第164話 <リタ 2/2>
劇を観るのは好きだが、自分が何かを演じようと思ったことなど一度もなかった。
だって自分という人間の特徴は既に出来上がったものだ。
三つ子で生まれたという事も大きかった、幼い頃から「リタはこういう子だから」と言われて育てばその枠組みを外れた自分をイメージすることは難しい。
それに何より、リタは自分の事が好きである。
元々楽天家の性格もあろうが、今の自分は嫌いではない。
敢えて他の何者かに成り代わろう、演じようというキッカケなんか無かった。
リゼやリナの事を羨ましいと思うことがあったとしても、それは互いに個性の住み分けが出来ているということだ。相手になりかわりたいとは思わない。
そんな自分が『別人になりたい』と心底思い、振る舞う日が来るなんて思わなかった。
必要に迫られての苦渋の選択、お試しでやってみたことである。
それが不思議な事に、リタにすんなりと馴染んだ。
自分は今想像上の人物、王女リリエーヌだという思い込みはリタに非常に良く効き、恥ずかしいだとか自分のキャラではないというぎこちなさを全て吸収してくれた。
とても素面では言えないようなお姫様っぽい言葉を使おうが、彼の手を握って軽やかなステップを踏もうがそれは役になりきった別人なのだと心を誤魔化す。
きっと我に還れば恥ずかしくて数時間は身悶えるだろう、でも今だけはスッと背筋を伸ばして堂々と笑顔で向き合うことが出来る。
王女ならきっとこんな風に微笑む、そう口元に笑みを讃えたまま正面見上げれば、ラルフの顔が大きく映る。
彼は驚いたような表情をして一緒にダンスを踊ってくれているが、流石だ。
敢えて上手く踊ろうと気負わずとも、自然と体が動く。
まるで自分が踊りの達人になったかのように、くるりくるりとターンを重ね、一層役にのめり込む没入感を高めていった。
彼の紅い瞳に映る凡庸な少女の姿は自分ではないのだと言い聞かせる。
曲が終わりかける最後の一節までリタは完璧なステップだったと自画自賛。
これだけ彼に合わせて踊ることが出来るのなら、きっと一学期までの慌ただしくちっとも優雅でない姿との差を認めて彼も褒めてくれるだろうと安直に考えていた。
まだ曲が一曲終わるだけだが、このまま休憩など挟まなくてもリリエーヌは何曲だって踊り続け――
ふにっ。
曲が終わりかけたまさにその瞬間の、ホッと安堵しかけた僅かな間隙。
彼の指が、リリエーヌの――いや、リタの頬をむにっと指の腹で抓んだのである。
時間にしては二秒もない。
だが普段鍵盤を叩く細く長い指は、確かに一度リタの頬を抓んだ。
ふと、我に還る。
「……………わぁっ!?」
完璧に演じていたはずの王女の仮面が、それだけで脆くも崩れ落ちる。
澄ました顔をして立っていた後ろから急に膝をカクッと突かれてその場につんのめったかのようだ。そうとしか表現しようのない状況だが、曲の最後で急に体勢を崩したリタの身体を彼は片腕で支えてくれた。
――以前、武芸には一通りの心得くらいあると本人が言っていた通り、見た目よりもずっと力のありそうな腕に支えられて悲鳴を上げないよう口元を覆う。
既に一曲目は終わり、それぞれ組んだ相手とおさらいの指摘をし合っているところである。
何小節目、足が動いていなかったね。
最後の方は腕に力が入り過ぎていてよ? なんて。
優雅な貴族の余話などとても耳に入ってくる心の余裕などミリ単位でも存在しない。
「ラルフ様……!?」
大声で叫ぶことは出来なかったが、折角満足のいく一曲を披露できたと思っていたのに。
まさか相対している当の本人からの邪魔が入るなんて想像もしていないことだ。
バクバクと爆走を始める鼓動を引きつれ、リタは彼からバッと手と身体を離す。
大きく後ずさり頭を抱えて立ち尽くしているが、きっと今の顔は真っ赤だ。
王女なら王子様と一緒にべったりくっついて踊っていても構わないが、一般庶民の何のとりえもないような芋娘が彼に接触するなど気恥ずかしさの余り燃え尽きて灰になりそう。
別人、演技だなんて言い訳がなくなって素のままで向き合うと、これほど畏れ多くもこっぱずかしい事があろうか。
泡を食って若干の抗議を含めた視線を向けると、彼は肩を竦めた。
「よかった、僕は一体誰と踊っているのだろうかと思っていたよ」
「…………あの」
「とても上手に踊れているのは確かだけれどね」
「ええと……」
「前にも言ったけれど、僕はリタ嬢に話しかけたんだ。
……誰かに成り代わったような様子を見たいなど、思ったことはないから居心地が悪くてね。うっかり手が動いてしまった、申し訳ない」
責められているわけではなかった。逆に頬を抓んだ事を謝られ、そんなそんなと両手を横に振る。
思い起こせば、彼はカサンドラでさえ見過ごしたリタの変身後の別人姿でもノーヒントで看破して見せた。
目の前のリタが普段と違う言動をとれば、抱く違和感はすさまじいものだったに違いない。
「でもこうしないと上手に踊れなくて、ですね」
すると彼は口元に手を当て、やや腹を屈めるようにして可笑しそうに眼を閉じ笑いだした。
くつくつと喉の奥で声が漏れ出るのを押さえているような素振りにリタは顔面が赤くなったり蒼くなったりと忙しい。
ラルフと一緒に踊っても許される、そんな女生徒に擬態したかった。
でも彼の前では無意味なのか? それでは今後自分は一体どうすればいいのかと半ばパニック状態だ。
「さっきの君は確かに別人のようだ。技巧も堂々とした態度も申し分なく、何も言うことがないくらい
面白いね。君は案外演劇の才能があるのかもしれない。
でも、僕はわざわざ別人になりきった姿よりはいつもの君の方が似合っていると思うのだけれどね、当然のことだけど。
無理をしなくてもいいんじゃないだろうか」
「え? えーと……
あ、ありがとうございます?」
思わずポカンと口を開けてしまった。
これは何だろう。
要するに似合わないことをするなということか?
