ハレときどきケ
Umigame
今日の天気は
学校の帰り道。二人の小学生は並んで歩いていた。
「ねー、ちーたん。雨って素敵よね。ぽろぽろこぼれてくるの。わたし、かさに当たってはねる音を聞くのが好き。でも、もしかしたら、わたしたちが大人になる頃には、この辺も海になってたりして」
「あたまいいなぁ。そうだよね。こうしきりに降ってるんだもんね。水が溜まっていったら、プールみたいになるはずたよね」
飴玉のリボンで髪を結わいている女の子は、水玉模様の傘をくるくる回して、はねる水滴の跡を追う。跳ねた水滴が路端のアジサイの葉にあたって、這いずっていたナメクジに当たる。何でもなさげにナメクジはついーっと、葉の道を横断していく。女の子は、傘の先で軽くアジサイをつっつく。横で眺めていたちーたんは、退屈そうに傘を降っていると、びゅうっと風が吹いてきて、足元から傘をすくった。一瞬ちーたんの体がふわっと浮かび上がった。
「わぁ」
慌てて手放した傘は空に舞い上がった。僕らはそれを見上げる。
そして、柔らかな風と共に、雨はやみ、最後の志築が名残惜しそうに、落ちてきた傘で水滴となってとどまっていた。
「このまま、飛ばされてたら。空の上まで飛べたかな」
「それはそれで楽しそうだけど、わたしを置いていかないでよ?」
6歳。まだ、ぼくが小学生になったばかりの日のこと。
晴れていく雨雲の合間からのぞく日の光にあてらえて、細めた目の視界の隅で、寂し気に流れていく雲を眺めていた。
そんな日の、できごと。
*******
ふっ。軽い頭痛を覚えて、起き上がった。
ぼんやと揺らぐ眼前の景色に押さなかったころの自分の姿が垣間見えたのは果たして、気のせいか。
体温を計ったら、案の定38度の高熱であった。
おぼつかない足を、引き釣り、けだるい気分のまま、冷蔵庫を開けて、牛乳のパックを手に取り、コップに注ぐ。
食べ物はのどを通りそうにない。
牛乳をちびちびと飲みながら、部屋のカーテンに手を伸ばす。
ほんの少しだけ、カーテンをよけ、窓を開ける。
風にたなびくレースが心地よさそうに踊っている。
雨上がりの磯のにおいの残る風を部屋の中に運ぶ。
牛乳をコップの半分ほど口にしたところで、玄関のチャイムが鳴った。
こんな早朝に何の用だろうか。
と、時計を見たが、早朝も早朝。まだ、4時だった。
インターホン越しに相手を覗くと、体を丸め、いそいそと布団に戻った。
しかし、玄関のチャイムを鳴らす音はとどまることを知らない。
全く、人様の迷惑を考慮してもらいたいものだ。
今日は仕事もあるまいに。
ふと、カレンダーを見やる。
間違いない。今日は定休日だ。
体調が悪い奴が居留守を決め込んで何が悪い。
しかし、いい加減玄関の扉をたたきそうなので、仕方なしに玄関の方に布団を引きずりながら、歩いた。
以前、玄関をたたかれて、近所の人に注意された記憶がある。
全く、安アパートの設備を舐めないでもらいたい。こちとら、床を歩く音でさえも、それなりに上下の階の部屋に響き渡るというのに。
「はい。どちらさまでしょう」
訪問相手が誰なのかは分かっていたが、あえてけだるそうな声で対応して帰ってもらうことにした。
もちろん、玄関のドアもチェーンは外さずに。
「ちーたん、お久。おじゃましに参りました」
「お帰りください。ほんとにお邪魔です」
「え?おじゃま?私、おじゃま?ちーたん、今日暇してるでしょ?どこか行こうよ」
「要件を堂々と言ってくるな。まあ、ひまではあるが、あいにく体の調子が悪いんでね。今日は、勘弁してもらいたい」
「そっかー。じゃあ、家の中入ってもいい?」
「……、少しは人の話を聞けよな」
玄関前で仁王立ちする彼女を呆れてみる。
ああ、まだ夢の続きか。
そう、思ってしまうほどに彼女の精神年齢はあの日から少しも進んでいないように幼かった。
いや、病気のときにここまで駄々をこねるのは、むしろ精神年齢が後退しイェイるのではなかろうか。
もう、立派に社会人だろうに。
ため息をする。
で、ドアを閉めた。
風邪なので、お断り。
すると、今度は彼女は玄関のドアの前でぴょんぴょんと跳ね始めたようだ。
やかましいこと、この上ない。
ごちん、と今度は天井に頭をぶつけたようだ。
小さな悲鳴がドア越しに聞こえる。
再び、ため息。
そして、しぶしぶチェーンを外して、ドアを開けた。
「まじで、体調悪いんだ。長居してくれんなよ」
「だいじょーぶ、大丈夫」
何が、大丈夫、なのだろうか。
三度、ため息をつき、彼女を部屋に上げた。
*******
わああ。ほんとに、ちーたんだ。
わたしは、感動を覚えずにはいられなかった。
童顔の、あの日のままのちーたんが、そこにいた。
一時の、まやかしなのかもしれない。
でも、この幻が剥がれ落ちてしまわないうちにもっと話したい。
玄関ごしに何か声を投げかけてくれているのだが、有頂天な私の耳には届かない。
思い出せないほど、陳腐な返答をした。
何とか粘って、家の中に通してもらえた。
先導して部屋に入っていくちーたんの後姿を目でなぞった。
半信半疑だったのに。
改めて、目の前の人物がちーたんであることを自覚する。
自然と、口元は緩んでいた。
*******
壁に目をやる。
やはり、今日は定休日だ。
はて、何の仕事の定休日であったか。
街角のパン屋で働いていたっけな?
まあ、どうでもいいや。
思考することすら煩わしいことこの上ない。
部屋に上げてしまった彼女のために、いそいそと冷蔵庫による。
賞味期限切れの食品をかき分けて、俺はトマトジュースのパックを取り出した。
「これも賞味期限切れか」
ぼやいて、冷蔵庫を閉める。
心なしか、腹の下がきゅうっと締め付けられた気がした。
先ほどの牛乳も消費期限切れかもな。
一体、自分は昨夜何を食べたんだっけかな。
机の上は整然としていて何もない。
床には多少の埃が積もっているが、ごみ箱を覗いても何もない。
所詮この世の塵芥 。
誰か、歯車だと比喩した。
形而上のものだ。
甘美な響きを持たせているに過ぎない。
俺は、ちっぽけな流浪人。
ふよふよして仕方ねえ。
もう、難しく考えるのはやめだ。
頭痛もめまいも、熱があったって関係ない。
目の前の客人を迎えてやろう。
だって、今日は俺の―――
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