第172話 登城

明け六つ、千代田の城の正門前に継裃の武士が帯刀し手に木刀と竹刀を持ち現れた。

勿論、小兵衛と龍一郎である、但し他の者がいた。

案内が役目の忠相もいた、そして三人の後に二人の武士がいた。

忠相の嫡男の誠一郎と総髪の若武士であった。

忠相が門衛に労いの言葉を掛けると同伴者のいる理由を説明した。

「上様の大和柳生藩・藩主・柳生備前守俊方様の剣術指南役の剣技をご覧になりたいとの命により相手としてこの者たちを同道した」

「大岡さま、上役よりお聞きして居ります、どうぞお通り下さい」

「忝い」

門の中に入ると御側御用取次以下幕閣の者たちが出迎えた。

当然と言えば当然である、何となれば幕閣の者達も今や橘道場の門下であり招かれた者達は師匠であるからでる。

今や師匠である龍一郎の言葉は彼らにとって神の啓示の様なものとなっていた。

龍一郎は決して政(まつりごと)の話などしない、剣の道の話だけしかしない。

「鉄砲があるこの時代に何故に剣を修行するや・・・剣の届かぬ処から撃てば良い・・・では何故・・・剣を振るうも人、鉄砲を撃つも人・・・剣にて無垢の人を殺める事も罪人を殺める事も出来るだがそれを決めるのも人、鉄砲を向ける相手と時期と刹那を決めるも人・・・どの様に優れた武器を持っていても使う人の技量、心構えが無ければ只の道具に過ぎぬ・・・と某は思うて居ります、私も人の子故に仙人の様に霞を食うては生きては行けぬ、食の為の銭を得んが為に師範をしております、師範の勤めは何か・・・剣の指導・・・それだけでしょうか、私は皆により高みを目指して貰いたい、その手助けこそが師範としての某の勤めと思うております」

皆の前でこんな事を言った事が有った。

聞いていた者達の思いは様々だった。

与力・同心たちは家系故に父から後を継ぎ役向きなど考えた事も無く只役務を熟し悪人を取り締まっていた者が大半だった。

幕閣の者たちも政の力を得たいと上へ上へと邁進している者もいた。

この龍一郎の話を我身に置き換えると奉行所の与力・同心の第一の勤めは江戸の街の平安である、人々の安全である、幕閣の者達の第一の勤めは規模は違えど万民の安全、この国の平安である・・・日々の暮らしの中で己の勤めを見つめた事など無かったと思い知らされ深く反省もし龍一郎の言葉に感銘を受けた者たちがいた。

意図してなのかどうかは不明なれど龍一郎は時々皆の前で剣技の話をする事があった。

それはまるで僧侶の説法の様で聞いている者達の心の奥に降り積もって行った。

それは皆の言葉使いや態度、生活習慣、他の人との交わり方の変化を生んだ。

幕閣内の門弟、奉行所内の門弟たちの周りからの評判が格段に変化していた。

「あの方は温厚に成られた様に感じられる・・・が弱弱しいのでは無く自信に満ちた様にも感じる・・・異な事じゃ」

千代田の城の茶坊主の言葉で有った。

「其方、以前とは別人のようじゃ・・・身体は健康そうに観ゆるし、何より以前とは儂の前での態度が違う」

「以前の私はどの様で御座いましたでしょうか」

「それじゃそれ、以前の其方からその様な言葉など無かったわ、只おどおどしておるばかりであった、小言を言う訳でも叱っておる訳でも無いのにじゃ」

「今は違いますか」

「全然ちがう・・・儂が何を言おうと平然としておる、何やら南の大岡と合うておるようじゃ、あ奴は当初より太々しい奴であった、上様の覚え宜しきを得ての事と思うて居ったが違うようでのぉ~あ奴の性格かのぉ~其方に何があった、何故にそうも変わったな」

「はて、某にはとんと解りかねます、某には変わったとは思えませぬ故に」

「う~ん」

これは老中の一人と北町奉行の会話で有った。

無論、言われた当人には理由は解っていた、橘道場へ通う様になり身体が鍛えられた事、剣技が少しは上達したと言う自負・自信だが一番は時折聞く龍一郎の訓示にも似た剣技の話・・・だと理解していた・・・己の心持ちが変化したのだ・・・と理解していた。