所詮平民なのだから身の丈に合わないような背伸びをして疲れる必要などないという忠告か?
「さぁ、時間は有限だ。
そろそろ次の曲が始まる。――今度はリタ嬢と踊らせてくれるかな」
その手を取るのはとても勇気が要ることだった。
間近で、心に何重もに張っていた予防線が一気に砂と化した素面の状態で。
彼とまともに踊れるのだろうか、彼の足を踏みつけたり身体をぶつけたり挙動不審でふらふらとみっともない姿を晒すのではないかと言う不安があった。
だけど一度役になりきるという自己暗示が解けてしまった以上、このまま相手をしてもらうしかない。
ここで棄権したって、彼に嫌な想いをさせて勿体ない事をしたと悔やむ未来が確定するだけである。
壊れた玩具のように首を上下に振り続け、緊張で震える指でもう一度彼の手を取った。
その掌から、先ほどは感じなかった彼の体温を直に感じ、全身が震える。
おっかなびっくり、さっきまで流れるように踏めていたステップが覚束ない。
緊張と意識しすぎで、手順が全部吹き飛んでまさに初めてダンスホールに放り込まれた無知な幼女のようだ。
優雅さとは程遠いもので、ハッキリ言ってラルフに失礼だと自分でも確信が持てる程ぎこちないダンス。
さっきまで右に左にと軸を揃えてターン出来ていたはずなのに、腰に回された腕が、組んだ指の感触が頭の中に叩きこまれる度に動揺して上手くいかない。
だがそれも二曲目の半ばから漸く落ち着きを取り戻し、遅まきながらもようやく彼の手を煩わせることなく足を動かすことが出来るようになっていた。
慣れというものは恐ろしい。
いや、違う。
今まで過剰に拒絶反応を示さざるを得なかった、ろくに顔も名前も知らないような男子生徒ではない。
冷静に考えて、好きな人にこんなにべたべた思う存分触れるなんてラッキー以外の何物でもない。今だけはこの幸福に浸っているべきなのだろう。
ありがたくも、下手な足さばきに文句を言うでもなく、『それでいい』なんて正面から言ってもらえたのだから嬉しい。
逆に自分の個性に合わないような、社交ダンスやら礼法作法やら楽器演奏やら――そのようなスキルを上げる必要性などないのでは? との思いがフッと浮かび上がった。
”今のまま”で、彼と親しくなれるのではないかと錯覚してしまう。
敢えて何者かを演じてまで、この身体に覚え込ませ馴染ませる必要などないんじゃない?
視界が、思考がグラッと揺れる。
今までの日々の選択講義の努力やらカサンドラ邸での特訓やらは、実は要らないものだったのか。
ラルフにとっては理想のお嬢様を演じる『リタ』は、イメージと違うし普段とは全く重ならない違和感のあるものだから見たくないのだろうか。
無駄……だったのだろうか?
そしてこうやって毎週のように、あまり知らない会話もしたことのない男子生徒と踊って慣れる練習をしたり。
メイドの練習ではないが、偉い人をもてなすための諸々の作法であるとか、言葉遣いだとか。
そんな課題は自分にとって無意味なものなのだろうか。
折角カサンドラが「こうした方が良い」としてくれたアドバイスは……
リタはリゼのようにストイックな性格をしているわけではない。
美味しいものは最後まで残せない、先に食べてしまう。自制心もない、優しい言葉をかけられれば素直に喜んでしまうタイプだ。
だから、わざわざ自分の性情に合わないことを無理に習得しなくても良いのではないか?
とラルフ本人からそうとも受け取れる忠告を受ければ、「それもそうか」とつい頷いてしまいたくなる。
恥ずかしい想いをしたくない。
敢えて別人を演じるような反則技まで編み出して続けるのは苦しい事だ。
今のままの自分の方がリタらしいと彼が言ってくれるのならとフラフラと甘言に乗って、全てを放り投げだしたくなる。
ダンスを踊れなくても、言葉遣いがおかしくても、
ガサツで女の子らしく振る舞えなくても
……良いのかな?
