第236話 我が家の庭で
王子の多忙さを心配していたら、逆に自分が心配されていた。
――そんな現実に忸怩たる想いをしていたカサンドラである。
が、己のわけのわからない衝動的な行動で王子との予期せぬ約束が出来たのだからそれは幸運だったと自分を慰めるしか出来ない。
夜になって思い出しても大変恥ずかしく、何で勝手に手が動いてしまったのだろうと自分で自分が恐ろしくなる。
出会ったばかりの頃だったら緊張が
少なくともその頃よりは、彼との距離を近くに感じている。それは間違いないだろう。
だが突拍子もない行動をして彼にドン引きされるのは最悪の結果ではないか!
今後はもう少し気を引き締めて行動しなければと気合を入れ直す。
そして王子が『早く休むように』と忠告してくれた意味を、カサンドラは翌日の日曜日に思い知ることになる。
元々毎日のように細かい予定が詰まっている王子らと違い、カサンドラは土日のどちらかは安息日として予定を入れていない日も多かった。
たまに予定がぎゅうぎゅう詰めの一週間があっても大丈夫だろうと楽観視していたが、翌日の日曜日は――思いの外身体が重たいことに気づいてしまった。
慣れない野外の仕事。
大会に向けての
いくら石から組み上げて頑丈に造る必要はないとはいえ、三日の間崩れ落ちない程度の補強は必要だ。
大勢の職人がひっきりなしにトンカチや金槌の音を響かせ、建設現場特有の上司による激しい叱咤や激励が飛ぶ現場は余りにも平時と違い過ぎる。
接待要因、食事を案内する係として重労働などしていないにも関わらず、カサンドラは既に午前中で疲労困憊中である。
思っていた以上に、一日野外の活動というのは体力気力が削がれる。
そして――アイリスに言われて納得はするが、カサンドラは元々暴力沙汰が苦手だ。
この学園生活はお上品な生徒ばかりのぬくぬくとした温室で、滅多なことで暴力や暴言を目の当たりにすることはない、それは有り難い事だったのだと改めて気づく。
体育会系と言うか、こういう身体を張った仕事に就いている方々は粗暴な言葉遣いの男性ばかりだ。
貴族のご子息を見慣れているカサンドラには、怒声響く現場の喧騒がまるで異次元。
騎士団とて貴族の子女である身分なのに変わりはないだろうに、筋骨隆々でしっかりした体つきの男性ばかりで一声上げれば空気がビリッと震える。
普段との環境の差が徐々にストレスとして蓄積され、カサンドラの気力体力をも余計に消耗しているのだ。
一歩間違えば転落事故や怪我人が出る事を大勢で取り組んでいるのだから少々荒っぽい言動になるのは仕方ないとはいえ。
お昼時、生徒会側で用意させた食事を職人や騎士達全員に勧め終えてホッとした。
食堂は使用禁止ということで、運動場周囲に多く張った天幕の中に食事用の席をいくつも用意させ、飲み物を注いでいく。
事前に給仕の手伝い役を生徒から募っていたが、昨日同様全く手が足りない。
カサンドラもアイリスも天幕の列の端から端まで忙しなく行き来を繰り返す。
騎士団の面々にはカサンドラが直接顔を出して感謝と労いの言葉をかけなければいけないので、それが大変時間を食う。
まぁ、唯一食後のコーヒーの味を褒めてもらえたのは嬉しかったけれど。
昼食の片付けが終わった後、呆然と立ち尽くしているカサンドラに声を掛けてくれたのは勿論王子だった。
彼は放心状態で互いに安堵の吐息を出し合う自分達に、若干遠慮がちに声をかけてくれた。
「……カサンドラ嬢、今日はもう大丈夫だから。
君とアイリス嬢は先に帰宅すると良い」
『王子』
カサンドラとアイリスの声が重なり、二人同時に振り返る。
彼は全く疲れた様子など欠片も表情に出さずに穏やかな笑みを浮かべるだけだ。
素の体力が違い過ぎるのか、それとも向き不向きなのか。
王子は物腰の柔らかさ、温和さを有しながらも騎士団とは懇意にしているという話は聞いたことがある。
ジェイクと友人なので猶更出入りも容易く、普段接しなれた相手と話をしているだけという感覚なのかも知れない。
「大会は今週が本番、ここで無理をする必要もないと思う。
明日も明後日も授業はあるのだから、ね?」
「ですが皆様、まだ作業中で……」
ここで女子陣だけ抜けるというのも、立場上どうなのだろう。
