第84話 二度目の揚羽亭

龍一郎は久方振りに能登屋に顔を出した。

無論、揚羽亭に絡んでの事であった。

この日の龍一郎は一人では無かった、妻女のお佐紀も同道しており、一番の理由は後でお佐紀に一人で揚羽亭に行ったなど知れたなら、いかな龍一郎でもお佐紀の怒りに堪えられないからである。

何事にも怖いものの無い龍一郎も今やお佐紀の機嫌を損ねたく無い気持ちが芽生えていた。

龍一郎が久しぶりに能登屋の暖簾を潜ると目敏く番頭の善兵衛が目を止めた。

「おお、これはこれはお珍しい・・・・」

と言って言葉に詰まってしまった、龍一郎の後ろから見目麗しい武家娘が現れたからである。

「龍一郎様のお連れ様で御座いますか」

「左様、某の妻女・佐紀にござる」

「・・・・何ですと・・・今・・・奥方様と申されましたか・・・・」

善兵衛はそう言い放つと脱兎の如く奥へと走りだした。

「龍一郎様、奥方様、奥にて主人がお待ちに御座います、どうぞお入り下さい」

暫くして戻り失礼を詫び奥へと招いた。

「そうさせて戴く、佐紀参ろう」

二人は善兵衛に案内されて奥の主人の間へ導かれた。

龍一郎は廊下に座しお佐紀も真似た。

「庄右衛門殿、お久し振りにござる。長の無沙汰をお詫び致します」

「何を申されます、ささ、お入り下さい・・・・・ところで奥方様は龍一郎様の・・・その・・・・・」

庄右衛門は龍一郎の奥方の余りの美しさに言葉を詰まらせてしまった。

「素性は知っており申す、じゃが、こちらの事は知らぬ、じゃが潮時と思うておる」

「畏まりました、ではどうぞ、お入り下さい」

主人がそう言うやそれまで座っていた上座を空け下座に座り直し龍一郎が上座に座った。

お佐紀は只呆然とその様子を見つめ身の置き所に迷った。

「お佐紀様、私は当能登屋の主人・ 庄右衛門に御座います・・・・が、真の主人ではございません、能登屋の真の主人は龍一郎様で御座います」

お佐紀は庄右衛門の言葉に驚き我が耳を疑った。

当然の事である、御家人の当主が商家のそれも大店・能登屋の真の主人だと聞かされたのだ、俄かに信じられぬのも無理からぬ事であった。

お佐紀はそこで、はたと思い当たった。

「では、加賀前田家嫡男にして能登屋の真の主人なのですね」

「いや、それも違う、藩にてこの店と某の繋がりを知る者は家族だけじゃ。それに私は主人などとは思うてはおらぬ」

「若、今でも能登屋の主人はあなた様に御座います、ねぇ~旦那様」

「勿論ですとも、善兵衛」

「ありがたい事です・・・・・もうこの話は止めましょう」

「おぉ~、そうでしたな、本日はお内儀のお披露目では御座いませぬな」

「うむ、頼みが有って参った」

「頼み・・・・何で御座いましょう」

龍一郎は詳細を二人に告げた。

「承知しました、当店の紹介状が有れば雇って戴ける事でしょう・・・・・おぉそれよりも善兵衛そなたが同道しお頼みしてみなされ」

「それが良う御座います、旦那様」

「大番頭殿に同道願うなど申し訳ない」

「一番番頭とは言え番頭が一時抜けただけで立ち行かぬ様では店は潰れます、龍一郎様、ご存分に料理をご賞味下さい」

「忝い、主殿」

「忝う御座います」

「なんの、其れよりも此れからもお顔をお見せ下さいな、お佐紀様」

「畏まりました」

「では、お時間を戴きます、旦那様」

三人は店の者達に送られて通りに出て歩き出した。


「御免なさいよ、女将さん」

「はい、いらっしゃいませ・・・・・あら・・・・こりぁ大変だ」

玄関の板の間を整理していたお花が慌てふためいて奥へと駆け込んで行った。

暫くしてお花を従えた女将が現れ挨拶をなした。

「これはこれは善兵衛様お久し振りに・・・・・・御座います。此度は何時ぞやのお武家様をご同道下さりありがとう御座います」

女将は善兵衛に随行している武士の話を聞いてはいたが同伴の女性(ニョショウ)の事は聞いておらず、その余りの美しさに同じ女性ながら息を呑み言葉に詰まってしまった。

「どうされましたな、慌てておった様ですな」

「申し訳も御座いませぬ、その事は席にご案内申し上げてお話ししとう御座います」

「はい、では案内をお願いします」

三人は草履を脱ぎ女将に案内され以前通された離れの部屋に入った。

女将がお花に伝えた。

「離れをご予定の方には別の部屋を当てて下さいな」

「はい、そう致します」

「おや、女将さん、この部屋の先客があるのですか、私共は別の部屋でも良いのですよ」

「いいえ、こちらでお願い申します・・・・お話も御座いますので・・」

「あれま、そちらもお話ですか・・・実はこちらもお話・・いえ、女将さんにお願いがあるのですよ」

「私に願いで御座いますか・・・・それは又・・・・お花、今より女将は他出です、お前が女将代理をなさい・・・それから、ここへの配膳等全てお前一人になさい、良いですね」