幕閣の者達が石垣に囲まれた坂道と石段が長長と続く道を先導する様に歩んで行った。

小兵衛が龍一郎と佐紀だけに聞こえる極極小さな声で言った。

「この辺りを警護する忍びは忍びとも思えぬのぉ~」

「大権現様の頃より続く家系の者達で御座いましょう」

小兵衛には龍一郎とも佐紀のものとも判断が出来ぬ言葉が答えた。

小兵衛、龍一郎の仲間たちには馴染の道筋であった、警護為に何度も何度も通った道で有った。


----------------------- 江戸城 (別名-江城、千代田城) ----------------

この時代には既に千代田の城には天守閣は存在しない。

明暦三年(1657年)の大火により焼失し幾度かの再構築も考えられたが実現しては居なかった。

本丸御殿は表、中奥、奥と別れていた。

政務等の表儀式は表御殿で行われ、大広間、白書院、黒書院が主な御殿で有った。

中奥は将軍の御休息所としての機能が主な物であった。

大奥は将軍の婦人や側室が住まう処で仕える女官たちも住まいしていた。

千代田の城には本丸以外にも西の丸、二の丸、三の丸などの御殿があり政務を行っていた。

警固など三交代の役務もあり城に居る員数は日と時間により増減があったが三千人から六千人位で有ったらしい、その中には大奥の員数も入る、大奥の員数は千人から多い時代には三千人とも言われている。

因みに本丸御殿は文久三年(1863年)に焼失し再建それる事は無くその機能を西の丸御殿へ移したとされている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

皆が本丸御殿に着き門を護衛する武士たちの間を抜け式台に辿り着いた。

大岡忠相を含めた幕閣の者達が先導し大広間へ向かった。

本来であればこの時点で太刀は預けなければならないのである、が本日は要件が要件だけに太刀の持ち込みが許されていた。

大広間前の廊下に一人の茶坊主が待っていた。

「加納様より白書院へとの上様のお言葉とお聞きして居ります」

御側御用取次の加納 久通(ヒサミチ)を通しての将軍・吉宗の命(めい)で有った。

茶坊主が指し示す大広間と白書院を繋ぐ松の廊下へと皆が歩んで行った。

この松の廊下はあの赤穂の事件の発端となった処である。

白書院前の廊下に一同が平伏し大岡忠相が声を掛けた。

「一同、合い揃いまして御座います」

「入られよ」

中からの声に応え大岡一同が中へと進んで行った。

中から声を掛けたのは御側御用取次の加納であった。

皆は中腰で部屋の中へ進み下を向きながら正面へ身体の向きを変え平伏した。

「皆の者、余の願いにより良く来てくれた、礼を申す」

正面から将軍・吉宗の声が聞こえた。

「皆の者、許す・・・面(おもて)を上げよ」

龍一郎から順番に姿勢を正し顔を正面へ向けた。

皆は吉宗に黙礼し部屋の中を確かめた。

部屋には加納の他に無論要件に関連する柳生俊方が居た、そしてその隣には天覧試合に出ていた柳生流の出場者が二人いた、そして何と上様の下手に大奥の中年寄、八島局(ヤシマノツボネ)様が座っていた。

大奥の者が中奥に来るなど滅多にある事では無く、ましてや幕府要人以外の者たちの前にいる事など稀有な事で有った。

その中年寄の八島局が言葉を発した。

「上様、あの者らに尋ねたき事が御座います、お許し頂けましょうか」

「良い、許す、何成りと尋ねよ」

「ありがとうございます・・・そこな若武者殿は私(わらわ)が知る女性(にょしょう)に良く似ておる、其方は男(おまこ)とも思えぬ美しさじゃ・・・女子(おなご)であれば大奥へ招こうにのぉ~」

野太い男の声で若武者が問いを発した。

「お尋ねによりお答え申します、その前にその者の名は何と申されますな」

「佐紀と申す者でな、廻船問屋の娘であった・・・今どうしておるかのぉ~上様が承知の武家の妻女になると申しておりましたがなぁ~」

「その女子、佐紀はな確かにあの武家の妻女となり子も成したぞ」

吉宗が答えた。

「上様は、あの者のその後をご存知でございましたか」

「何を申しておる、その折りに儂の妻女にすると申した者が、ほれそこに居るではないか」

八島は居並ぶ者達の顔を一人一人確認して行き龍一郎の処で止まった。

「其方は橘龍一郎殿では無いか」

八島は言葉を発した後に己の口を手で覆った。

「何~何故、其方は龍一郎の顔を知っておる・・・さては試合を見に行っておったな」

吉宗の追求の言葉が飛んだ。

「・・・」

「儂はあの試合の前から奥の者達の宿下がりが多いと聞いて、もしやと思っておったが・・・やはり目的はあの試合見物であったか・・・済んだ事じゃ許す・・・で、どうで有ったな」