カサンドラとて彼の優しさを否定し辞退したいわけではなかったが、この場にいない役員達の顔を脳裏に思い浮かべるとすぐに頷くのは躊躇われた。
それはアイリスも同じだったのだろう、困惑気味に眉の形を下方に下げる。
「勿論、他の皆には報告済だから気を遣う必要はない。
ここまで本格的に闘技場を建てるところから始めるなんて、私も実は思っていなかった。
去年の資料を見たらもう少し簡略化したものだと思っていたのに、やたらと凝っているようで――時間も相応にかかっている。
どうか二人は帰宅してゆっくり休んで欲しい、私達は寮通いだから時間も取られないしね」
気にしなくていいよ、と輝く王子スマイルで勧められては無理にここに残る意味もない。
ただ待機していても邪魔になるだけかも知れないし、とアイリスと二人で頷きお言葉に甘えることにした。
彼の気遣いに感謝しつつ、カサンドラ達は帰宅の途に着く。
馬車通学のため、往復一時間以上かかる。アイリスはもっとかかるのではないか。
王子の言う通り先に帰らせてもらえるのは、とても負担が減って有り難い話だったのだ。
※
馬車から降り、レンドール家別邸に戻るカサンドラ。
毎日変わらない佇まいで自分を迎え入れてくれるこの別邸。住み始めた当初よりもずっと愛着がわいている。
両親がいないのは寂しいと言えば寂しいが、年齢的にも自立を視野に入れる歳なのでそんな我儘を言ってはいられない。
お目付け役という形でアレクをこの館に住まわせている父親自身の思惑は成功しているのか失敗しているのかは分からない。
でも何でも話が出来る相談相手、家族が一人でも一緒に住んでくれていることは心強い事だ。
アレクの厳しい監視や毎週の報告書提出、所謂”親の目”の内であることは仕方ないがカサンドラの立場上それも仕方のない事だ。
王子の婚約者という立場で好き勝手自由に一人で生活するなんて出来るわけがない、その点歳よりもぐっと大人びていて真面目なアレクはカサンドラの目付け役として適任だろう。
「……あら」
レンドール邸宅は日頃、とても静かな屋敷だ。
侯爵家の別邸と言うにはやや心許ない人数の使用人しか雇っていないこともあるし、広々とした敷地内は多少の話し声を全て虚空に吸い込んでしまう。
大騒ぎする人間もおらず、穏やかで心休まる愛する我が家。
そのはずなのに、この日は様相が違った。
玄関に向かって静かに歩くカサンドラの右側から、断続的に響き合う高い金属音が聞こえて来たからだ。
それは数度鳴っては少しインターバルを挟み、もう一度連続して目の前に火花が散りそうな音が覆いかぶさってくる。
その音に呼ばれるようにふらふらと中庭に入る。
すると――
辺に花壇を並べ広がる芝生の上でアレクとベルナールが真剣な表情で剣を合わせているのを目撃し、目を丸くした。
カサンドラが翠色の目を幾度か擦っても、そこで汗を流し剣を切り結んでいる二人は真剣な眼差しで向かい合う。
唐突な光景が広がり、硬直して立ち尽くすカサンドラ。
そんな自分にいち早く気づいたのはアレクだった。彼はベルナールよりも頭二つ分も背が低いというのに、同じ長さの剣を用い相手の剣を大きく横に振り払った。
「姉上、おかえりなさい」
「……お、なんだ。カサンドラか。今日は早えーな?」
彼らは額に浮かぶ汗の球を袖口で拭い、晴れ晴れとした表情で手を挙げた。
そう言えば、剣術大会に向けてベルナールが自主練をするから庭を貸して欲しいと言っていたな。
すっかり忘れてしまっていた事に苦笑いで、カサンドラも小さく手を振って彼らに応えた。
「姉上もお戻りですし、休憩にしましょうか。ベルナールさん」
「了解」
カサンドラは剣術について全く明るくない素人だが、アレクもベルナールも随分”巧い”のだなぁ、と感心した。
貴族の男子のお遊びで習う剣術もどきの動きとは違う、機敏でメリハリのついた動きに目を瞠る。
アレクの美しい銀髪が陽の光を透かし奇跡的な輝きを見せ、思わず息を呑んだ。
身体を動かすのだけは好きだというベルナールの言通り、そちらの方は随分腕が立つ様子だった。
尤も、学園の期末試験に剣術の実技なんてないので腕っぷしだけが強くても順位には当然反映されないわけだが。
何となくカサンドラも一緒に休憩する流れに巻き込まれ、三人は屋内の談話室に向かうことにした。
