岡の役室に入ると松岡と用心棒-黒岩妖七郎が言い合った。
無論、天井裏には龍一郎と佐紀が潜んでいた。
「松岡殿は参勤の経験は無いのか」
「一度だけ有る、あれ程に長く疲れる事は二度と御免じゃ、第一蝦夷は寒いし街も小さく寂しい処でな、見目の良い女子も居らぬ、儂は御免じゃ」
「ならば儂も行きたくは無い、受けんでくれよ」
「あぁ、絶対に受けぬ、安心せい」
「もしもの刻は其方だけで行け」
「冷たい奴じゃのぉ~」
二人だけの刻は主従の言葉使いでは無く友の様な言葉使いであった。
「藩邸に居っても詰まらぬ、家に戻るぞ」
「どちらの家に・・・」
「別邸に決まっておるわ、折角、吉原から手に入れた女子じゃからな」
「ふぅ、ふぅ、ふぅ」
薄気味悪い男が一層の薄気味悪い笑いを漏らした。
松岡が武家駕籠に乗り、横を用心棒が歩き、二千、三千米程の旗本屋敷に入って行った。
この屋敷が別邸であると確かめた龍一郎と佐紀は一旦道場へと戻って行った。
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