第108話 稽古場お披露目
二日後、暫く無住であった稽古場に前の住人がいた時には見た事も無い程の員数が揃った。
南北両奉行所、寺社奉行所、勘定奉行所で自他共に腕自慢の者達とその上役が壁際に座り、何と三奉行自らが参列しており、更には大目付が一人に上様の側用人までもが見所に見物いや参列していた。
受けて立つ側は主人・橘小兵衛、師範・倅の龍一郎、師範代・三郎太の三人だけが対する壁を背に座っていた。
龍一郎の他の仲間はと言えば稽古場の入り口に小兵衛の家族や奉公人の様な顔をして平然と座っていた。
その顔ぶれは龍之介を抱いたお早紀を筆頭に右に清吉、お駒夫婦に平太、舞が並び左にお久、お景、お花が並びその横に何故か料亭・揚羽亭の女将・お高が悄然と座っていた。
「大目付・丹波殿、本日の審判は誰であろうか」
「はて、越前殿、顔ぶれが揃うた様じゃが本日の審判は誰がするのかな」
大目付・仙石 久尚(センゴクヒサナオ)が問うた。
幕閣の中では旗本である南北奉行を監督する目付けの上司に当り大名をも自らが監督する大目付の権力は絶大であるが、その点から言えば将軍・吉宗の御側御用取次である加納 久通(ヒサミチ)が上である、しかし徳川幕府の規範である格式・石高から言えば旗本以上の万石取りの藩主である寺社奉行が上位に位置する、この時の高所の席順もこれに習い正面に寺社奉行・松平 近禎(チカヨシ)が座し右に御側御用取次・加納、北町奉行・中山時春、左に勘定奉行・水野信房、南町奉行・大岡忠相が座していた。
----------[御側御用取次,大目付]-------------------------------
御側御用取次の加納は吉宗が紀州藩主であった頃からの側近である。
時代劇「暴れん坊将軍」では彦左衛門であるが実際は氏倫(ウジノリ)だった。
また、大目付の仙石久尚はこの時より十数年前の1702年の元禄赤穂事件では仙石邸で取り調べを行い、赤穂浪士にそれぞれの預かり先を言い渡し四藩に引き渡したりと活躍した人物である。
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「松平様、本日の審判は我が南町へ出稽古をお願いしております七日市藩剣術指南役・岩澤平四郎殿にお願い致しました・・が、如何で御座いましょうや」
「うむ・・・・七日市藩剣術指南役・・・・もしや市中公募の・・・・」
「左様に御座います、松平様」
「南町奉行所で指南を願っておったか」
「松平様、我が北町奉行所も同様で御座います、付け加えますれば本日試されます橘小兵衛殿にも指南を願っておりまする」
「何と、では北町は師弟の試合ではないか」
「松平様、南町も同様で御座います」
「何、越前、真か」
「はい、真で御座います」
「なんとのぉ~・・・・・始めから勝負が見えておるではないか・・・・うむ、橘小兵衛・・・・何処かで・・・はて・・」
「松平様、小兵衛殿は十年近く前では御座いますが江都一の剣豪と噂された者に御座います」
「おぉ、越前、そうじゃそうじゃ・・・しかし真その者と同一人物か」
「はい、左様に御座います」
「ほほう、いよいよ勝負は見えておるでは無いか・・・」
「松平様、では試合は止めますか」
「それも詰まらぬのぉ~」
「小兵衛殿、如何」
大岡の問いに小兵衛が答えた。
「はい、大岡様、わたくしの代わりに師範の倅か師範代の三郎太では如何で御座いましょう・・や」
「師範のぉ~・・・・倅殿のぉ~・・・・龍一郎殿と申されたのぉ~」
忠相は言いながら龍一郎を見つめ、それに答える様に龍一郎が言葉を返した。
「大岡様、正直申しまして父上は勿論の事、わたくしも師範代も強い強過ぎます・・・・そこで私の一番弟子を試合相手としたいのですが如何で御座いましょう」
「その方、大した自信じゃのぉ~越前殿、この者の願い聞こうではないか」
「加納様、この者この越前が見ます処・・・言葉以上に強う御座います・・・・松平様、水野様、中山様・・・宜しゅう御座いましょうや」