「ベルナール、貴方があのように剣の心得があるとは知りませんでした」
アレクが色んな分野の講師を呼んで”嗜みの一つ”と学んでいるのは知っている。
カサンドラ以上にこの屋敷では忙しないスケジュールを組んでいる次期当主様だから。
だがベルナールまで剣の腕に優れているだなんて、目の当たりにするまで知らなかった。
それなりに様になっているのは確かに格好いいと思う。
何より真剣に打ち込む姿は普段の不真面目な彼の姿とは印象を変え、シンシアもさぞや驚くことだろう。
「わざわざ言う程のことでもねーだろ」
満更でもない表情で彼は冷たい水をがぶ飲みする。
「ま、でもロンバルドの坊ちゃんに比べれば俺らなんか吹けば飛ぶようなもんなんだろうけどなー」
少し高くなりかけたベルナールの鼻は、すぐにある人物を思い出したのかシュルシュルと縮む。
「ジェイク様は正規の騎士ですし、本来は腕前を比べるという遊戯に出場するなど無粋なのですけれどね」
本職が単なる学園の生徒に勝つなんて当たり前、だが万が一でも負けるなど恥さらしもいいところ。
ジェイクにしてみれば参加するメリットなど何一つないのだが、面白半分に上層部が出場を命じたせいで参加する運びとなった。
本人はそれを面倒とは捉えずむしろ楽しそうなので良い事なのかもしれないが。
そろそろ騎士団はジェイクを将軍の後継ぎだと自覚した方が良いんじゃないだろうか、ジェイクが待遇に本気で不満を持ったら――今面白半分でからかって接する同僚など、立場が消し飛ぶというのに。
彼がそんな腹癒せめいた懲罰的行動には走らないという厚い信頼があってのことかも知れないけれど。
男同士の世界のことはカサンドラにはよくわからないな、と乾いた笑みを浮かべて淹れたてのハーブティを口元に添えた。
少し会話を続けていると、当たり前のように大会の話になる。
アレクも後数年で入学、他人事では無いようで珍しく話題への食いつきも良かった。先程披露していた訓練を垣間見ただけでも、将来が楽しみであることは疑いのない事実だ。
ベルナールに引けをとっていなかった。
「あのロンバルトの坊ちゃんって、案外良い奴だよな」
ぼそっと彼はつぶやいた。
「……そう……だと思いますけれど……」
ベルナールにとってジェイクは良い印象がないものだとばかり思っていた。
あの日の朝の教室で、彼がシンシアに告白しないといけない状況に追い込まれたのはジェイクがいたからだ。
カサンドラもベルナールもただの同郷の人間という事でそれ以上の感情はないというのに、まるで自分を王子の婚約者に横恋慕してくる人間だと言わんばかりに詰め寄って来たのだから。
ジェイクの立場上看過できないのは分かるが、ベルナールだって焦りに焦ったことだろう。
そう言えばジェイクもあの後ベルナールを評して”話しやすくて面白い奴”と言っていた気がする。
あの教室内のやりとりを経て特に悪印象を抱いていないあっけらかんとした状態なのは凄いと思う。
後ほど勘違いさせ迷惑をかけて悪かった、と一歩引いた立場で謝ったベルナールのファインプレーかも知れないが。
彼がジェイクに睨まれたらカサンドラもとばっちりを食らいかねないので助かったとも言える。
「たまに話しかけられることもあるしさ。
今まであんな立場の人間なんか胡散臭いことこの上ないわって避けてたけど、話してると裏表だとか考えるのも無駄な気がしてくるわ」
そりゃあ、シリウスやラルフと話をするより何倍も話しやすい相手だろうことはカサンドラも知っている。
腹芸の出来ないタイプだし、本人も嘘が苦手だし。
……デリカシーがなくて致命的に間が悪いところはどうかと思うが、もうあれはしょうがない。生まれ持ってのモノだと思う。
ベルナールがいうには、廊下ですれ違う時、「彼女とうまくいってるかー?」なんて楽しそうな顔で声を掛けて来るらしい。
外野から話を聞けば、ただからかっているだけに過ぎない言いざまだが――実際シンシアと上手く交際が続いているベルナールにとっては誰に恥じることもなく堂々と肯定でき、優越感に浸れるらしい。
流石クラスメイトが大勢いる衆人環視のもとで想い人にプロポーズしてのけた男は感性が一味違う。
普通なら恥ずかしがるところではないのか?
