第7話 江戸への帰着
龍一郎は早さが維持できる程度の睡眠を取るだけで歩き走った。
そのかい有って、なんと四日と半日で江戸に着いた。
異常な速さである、ましてや十二歳の子供の成した事なのだ。
だが、龍一郎にはどれだけの日数が普通なのか解らなかったので次回はもっと早くしようと思っていた。何時もの様に、いないと思っていた若様が朝には自室で寝ていたのを掃除に来た女中が目にし御用人へ忠心におよび屋敷内に知れた。
これも何時(イツ)もの事だが、長の不在の後は二、三日屋敷内に大人しく留まっていた、それはまるで永の不在を詫びる様だった。
龍一郎は二日屋敷に留まり書き物に精を出した。
これまで得た情報を書き留め、これからの計らいも書き留めた。
龍一郎が物書きをしているとの話が屋敷中に広まった。
屋敷を抜け出すか、屋敷にいる時は木刀を振っているか寝ているかだけだったので屋敷の皆が驚いたのだ。
遂には、龍一郎付きの家臣がやって来た。
「若、 総左衛門にございます、今宜しいでしょうか」と廊下から障子越しに声が掛かった
「爺、どうぞ、何ぞ用事ですか?」
障子を開き総左衛門が入って来た、龍一郎に爺と呼ばれたがまだ四十三歳である。
龍一郎が幼少の頃より面倒を見てくれていたので爺と呼びなれていた。
因みに龍一郎の乳母は総左衛門の妻女である。
「はい、若が物書きをしている、目面しや何処かお身体の具合でも悪いのでは・・・、との噂が屋敷内を駆け回っておりました故、爺が見に参りました」
「すまぬな、爺、身体に悪い所などない、安心いたせ、明日より何時もの龍一郎に戻る」
「安心致しました、と言うべきなのか、このままでいて欲しい様な何とも複雑な気持ちにございます」
「爺、すまぬ・・・」
その夜、龍一郎の寝間に賊が入った、龍一郎の書き物を狙っての事の様だった。
だが見つからず龍一郎に危害も加えず立ち去った。
龍一郎は静かな寝息を立て間者の気配を全て把握していた、書き物は龍一郎が懐に大事に入れていた。
翌日、龍一郎は三日ぶりに屋敷を抜け出した。
その前に師範と抜き打ちの修練を繰り返し屋敷を立ち去った。
勿論、誰にも気付かれてはいない、今日の外出は書き留めた書物を隠すためだ。
選んだのは両国の回向院の軒下だった。
[参考]---<回向院>-------------------------------------------------------
回向院は浄土宗の寺で現在は東京都墨田区両国二丁目にある。
山号は諸宗山。正称は諸宗山(一時期、国豊山と称す)無縁寺回向院。
寺院の山門には諸宗山回向院とあり、本所(ほんじょ)回向院とも称する。
振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦の大火(明暦三年 (1657年))の焼死者十万八千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まりで、のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者などの死者の無縁仏も埋葬し、著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓があり参拝客のために明暦五年 (1659年)に両国橋が架けられた。
あらゆる宗派の人だけでなく、動物すべての生あるものを供養するという理念から、現在はペットの墓も多数ある様だ。
(参考-ウィキペディア)
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寺の起こりの関係で訪れる参拝者も限られ隠し場所として申し分ないと思われた。
難点は屋敷から少々遠い事だった。
龍一郎は書き残しを追書きし予定通り軒下に油紙に包み土に埋めた。
おいおい調べた事を追加し、より屋敷に近く安全な場所を近場で見つけるつもりだった。
龍一郎が目論んだ事には仲間が必要だったので仲間の童子の助けを借りた、
童子たちはそれぞれに仕事を持ち家計の助けをしていた。
龍一郎は手間賃を何時もの仕事の倍と弾み「決して深追いするな」、「調べより命大事」、「もしものおりは子供らしく泣け」と言い聞かせた。
十日もしない内にに大よその調べは付いた。
その間、一度追跡していた子供が見つかったそうだが「家が解らないよ」と泣き喚き難を逃れたと自慢げに話した。