「お許し頂き有難き倖せに存じます・・・正直に申し上げます・・・見物の甲斐は十分いえ十ニ分に御座いました、あれ程の見物は久しく御座いませんでした・・・特に橘の者たちの働きには感銘を受けまして御座います」

「うむ、儂もあれ程見事な試合は始めてで有った・・・処で八島・・・その龍一郎の顔に見覚えがあろう、其方は直ぐ側で見ておる」

「・・・」

「解らぬのか・・・佐紀を己の妻女にすると申した者じゃ」

「えぇ~・・・確かに言われて見れば似ている様な・・・」

「似ているのでは無い本人じゃ、そしてあの者の妻女は佐紀じゃ」

「では、言葉通りに嫁にしましたのですか・・・子も成した・・・倖せにしておりましょうか」

「・・・本人に尋ねてみよ」

「はい、次の宿下がりのおりに橘の道場に参ります」

「何を申しておる、今尋ねてみよ、と申しておる」

「・・・」

「佐紀、幸せに暮らしておるか??? 龍一郎は大事にしてくれるか」

この吉宗の問いに先程、野太い声で答えた若武者が答えた。

「はい、大変倖せで御座います、私以上に幸せな女子はこの世には居ないと思っております」

愛らしい女の声で答えが帰って来た。

この言葉に内容よりも男と思っていた者たちが大いに驚いた。

城中は原則、女人禁制であるからだった。

「儂の願いにより佐紀を同道したのじゃ、其方らの驚く姿を見られて大いに満足じゃ、愉快、愉快、愉快なり・・・久通、其方道場で佐紀に会うておろう、気が付いておったか」

「恥ずかしながら・・・世の中には美しい男もおるものじゃ・・・と思うておりました」

「うむ、佐紀の美しさは増すばかりじゃ、そうは思わぬか八島」

「はい、奥に居りました時もそれは美しい娘で御座いました・・・ですが今はその美しさに何やら気品と申せば良いのか自信と申せば良いのか・・・」

「儂も佐紀を同道せよ、と申していた故、解ってはいたが・・・あの野太い声を聴いて騙されたわ、俊方、其方は女子と判ったか」

「当然と申し上げたいのでございますが、申し訳も御座いませぬ、解りませなんだ・・・しかし、上様、失礼では御座いますが、お戯れが過ぎる様に思われます」

「其方、忘れておるのでは無いか、女子の部とは申せ優勝者じゃぞ・・・其方よりも強いやも知れぬ・・・今の其方の戯れとの言葉は其方が勝ちを収めた時に聞こう」

「お言葉では御座いますが、某と小兵衛殿との試し合いをご所望と思っておりました」

「その前に小兵衛に聞いておきたい、言えぬなら答えずとも良い、小兵衛、其方と佐紀のどちらが強い」

「佐紀に御座います」

小兵衛が即答した。

これに対し俊方が不満の声を発した。

「何、間違い無いか・・・其方は長年に渡り剣の修行を成し以前は江戸一と言われた剣者では無いか、それが、その者が廻船問屋の娘に・・・龍一郎の嫁になるまでは剣も持った事も無いであろう娘に負けると断言するや」

「はい、ここで残念ながらと申す処かとは存じますが、その様な言葉を申す程の力量の差では御座いませぬ、正直に申しますと某の今は以前に江戸一と言われていた頃よりも数段強いと自負して居ります、ですが我娘佐紀には手も足も出ませぬ、まるで赤子扱いで御座います」

「其方、橘道場の館長であろう、館長として恥ずかしくは無いのか」

余りの怒りに上様の御前である事を忘れたかの様に激高した声を俊方は上げた。

隣に座る俊方の弟子と思われる若武者が驚いた顔で俊方を見ていた。

そして余りの俊方の怒りの激しさと変貌に下を向き小刻みに震え始めた。

「俊方様、失礼とは存じますが、負けた後の悔しさ、恥ずかしさは力量が拮抗している場合と心得まする、力量の差が余りにも大きい場合には感銘、感動、憧れ、目標になると心得まする」

「儂は其方との試し合いを上様と約定し申した・・・其方は立ち会わぬのか」

「いいえ、某が試し合いを致します、ですが条件が御座います・・・上様にお願い申し上げます・・・俊方様と某の試し合いの結果如何に関わらず、俊方様と佐紀、龍一郎の試し合いもお願い申し上げます・・・何となれば佐紀、龍一郎の両名の力量を己の肌で感じてほしいからに御座いまする」

「解った、許す、俊方覚悟せい」

「はは~」

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