それを応援してくれていると受け取るとか、素直が過ぎる。
アレクは会話を流し聞き、苦笑を浮かべ肩を竦めた。
「ああ、ゴードン商会のお嬢さんの事ですよね?
僕、話を聞いて吃驚したんですけど。
まさかベルナールさんが……って。
あんなに学園の生徒達を疎ましがっていたので、顎が外れるかと思いましたよ」
一々他人の恋愛事情など義弟に報告する義務はない。
アレクにはシンシアの話などしたことはないが、自分から堂々と
順風満帆で羨ましい限りである。
……でも彼のしでかしたことが全部こちらにダイレクトに相談という形で跳ね返ってくるので、是非あと一年半の在学中は大人しくして置いて欲しいと願わずにはいられない。
本人の沽券の問題もあろうから、シンシアに受けた相談の事をここで明け透けに話す気もないが。何と言うか、背中がむず痒い。
「今度の冬休みにはレンドールにシンシアを連れて帰って親父たちにも会ってもらわねーとな。
あ、勿論侯爵にも会って許可もらわないと――
んー、でも先に俺がシンシアの両親に挨拶しないといけないんだよなぁ」
それは面倒だなぁ、という割に顔がニヤニヤしている。
夏休みに最初に会った彼とは全く別人の様にカサンドラも呆れてしまうが、シンシアだって今は凄く幸せそうなので全てが上手く転がった結果なのだろう。
人と人との縁というのは不思議なものだ。
あの時ベルナールがカサンドラに声を掛けてこなかったら、カサンドラがシンシアへの伝言を頼まなかったら。
きっと未だに彼は学園での出来事に周囲ぶつぶつと悪態をついていたことだろう。替わり映えなく、何も得るものもなく。
雑談程度だが、ジェイクに顔を覚えてもらって声を掛けてもらえるというのは一目置かれることだと思う。
もしかしたら……それに伴ってクラスから浮き気味だった彼も地に足を着けた生活へと変わることができているのではないだろうか。
ふと、ベルナールは思い出したように言葉を連ねた。
「俺もさあ、あんなお偉い立場の人間から羨ましがられることがあるなんて思わなかった。
偉い人は偉い人で大変だよなぁ」
チラ、とカサンドラとアレクを交互に視線を遣るベルナール。
偉い人、とやや粘着質な物言いだったが、王子の婚約者として未来の王妃であることがほぼ内定しているカサンドラ、そして南方を収めるレンドール侯爵の跡取りのアレク。
どちらも身分的にはベルナールより上だ。
だが身分が上だからと言って、全てが人より幸せというわけでもない。
「羨まれる……ですか。
それはジェイク様に?」
少し気になって首を傾げる。
話の流れ上、ベルナールを羨ましいと言ったのはジェイクであるに違いない。
「そうそう。
でも確かにさ、ああいう立場だと自由に恋愛も結婚も無理だもんなー。
俺はその点、自由……ああ、自由って言うか、嫁の
王都でもそれなりに名を聞くゴードン商会のお嬢さんを連れて帰ったら、ウェッジ家は歓喜の余り三日三晩祭りを開きそうだ。
シンシアのことを下にも置けないもてなしぶりで歓迎するに違いあるまい。
その歓迎ぶりを想像すると同時に、そうかジェイクもそんな風に思っているのかと、
カサンドラは彼らに気づかれないよう、こっそり嘆息を落とした。
彼にとって恋愛とは――他人事でもあるのだろう。
自分にはもはや関わりがないから叩ける軽口。
『人を好きになるのがこんなに怖いことだと思わなかった』と。
ゲームの中でそう言ったジェイクの心の内、それを知っている今思い返すと――
重たいなぁ、と顔を覆いたくなるカサンドラだった。
どうか……
どうかリゼが受け入れてくれますように。
ゲームは主人公を通して疑似的恋愛を楽しむものだが、それがリアルになったら受け入れられないことだってあると思う。
そればかりは当人の心持ち次第だから、カサンドラにはどうすることもできない。
主人公だから器は広いはずと信じ、カサンドラは最後の一口を嚥下した。
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