龍一郎は人を尾行するのは童子が良いと記憶した。
調べは中屋敷、下屋敷、蔵屋敷にまで及んだ。
不忠者の組織は龍一郎が思っていた以上に大掛かりな物だった。
当初は父上に進言し不忠者を粛清するだけで事は足りると思っていた。
だがあまりの組織の巨大さにそうは行かなくなり、龍一郎の計らいを大きく変える事になった。
江戸の不忠者は次席家老、筆頭用人、用人補佐、蔵屋敷御番頭とそれぞれの腹心にまで及んでいた。
下手に父上に進言すれば父上、母上、弟の命にも危険が及ぶと懸念された。
それ程に江戸での不忠者の組織は巨大だった。
唯一の救いは江戸家老が含まれていない事だった。
だがそれも調べが足りないだけなのかも知れなかった。
加賀金沢では更に巨大であると予想され早急且つ密なる調べが必要と悟った。
龍一郎はそれ以降、何度も加賀への調べ行に行く事となる。
三年を掛けた調べ書付は膨大な量になっていた。
不忠者の組織は拡大の一途を辿り増え続けていた。
それに伴い五十万両とも言われた蓄財が減っていた。
それまでは年に何万両と増えていたのにだ、このままの状態が続けば藩は立ち行かなくなってしまう。
三十年とは持たないと予想された、また不忠者の繋がりは江戸町奉行所、幕閣にまで及んでいた。
大名を監察する大目付、街道を監察する勘定奉行である。
加賀から太坂、太坂から江戸への物資の運搬への便宜計らい、長崎からの御禁制の品運搬の便宜計らいに勘定奉行が一役買っていた。
これ程に大きな組織だ、とても雄藩である加賀藩であっても対抗できるものではない。
ましてや若様とは言え少年の証言では遺憾ともしがたい、龍一郎は策をあれこれと考え続けた。
そして一つの策に至った、それは長期に渡る企てで人材も金子も必要とされ、その工面の方法も考慮したものであった。
加賀藩、幕閣の情報獲得の為と永続的な資金調達の為に店を手に入れる事だった。
店を三つ手に入れる。店の職種は情報が得られ易いものとした。
一つは米問屋で藩の年貢米を扱う様にする。
一つは呉服問屋で加賀友禅を商う様にする。
今一つは輪島漆器を商う問屋である。
店を手にするには金子が要り店を仕切る人手も必要となる。
人材については正義感が強く忠義心に厚く無ければならない。
不忠者を多く見て来たが二人の人材は見つけてあった。
その者たちは勘定方で組頭をしており、常日頃から上役の不正に不満を持っている様に窺われた。
この者たちを店の一番番頭格にと考えていた、だが武士を捨てねばならず容易ならざる説得が必要と予想された。
また店は米、友禅、漆器と特殊な物を扱うためその道の者も必要と考え人材の選択をしてあった。
その者たちは龍一郎が目を付け買い取ろうと目論んでいる米屋と呉服屋に奉公しており今一人は輪島で漆器の問屋の目利きをしていた。
そして店の主人には龍一郎と弟の爺をと考えていた、これが人材である。
では金子はどうするか、龍一郎は毒には毒と考え不忠者たちの懐から戴く事にした。
龍一郎は相手にばれ難い様にと考え溜め込んだ金子に応じて戴く金子も変化させた。
ばらで蓄えている者からは戴き易い、千両箱からは取り難い、切り餅の場合は幾つか戴いた。
これを江戸と金沢で繰り返し繰り返し同じ屋敷から何度も戴く事も繰り返し金沢で四千両、江戸で六千両もの大金を溜め込んだ。
不忠者からとは言え他人の屋敷から頂戴したのであるから盗人である、計一万両ともなれば希代の大盗賊と言えた。
盗まれた者たちは気が付かないか、不正な蓄財故に言えぬのか、武士の屋敷へ盗人が入ったとの訴えは面子が許さぬのか誰一人として事を明かす者は居なかった。
龍一郎はその金子を隠す場所として神社・仏閣の軒下を考えた。
だが、もし江戸の名物と言われる火事があれば建て直しの地均しの時に発見されてしまう。
何処かの原っぱに埋めれば、そこに屋敷が建つかも知れない。
ではと考え、龍一郎が買い取りを狙っていた米屋の庭を考えた。
だが残念な事にそこの庭は長屋の庭よりも大きかったが隠し物をするには小さ過ぎた。
そこでその店の裏の武家屋敷の庭を選んだ、その屋敷は大きく庭も大きく竹薮が茂っていた。
龍一郎はその竹薮に金子を隠した。
その屋敷の武家の名は橘家と言った。
<つづく>
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