「越前殿、異存は無い」
「弟子に自信がある様じゃ試合わせてみようぞ」
「畏まりました、龍一郎殿、して一番弟子は何処に居られるな」
「はい、大岡様の隣に座しております」
「何、某の隣とな・・・・倅の誠一郎・・・か」
「何、越前殿の倅殿とな」
「松平様、某の長子・誠一郎に御座います」
「越前殿の嫡子・誠一郎殿に申す、真、一番弟子であるか、この松平に申せ」
「失礼ながら申し上げます、一番かどうかは解りませぬ・・・が弟子で御座います」
「ほほう~面白うなって来たのぉ~越前殿に異論が無ければ是非にも見て見たいものじゃ」
「おぉそうじゃそうじゃ」
「まだ幼さが残っておるが、あの者の指名じゃ・・・強かろう・・是非にも見たいものじゃ・・越前殿」
「・・・・・畏まりました、誠一郎、良いか」
「承りました、父上、師匠」
誠一郎は視線を父・忠相から龍一郎に移し答え稽古場の中央へ歩み出した。
「皆様、本日審判を勤めます七日市藩剣術指南役・岩澤平四郎に御座います。本日の試合の獲物は如何に・・・・竹刀、木刀」
「越前殿、誠一郎殿は嫡子でもあり幼くもある、竹刀で良かろう、のぉ~各々の方」
「忝いお言葉、越前、感謝に耐えませぬ・・・・なれど獲物は試合う当人に選ばせとう御座います」
「うむ・・・・流石は越前殿・・・この中山、感服仕った(ツカマツッタ)」
「平四郎殿、審判を願う、これより其の方に任す」
「畏まりました・・・・・では一番手を願う者、挙手を願いたい」
平四郎の言葉に十人程が手を上げた。
「恐縮に存ずる、推察するに三奉行所より選抜された方々とお見受け致す、故に某が指名でき申せませぬ、そこで下手より順番と致したいが・・・賛同戴きたい」
平四郎の正直な言葉に皆が上げていた手を下ろし無言裏に賛同の意を表した。
「では、一番手の方、獲物は何になされますかな」
「木刀で願いたい」
六尺豊かな体格の青年が言い放った。
「相方、誠一郎殿・・・異論無きや」
「御座いませぬ」
二人は壁に掛けられた中から木刀を選び位置に着いた。
「これは技量を試す試合である、果し合いでは御座らぬ、某の支持に従って戴きます、宜しいか」
二人は無言で頷き木刀を相正眼に構えた。
「それでは・・・一本勝負・・・・・・・・・始め」
相正眼で始まった試合は誠一郎のゆったりとした正眼に対し相手の大男は力の入った豪の正眼であった。
その大男が中段から序々に上げ始め上段へと移行して行った。
それに対し誠一郎はまったく動ずる事無く微動だにせず気さえも発していなかった。
その気を発していない誠一郎が半歩前に出た。
相手は気を発していない為、虚を衝かれ一歩退いてしまった。
そして其の時初めて己が対戦している少年が並々ならぬ技前の持ち主である事に気が付いた。
誠一郎が不意に半歩前に進み大男が下がるを数度繰り返し見物する仲間から声が飛んだ。
「後が無いぞ」
その声は大男の直ぐ側で聞こえ大男は壁際に追い詰められた事に気づいた。
大男は息がいよいよ荒くなり汗をだらだらと垂らし木刀の握りを確かめる様に強弱を付け勢いを着ける様に前後上下に動き出した。
大きく息を吸った次の瞬間に男は大きく踏み込んで誠一郎の頭を割る勢いで木刀を振り下ろした。
大男は届いた勝った・・・と思った時には腹に激痛を感じ前にいたはずの少年が消えていた・・・そして意識を失ってしまった。
「勝負あった、誠一郎殿の勝ち・・・・・次の方」
次々と勝負したが全く相手にならず竹刀を交えることも無かった、因みに二人目からは獲物に竹刀を選択していた。
「越前殿、感服致した良き御子息をお持ち・・・・いや、育てられた、何と申しても剣に驕り(オゴリ)が感じられぬし相手への思いやりさえも感じさせる・・・・その心根・・・・羨ましい、良き御子息じゃ」
「松平様、お褒めのお言葉ありがとう御座います、なれど我が倅なれどお褒め戴いた気質を育てたのはわたくし・・・いえ、私共親では御座いませぬ残念無念な事で御座います」
「何、そなたでは無い・・・・うむ・・・では、もしやそこな師範・・・・」
