第123話 その頃の江戸

小兵衛とお久は道場を切り盛りしていた。

早朝から南北奉行所の同心、与力が大勢鍛錬に来ていた。

勘定奉行所からも寺社奉行所からも日により参加者が変わるが大勢来ていた。

道場開きに来ていた幕府の重鎮たちも暇を見つけて・・・作っては参加していた。

当初は重鎮が参加すると奉行所の同心、与力たちは恐縮していたが小兵衛を始めとする道場の者たちが分け隔て無く接する様を見て敬意は払うが萎縮する事が無くなって行った。

道場開きの翌日に来た重鎮に対した青年が委縮しながらも竹刀を振るったおりに重臣の一人が役職を意識した振る舞いを見せたおりに龍一郎が言った言葉がその後本人から他の重鎮たちに伝わり雰囲気がガラリと変わってしまった。

中には稽古前に来て床の拭き掃除から始める重鎮も現れたほどである。

龍一郎が言った言葉は簡単な質問だった。

「其処(そこもと=あなた)は、何をしにこの道場にお出ででございますか」


三日、四日の間を空けて平四郎も訪れていた。

平四郎が訪れる時は一人では無かった。

七日市藩剣道所の門弟を何人か連れていた。

当初、同道する門弟たちは橘道場の門弟の多くが奉行所の与力・同心が大勢いる事と鍛錬が厳しいとの噂に気後れしていたが館長、師範、師範代たちの優しい応対と解り易い指導に安心し気後れする事も無くなっていた。

平四郎にとって七日市藩の道場を任される前と状況が変わり、今ではその任にいる事に意義を感じなくなってはいた。

今直ぐでも橘道場に来れば師範代の任に着けた、だが七日市藩の道場主だけでは無く藩に仕官している故に簡単に止める事は出来なかったのある。


清吉親子はといえば料亭・船宿と蕎麦屋を営み江戸に名が知られる様に日々努めていた。

平太と舞は忍びの修行の一環とばかりに料理を作ったり運んだりといろいろな仕事を覚えようとしていた。

船宿として名前が徐々に知られ始めたが料亭てしてはまだまだ揚羽亭には及ばなかった。

その揚羽亭ではお花が師匠になり女将に鍛錬の仕方を指導し一緒に鍛錬していた。

また、揚羽亭では清吉の船宿から中居や料理人を受け入れ修行させてもいた。

清吉自身も下足番から始め珍しい男の料理運び役にも熟した。


誠一郎はと言えば本人から父親への願いにより隠密回り同心としての役に着いて街周りをしていた。但し、名は大岡では無く橘を名乗り道場開きで奉行の嫡男と承知の者たちに口止めがなされていた・・・だか外の口には戸を建てられないの諺のある様に噂は広まっていた。


そして全員が昼夜の区別なくニ、三人の組で千代田の城の奥の警護に当たっていた。

富三郎夫婦が警護の任に着く時は他の者が橘の屋敷に詰め子供たちの世話をしていた。

龍一郎の命により幕府要人への探索は禁じられていた。


小兵衛を始め全員が再度の山修行を望んでいたが、その許しを与える龍一郎が山にて修行をしている為に許されなかった。

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