「・・・は・・はい、畏まりました、最善を尽くします」

命ぜられた女中が障子を閉め去った。

「さて、どちらが先に話ますかな、女将さん」

「はい、まずは失礼を致しました私のお話を先にさせて下さいませ」

「結構です、お聞き致しましょう」

「ありがとう御座います・・・・それは以前善兵衛様がいらした時に御座いました。そのおり大変失礼とは存じますが、こちらにお座りのお武家様に私と先ほどおりました仲居のお花が惹かれました。何故かは解りませぬ、が、惹かれ能登屋様へも参りました、ですが中へは入れませんでした、こちらのお武家様のお名と住まいをお聞きする為で御座いました・・・・・本日お見えになり慌てた次第で御座います」

「ほう~、この御仁が気に成りましたか・・・・この御仁の何が気に成りましたかな」

「はい、二人で何度も話し合いましたが・・・・解りません・・・」

「それで本日会われましたが、如何なされますかな」

「・・・・それも解りません・・・」

女将は善兵衛と話ていながらも視線は終始、龍一郎にあった。

「・・・・女将、女将には亭主があろう・・・この様に立派な店もある・・・女将のその気持ちは色恋では無い、女将も見ての通りこの御仁には隣におる妻女が既に居られる・・・・が女将は気にもなるまい・・・・私が思うに女将は只この御仁と縁を持ちたいだけの事でしょうな」

「・・・・縁でございますか・・・・」

「左様、縁ですよ・・・・実は私もその一人だから解るのですよ」

「男子(オノコ)の番頭さんもで御座いますか」

「男も女も有りません・・・この人の役に立ちたい、あの人の為に何かして上げたい・・・と言う気持ちですよ」

「・・・・・は・・・はい、その気持ちで御座います・・・・ふぅ~・・・・・すっきり致しました」

「そこでじゃ女将、そなたのその気持ちに付け込む様で言い難うなってしもうたが、この御仁から女将のそなたに願いがあるそうな・・・・」

「失礼致します」

先程のお花と言う仲居がお茶を持って来て皆の前に置いた。

「女将さん、献立は如何致しましょう」

「番頭さん、献立はお任せで宜しいでしょうか・・・勿論、ご飯は多めに致します」

「はい、結構です、お任せします、宜しいですね」

横の二人に声を掛け二人が頷きを返し献立が決まり仲居が去った。

「女将、某は橘龍一郎と申す御家人でござる。横に居りますのが某の妻女の佐紀にござる。・・・今そなたの気持ちをお聞きし嬉しく思います。善兵衛殿も申されたがその気持ちに付け込む様で申し訳なく存ずる。・・・・・某の知り合いに近々料亭を開きたいと申す者がおります。ですが料亭を営む事が始めてでござる。そこで江戸でも名代のこちらで修行をさせて戴ければ有り難いと申しております。この願い適えて上げたいと某・・・お願いにまいりました・・・・適えて戴け様か・・・・女将の商売敵を育てる所業なれば断られる事が当然でござる。そこを曲げてお願い申す」

龍一郎が頭を垂れ、隣のお内儀も真似た。

「・・・・・確かに申される通りその方のお店が育てば商売敵となりましょう。されど料亭、船宿などの生業(ナリワイ)が繁盛すれば、私共の処にも戻って参ります。第一私の弟子がこの店と張り合える程の店を持つなど師匠として本望で御座います。但し本人を見てからにさせて下さい。最もお内儀であれば勿論引き受けますが・・・・」

女将は龍一郎、お佐紀を見て答えた。

「女将さん、私の妻女ではありません、明日こちらに来させます。名はお駒と言います。よしなにお願い申す」

「龍一郎様・・・龍一郎様とお呼びしても宜しいでしょうか」

「無論結構です」

「明日も龍一郎様が同道願えますか」

「・・・・・畏まって候」

それから三人の客と女将は一緒に昼餉を食し語らい親しさを増し女将は一層龍一郎への関心を増した。

又お佐紀の美貌と人柄にも好感を持ち関心を寄せた。


翌日、龍一郎に伴われ女子がやって来た、無論女子はお駒である。

一目見た女将は快く快諾しお駒の料亭修行が始まった。

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