「左様に御座います、師範・龍一郎殿、橘小兵衛殿の倅殿で御座います」
「師範に預ける前の腕前は如何であったな、越前殿」
「はい、腕前などと言えるものではありませんでした、私が左手だけでも勝て申した、仙石様」
「それは何年前の事であったな」
「それがまだ一年も経っておりませぬ」
「何、一年も経ずしてあの腕前を・・・・」
質っした大目付の仙石を始め高所の皆が絶句した。
「うむ~一年も経たずしてあの腕前・・・弟子の才か・・はたまた師匠の指導か・・・倅殿より強いであろう師匠の技前・・・・見てみたいものじゃ・・・・・越前殿はあの者・・師匠の剣を存知て御座るかな」
「いえ残念ながら知りませぬ・・・が倅・誠一郎曰く手も足も出ず己の剣が稚技に見えるそうに御座います、松平様」
「何と、あれ程の腕前の倅殿の剣が稚技とな・・・うむ~・・・・・是非にも見て見たい」
「審判・平四郎殿、暫しお待ちあれ・・・・・一番弟子の技前は解り申した、その上でこちらのお歴々は師匠の技前検分を御所望である・・・・師匠、師範・龍一郎殿、いかが」
忠相が審判・平四郎から龍一郎に視線を移し尋ねた、いや、催促した。
「畏まりました、只、師匠が弟子と同じでは芸がありませぬ・・・・大岡様、そなた様の扇子をお借りしたいのですが」
「扇子で相手をされると申すか・・・・・しかしそこもとも扇子を持っておるではないか」
龍一郎は大岡の下へ歩いて行き自分の扇子を持ち手を変えて差し出した。
「おう、鉄扇ではないか・・・・初めて持ったが以外と重い物じゃな」
「越前殿、某にも」
と隣へ渡され高所の皆が持って見てその重さに少々驚いた様であった。
忠相は自分の扇子を腰から抜き龍一郎に渡した。
「流石は大岡様、良い作りの物をお持ちです、出来るだけ傷物にならぬ様に致します」
「願おう」
龍一郎は振り返り対戦者達に言った。
「某の獲物はこの扇子です、そなた方は木刀でも竹刀でも・・・・真剣でも構いませぬ、そなた方の腕前を見縊っているのでも馬鹿にしているのでもありませぬ・・・・只、己の技前を試して見たいだけ・・・・とお考え下され・・・・・では次の方、参られよ」
龍一郎の言葉に順番の男が立ち上がり竹刀を手にし立会い位置に着き、誠一郎は元の席に戻った。
龍一郎も歩み立会い位置に着いた。
「では両者良ろしいか・・・・・・は・・じ・・め」
(白扇で相手をするなどと馬鹿にしおって目にもの見せてくれん)と竹刀を正眼に構えた。
ところが龍一郎が白扇を右手一本で正眼に構えた途端に身体が固まってしまった。
龍一郎の余りの自然体に力量の差を悟ったのである・・・・・この男もなかなか出来るから解ったのである。
強者は強者を知る、弱者は強者を知らず・・・・余りにも力量の差がある場合に相手の強さは解らないのである。
(先ほどの弟子も自然体で試合っていたが今対戦している師匠の自然体はより以上に洗練されている)
と気づかされた。(自分が適う相手では無い・・・・・こうなったら、もうこれは試合では無い・・・そうだ稽古だ、稽古を付けて貰うのだ)
そう気持ちを切り替えた男は寺社奉行稽古場の指導者と言う立場も面子も忘れ身体の強張りが消えた。
「参ります」
そう言うと胸前に竹刀を引き付け面を狙って撃ち掛かった。
竹刀が龍一郎の面に当たる寸前、龍一郎は右に交わし扇子で軽く額を打ち間合いを取った。
「参りました」
悔しさも何も無かった、それ程に技前の差が在り過ぎた、大人と子供、天と地の開きであった。
「殿、私は本日を以って寺社奉行稽古場の指導者の立場を退かせて戴きます」
殿と呼び掛けられた寺社奉行・松平は驚いた。
この男は奉行が就任した時に警護の為に同道した者で奉行所の稽古場に通う内に与力・同心に請われて指導者になったのであった。
「長谷、如何いたした、何処か痛めたか」
「いえ・・・・はい、心を痛めました、己の怠慢と欺瞞に気付かされ心のしこりが壊れました、私をこの方の弟子にして戴きとう御座います・・・・・もし、適わないのであれば、除籍をお願い申し上げます」