でも、そんな時にフッと過去の出来事が蘇った。
とても身の程知らずにも、初対面のカサンドラに特攻した時のことだ。
自分達の戯言を「何を言っているのだ」と呆れることもなく、想いが叶いますようにと真剣な表情で語り掛けてくれた彼女の言葉を。
あの時カサンドラは、何と言った?
三学期に ラルフのお嫁さん候補が内々に集められて
そこで選ばれないと ――……
今思い返せば、おかしな話だ。
そもそもリタはそんな場所に出ることなど出来る立場ではない、考えようによっては『無理だから諦めろ』と宣告されたに等しい話だ。
だがカサンドラは否定的な言葉など一つも言わず、常にリタの相談に乗ってくれるし助けてくれる。
一学期中その通りに従ってきた結果、今、こうして雲の上の人に話しかけてもらえるという幸運を得たわけだ。
これ以上は高望み過ぎる、十分だと足を一歩下ろすべきなのか。
それとも、一縷の望みがあると踏みとどまるべきなのか?
ずらっとお嫁さん候補が並ぶって、どんな光景なんだろう。
恐らく目も眩むように煌びやかで華やかで壮観で、自分には縁もない場所だ。
選ばれるわけがない。呼ばれるわけもない。
でも何故かカサンドラはある意味でリタ以上に楽観的で当然貴女もそこにいるんですよ、的な口ぶりでサラッと言った。
もしかしたら高位貴族でありラルフと懇意にしているカサンドラには、正攻法以外の手段があると知っている……のだろうか。侍女に扮して、こっそりついていくとか?
その時に選ばれるという奇跡があるとすれば? どんな魔法が使われるのかは知らないが、今のままの自分ではまず他のお嬢様や姫君達には太刀打ちできない。
並ぶことさえ許されない、お付きの侍女さえ絶対に能力不足で跳ねられる。
確信めいたことは何一つない状況だが、分かっていることが一つある。
さっき自分を奮い立たせた時に思ったはずだ。
別人になる必要はないと優しく言ってくれるけれども、それでは先が無い。
リタは今までラルフの周囲に沢山いるお嬢様とは違うのだろう。
クラスメイトだから近しく話が出来て、その差異に物珍しがれているだけだ。
好意というよりは、好奇心に近い気がする。
まるで珍獣、野生の動物を観察されるかのような立ち位置で親し気に接してもらえてもその先なんてない。
今の自分のままで良いという言葉は、嬉しい。
本質を看破し、外見に惑わされることのない彼の素の感想は有り難い。
だがそれはそれとして、やっぱり彼と一緒にいても遜色ないと思われるような能力も、外面だけの問題とは言え必要だと思う。
扱いが、見慣れない大型動物からランクアップするには現状に甘んじるだけでは望めない。
自分に欠けている要素があって、それが別人と思い込むことでしか馴染めないというのであればそうするしかないのではないか。
大丈夫だ。
だってきっと、どんなに顔が変わってもどんな服を着ていても、どんな言動をしていても
この人は 私を見つけてくれる
※
リタの表情に若干の余裕が生まれたからだろうか、彼は一緒に踊っているリタだけに聴こえるような声量で話しかけてきた。
「そういえば来月は収穫祭だね」
「……学園でも、収穫祭では催しがあるって言ってましたね」
確か二学期最初のオリエンテーションで今学期の行事予定の発表があった。
新入生のリタには行事の全てが初めての体験なので、今から楽しみでならない。
収穫祭と言えば――
故郷の村では、収穫された野菜の皮で作った『小舟』を川に流すという習慣があった。
収穫した野菜を美味しく頂きました、ありがとうございます! という神様への報告なのだとか言っていたが、野菜の皮を水の上に浮かべるのは殊の外難しい。
不器用なリタには大変苦手な風習だったなぁと思い出す。
ただ収穫祭の日に限っては村でご馳走が振る舞われるので、基本的には大好きなお祭りであると言って良い。
「学園では収穫祭、どんな事をするんですか?」
すると彼は口元や目元だけの笑みではなく、顔全体でにっこり微笑み。
それはね、と。楽しそうな口ぶりで教えてくれた。
「王国内で美味と知られる地方郷土料理を集めた『食事会』だよ」
そのラルフの一言で、リタの脳内には美味しい湯気の立つ様々な料理がお皿に乗ってクルクル
食事会……!!
学園内の毎日の食事だって毎日信じられない量と質であるというのに。
更に更に、普段食べることのないような料理が集まって皆で食べ比べる……?
「わぁ! 本当ですか!? ……楽しみですね!」
今が優雅な
当然何事かと皆が怪訝そうな顔。
そして険しい視線が自分に向けられた事に気づき、即座に口を噤んで赤面したのだが。
一緒に踊っていた彼の視線は、不思議なことにとてもあたたかいものだった。
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