第137話 江戸の話題 その一

近頃、江戸のあちこちで人が集まれば話題に上る事柄があった。

「誰が一番強いか?」である、勿論剣術の事で日乃本で一番は誰か、江戸で一番はだれか、歴代で一番は誰か・・・など剣術の話で持ち切りだった。

酒場などでは人選を巡って喧嘩になる始末だった。

事の起こりは一つの読売が余りの平穏に話題に困ったのか「歴代の剣豪十選」なる物を売り出した事でこれが馬鹿売れしたのだ。

これに他の読売が乗っかり「歴代の剣豪達」なる読売を出し、これも大いに売れた。

当初、歴代の中でも宮本武蔵、塚原卜伝・・・などの誰でも知っている剣豪が名を連ねていた。

これに味を占めた読売屋たちは次々と昔の剣豪を列挙しその内容も緻密になって行った。

情報源はと言えば道場主(この頃には橘道場に習い多くの剣道稽古場などの名を道場と改名していた)、武具屋、どこぞの剣術好きの隠居たちであった。


---------------- 読売の記事の一部 -------------------------------

宮本武蔵(みやもとむさし)

天正十ニ年生まれ天保二年没。 

新免武蔵藤原玄信のことであり、兵法者であり、また書画でも優れた作品を残している。二刀を用いることで有名な二天一流兵法の祖。(1584年-1645年 江戸時代初期の剣豪)


佐々木小次郎(ささきこじろう)

誕生年不明 – 慶長17年4月13日。 (1612年5月13日)

号は巌流(岸流、岸柳、岩龍とも)。(安土桃山時代から江戸時代初期の剣客)


塚原卜伝(つかはらぼくでん)

剣豪、兵法家。諱は高幹(たかもと)。号は卜傳。父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。(戦国時代の剣豪)


伊東一刀斎景久(いとういっとうさいかげひさ)

名字は伊藤とも。江戸時代に隆盛した一刀流剣術の祖であるが、自身が「一刀流」を称したことはなかったという。諱は景久、前名、前原弥五郎。(戦国時代から江戸初期にかけての剣客)


富田勢源(とだせいげん)

名は五郎左衛門。剃髪してから勢源と号し、冨田五郎左衛門入道勢源とも称された。大橋勘解由左衛門高能より中条流を学んだ。(戦国時代の剣豪)


中条長秀(ちゅうじょうながひで)

八田知家の養子で鎌倉幕府の評定衆であった中条出羽守家長の末裔、中条出羽守景長の次男。念流開祖の念阿弥慈恩の門に入り、慈恩の高弟である「念流十四哲」の一人となる。 その後、家伝の武術を体系化して中条流平法を創始したと伝えられている。(南北朝時代の剣豪)


辻月丹(つじげったん)

慶安元年 -享保12年 (1648年 - 1727年)

無外流の流祖。諱は資茂(すけもち)。前名は兵内。号は無外、後に月丹。(江戸時代の剣客)


深尾角馬(ふかおかくま)

寛永8年 – 天和2年 (1631年 – 1682年)

武士、剣術家。雖井蛙流平法の創始者。名は重義。号は井蛙。


諸岡一羽(もろおかいっぱ)

天文2年 – 文禄2年9月8日 (1533年 - 1593年10月2日)

諱は常成(つねなり)、または景久(かげひさ)。通称は平五郎。姓は師岡、名は一端、一巴とも表記する。 (戦国時代の剣豪)


根岸兎角(ねぎしとかく)

兵法家。微塵流剣術の祖とされる。 (安土桃山時代)


林崎甚助(はやしざきじんすけ)

天文11年 – 元和3年 (1542年 - 1621年)

居合(抜刀術)の始祖とされる。旧名、浅野民治丸。名字は林崎、通称は甚助、本姓は源、諱は重信。(戦国時代から江戸時代前期の剣豪)



鐘捲自斎(かねまきじさい)

鐘捲流剣術の開祖。一刀流剣術の伊東一刀斎の師とされる。(戦国時代の剣豪)


小笠原長治(おがさわらながはる)

永禄13年/元亀元年(1570年) - 没年不詳

兵法家、剣客。真新陰流剣術の開祖。号は源信斎。直心影流剣術においては道統4代目に位置づけられ、「韜の形」は彼の考案によるものと伝わる。

真新陰流を開く。(江戸時代初期)


疋田景兼(ひきたかげとも)

天文6年(1537年)? - 慶長10年(1605年)

武将、兵法家。姓については、侏田・引田・挽田とも表記される。

上泉信綱(上泉伊勢守)の直弟子で新陰流の兵法家。(戦国時代から江戸時代前期)


松林蝙也斎(まつばやしへんやさい)

剣術家。諱は永吉(ながよし)。夢想願流の創始者。(安土桃山時代から江戸時代初期)


胤栄(いんえい)

大永元年 – 慶長12年8月26日 (1521年 - 1607年10月16日)

興福寺の僧衆(僧兵)・武術家。覚禅坊。興福寺子院の宝蔵院(寶藏院)の院主。(安土桃山時代)

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剣術を「やっとう」と言うのは打ち込む時の「やぁ」「とう」の掛け声から来ているらしい。

中には「えい」の人もいたであろうし、本当かどうかは不明だか薩摩示現流では「ちぇすとう」と言うらしいので「やっとう」と呼ぶ様になったのは不思議と言えば不思議な話だ。

そして「今江戸で強い流派は」なる読売が出された。

そしてとうとう「今の江戸で剣豪は」を読売が書いた。

これは一種の御法度であった、なぜなら剣士たちの面子が掛かっているからだ。

剣士の面子はすなわち属する藩の面子を意味しているからに他ならない。

〇〇流〇〇道場、××流××道場などと流派と剣道場名だけの列挙であったがそれに師範代の〇〇氏と個人名が追加され所属する藩名まで書かれる様になってしまった。

そして、とうとう歴代の将軍家指南役まで登場させてしまった。


-------------------- 読売の記事の一部 ---------------------------

小野忠明(おのただあき)

永禄12年(1569年)- 寛永5年11月7日(1628年12月2日)

徳川将軍家指南役。前名は『寛政呈譜』では神子上 典膳(みこがみ てんぜん、『寛永系図』では御子神)で、後に母方の小野姓を名乗った。子に小野忠常。吉明ともいう。

(戦国時代から江戸時代前期の武将)


柳生宗厳(やぎゅうむねよし)

大永7年(1527年) – 慶長11年4月19日(1606年5月25日)

剣術の新陰流継承者で、官位は但馬守。号は石舟斎、通称は新介、新次郎、新左衛門、右衛門。柳生家厳の子。


柳生宗矩(やぎゅうむねのり)

大名、剣術家。徳川将軍家の剣術師範。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。

大和国柳生の領主で、永禄8年(1565年)に上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家・柳生宗厳(石舟斎)の5男として生まれる。 (江戸時代初期の武将)


柳生三厳十兵衛(やぎゅうみつよしじゅうべい)

慶長12年(1607年) - 慶安3年3月21日(1650年4月21日)

剣豪、旗本。愛刀は三池典太といわれる。

柳生藩初代藩主の柳生宗矩(柳生但馬守)の長男。(江戸時代の武士)

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剣術を題材にした読売は町人にだけ売れた訳では無い。

当事者とも言うべき武士たちの間でも大いに読まれた。

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