「何と、その方・・・・・その者が弟子にせぬ、と申したら何とするな」
「そ・・それは考えもしませんでした」
と言って長谷と呼ばれた男は龍一郎を見た、寺社奉行・松平も龍一郎を見た。
「もし皆様のお許しが戴ければこの稽古場に通われては如何かと存じまする」
「うん、そうじゃそれが良い、長谷、どうじゃ、儂はその方を失いとうは無い」
「殿、この稽古場に通わせて戴けますか・・・・なれば異論は御座いませぬ」
「長谷、たった一度の立会いでこの者に心酔致したか」
「いいえ、弟子の少年が試合っていた時から考えておりました・・・・私は弟子の誠一郎殿、大岡様の嫡子殿の一年余前を存じております、大岡様には失礼ながら、あの者がこの様な落ち着いた凄腕の剣者に・・・それも短期間に変貌しようとは、夢々思いも致しませんでした、それ故、その師匠の力と技と心を考えておりました」
「おお、倅を、以前の倅を存知おるか・・・・・成れば無理も無い・・・・この越前、正直に申そう、儂も倅の変貌振りに驚いてのぉ~そして龍一郎殿の技と心に心酔した、儂も龍一郎殿に弟子入りを申し出た」
「何と越前殿も弟子入りとな」
「はい、松平様、弟子入り致しました」
「うむ、長谷、剣豪は何人もおろう、その者達とこの者とは何が違うのじゃ」
「強い剣士には何人も会いましたがこれ程の方はおりませなんだ、何より殺気も欲も邪心も感じさせず相手に対する自愛をも感じさせる方は初めてで御座います・・・・私も先ほどの弟子・誠一郎殿の様に成りたい・・・・そう思います」
「長谷とやら、この稽古場の責任者はこの者の父親・小兵衛殿となる・・・故に龍一郎殿の弟子に在らず・・・でも良いのか」
「構いませぬ、些細な事に御座います、加納様」
「御主がこの稽古場に通うなればその方の弟子達はどうするな」
「はて、考えもしませんでした、どうしたものか・・・・この稽古場は広くはありませぬ、故に常時十名と交代十名の計二十名を連日通わせては・・・とぞんじますが・・・如何で御座いましょうや、殿」
御側御用取次・加納の問いに対して主である寺社奉行・松平に返事をなした。
「解った、人選も含め全てその方に任せる、良しなに致せ・・・・それよりも各々方、試合は如何致すな、勘定奉行所代表は弟子に敗れ、某の寺社方は師匠に敗れ残るは日頃より教えを請う南北奉行所のみ、勝負は見えておろう、これ以上の試合は無用と思うが・・・・いかがかな」
高所の面々、敗れた者達に依存は無かった・・・が北町奉行所の一人の青年が異議を唱えた。
「失礼ながら、某今だ納得出来兼ねます」
「北町奉行所・同心、本城鐘四郎に御座います・・・・父の跡目を継ぎましたばかりにて今だ何方とも試合ってはおりませぬ」
「その方、剣に自信がありや、流派は」
「お奉行・中山様、直新陰流を幼き頃より学びまして御座います」
「そこで、その方・・・・試合って見たい・・・と申すのだな」
「はい、お許し戴けます・・・ならば」
「龍一郎殿、如何」
龍一郎は高所の皆に向かって提案した。
「私ばかりでは弟子達が手持ち無沙汰に御座います・・・・弟子の一人に任せたいと存じますが」
「誠一郎以外と言う事かな」
「はい、大岡様」
大岡が高所の皆を見回し、異論の無い事を確かめた。
「良かろう、任せる」
「忝のう御座います」
師範代役に扮した三郎太と入り口付近に居並んだ者達の目が一瞬輝いた。
「お久殿、願おう」
この龍一郎の言葉に大半の者達は驚いた、三名の者を除いてである。
二名は名を呼ばれたお久本人と小兵衛で二人はにんまりと微笑み、一名は対戦相手で怒りを露わにしていた。
無論呼ばれた名が女衆のものだったからに他なら無い。
お久は悠然と壁に掛けられた竹刀から定寸のものを選び所定の位置に着き相手を待った。
対戦相手の男は竹刀を手にし所定の位置へと歩み出した、男は二十歳を過ぎたばかりの青年だった。
「宜しいか・・・・始め」
審判・平四郎の声が掛かった。
対戦相手の本城鐘四郎は相正眼で構えて見て初めて相手の女衆の力量が朧気ながら理解した。
それは自分の力量では勝てぬ・・・・と言う事だった・・・・強い、強すぎる、一機に汗が噴出した。
それでも鐘四郎は打ち込んだ、己の持てる力を出し切る様に全身全霊で立ち向かった。
「おぉ、あ奴やりおるのぉ~、女子弟子が危のうて師匠も慌てて・・・・・おらぬのぉ、龍一郎殿は目を瞑っておるのか、弟子の負けを見とう無いのじゃな・・・のう越前殿」
「松平様、お言葉では御座いますが龍一郎殿の弟子の勝ちに御座います」
「何んと、あれだけ押されておるでは無いか」
「女子弟子の立ち位置をご確認下さい、松平様」
「立ち位置を・・か・・やや、松平殿、女弟子の立ち位置が変わっておらぬ、うむ~最初の位置のままじゃ」
「加納殿、それではあの若者の一人相撲では御座らぬか~」
「加納様、中山様、残念ながら左様に御座います」
「それに気付く越前殿も流石で御座る」
「恐れ入ります」
流石に若い男も責め疲れ一旦間を空け息を整え再度打ち込もうとした其の時、小手を打たれ竹刀を取り落としてしまった、拾おうとしたが手が痺れてしまい適わなかった。
「参りました」
青年の清らかな負けの宣告で勝負は決した。
「お久殿の一本」
平四郎の声が掛かった。
これより以降、この本城鐘四郎は小兵衛や平四郎を師匠とは呼ばずお久を師匠と仰ぎ教えを願い従順に従う事になるのである、鐘四郎は幼き頃に母を病で亡しお久を母と思い慕って行くのである。
「これでこの稽古場開設に異論のある者はおるまいな」
大岡忠相が皆に言い見渡したが異議を述べる者は居なかった。
「本日只今より当稽古場を開設致す。先程、 長谷師範が言われた様に三奉行所にて其々の指導者が常時十名、交代十名を選び毎日通わせる様にせよ・・・・・松平殿、水野殿、中山殿、如何で御座いましょうや」
松平、水野、中山の三人は頷き賛意を示した。
「ところで龍一郎殿、そこに居並ぶ童(ワラベ)たちもそなたの弟子ではあるまいな」
「さて、如何で御座いましょう・・・・水野様」
「まるで主人は龍一郎殿の様じゃのぉ~小兵衛殿、そなたと倅殿はどちらが強いのじゃ」
「さて、どちらに御座いましょう・・・・とお答えしたいところで御座いますが、御推察の通り倅めに御座います・・・・・某の今は江都一と言われた頃よりも強う御座います・・・が倅には手も足も出ませぬ」
「何とそなたが・・・江都一と言われたそなたが手も足も出ぬと申すか」
弟子たち以外の者達が畏敬の念を込めた目を龍一郎に注いだ。
暫く静寂が続いた後、大岡が小兵衛に問うた。
「小兵衛殿、ここを只稽古場と言うのも詰まらぬ、何か名を付けぬか・・・橘稽古場・・・橘修行所・・・」
「はい・・・・・剣は技もさる事ながら心の内も大事に御座います、如何に剣技に優れておっても心・・弱き者は勝負には勝てませぬ・・・・巷の寺では心を鍛錬する場を道場と申しますそうな・・・・そこで橘道場と名付けたいので御座いますが・・・如何で御座いましょうや」
「道場・・・・橘道場な・・・・うむ、良い名じゃ、各々方如何に」
と大岡が高所のお歴々に問うた。
「良い名じゃが頭に三奉行所鍛錬所・・・と付けてはどうじゃな」
「三奉行所鍛錬所・橘道場・・・・松平様、確かに良き考えと思いますが、残念ですがそれでは不都合が御座います」
「何じゃな、中山殿」
「はい、その冠が有りますと荒くれ者が稽古場に・・・新しき名では道場ですから道場破りが参りませぬ、そうは思われぬか、大岡殿」
「はい、松平様失礼ながら某も中山殿に同じで御座います、この稽古場・・いや道場で荒くれ共の一人でも退治できれば一石二丁かと存じます」
「成る程のぉ~町奉行ならではの考えかな、某歓心致した」
「恐れいります、加納様」
「うむ、儂も諦めた、橘道場に致そう」
「有り難き幸せに存じます」
小兵衛のお礼の言葉でこの稽古場は橘道場に決まった。
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