第153話 会いたいのは


 全く以て予想だにしなかった気まずい時間。

 たった一分、二分の沈黙だというのに一気に胃に穴が空きそうだ。


 果たして何を話すべきかとカサンドラの頭の中は大騒ぎだったが、適切な言葉が全く浮かんでこなかった。


「ああ、そういえば……」


 彼も彼で、この不適切な静寂がいたたまれなかったのかも知れない。

 何かしらカサンドラに聞くべきことを思い出したようで、こちらの表情をチラと伺う。


 何故、ただ王宮の中を案内して欲しいという話なだけなのにこんなに頭を抱えて発言をなかったことにしたい、と懊悩しなければいけないのだろう。




「昨日の放課後教室に入って来た上級生、ベルナールという生徒らしいね」



 その声は特に責めるような口調ではなかったはずだ。

 だが勝手にカサンドラが一人、自白を求められる犯罪者のような心境まで追い詰められていく。


「ベルナール……ですか? 彼が何か……」


 社交関係で言うならば同郷の誼、そして名目上の幼馴染。

 だが彼もカサンドラのことなど疎んでいる体であり、今でもそれは変わっていない。

 彼は元々、高慢なカサンドラに進言しても聞き入れられず煮え湯を飲まされ続けていたようなものだ。今更カサンドラが改心したように見えても、胡散臭さが先に出ているのか態度もぞんざいだった。

 カサンドラとて、夏休みに彼が屋敷を訪れるまで存在自体を軽く記憶から消去しかねていたほど接点のなかった生徒だ。


 それが急に二学期が始まると同時にけたたましい様相でカサンドラのクラスにやってきた。

 あの時は何が目的で登場したのか全く意味が分からなかったが、自分が分からないという事は他のクラスメイトにも全く想像も出来ないという事だ。


 一方的に大声を出し、カサンドラに対し不躾としか言いようがない態度。


 この王立学園の生徒としての振る舞いに全く合致しない騒々しい人間だ。

 しかも夏休みに会った通りであれば、彼は不真面目で貴族という存在が大嫌いで。王子達の目に触れさせてはいけないレベルの存在だと今更思い至る。


 ……気分を害しただろうか。


「彼のことなのだけど、私達のクラスを訪れたのには何か理由があるのだろうか。

 やはり――」


 皆まで王子に言わせることがとても恐ろしく、カサンドラは畏れ多くも彼の言葉を遮るように唐突に立ち上がって深々と頭を下げる。


「申し訳ございません!

 彼には次の機会に良く良く言い含めておきます。

 あの者の言動で王子達を不快にさせてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」


 先手必勝と言わんばかりに、謝罪の一手だ。


 到底高位貴族の方々には受け入れられない反抗的な態度。

 同郷だからと言って呼び方や不遜な様を全く注意するでもなく、逆にこちらも普段言わないような冗談めいた言い回しで応答する――


 あの時は思い至らなかったが、自領の一部ウェッジ家の跡取り息子一人も御すことが出来ない、情けないレンドールの総領娘と言うイメージを抱かれてしまった可能性が極めて高い。

 部下の教育が出来ていなければ叱責を受けるのは当然だ。


 王子のいる教室であの態度を許容した自分は、さぞかし身内にはとことん甘くいい加減な人間に見えた事だろう。

 少なくとも立場上開きのある女性に対しての振る舞いではなかった、それを一切咎めず聞き流していたのは自分。


 ……今まで襤褸ぼろを出さずに生活出来たと思っていたのに、ここに来て彼に『王妃の資質』を疑われるようなことがあっては……

 穴の開いた胃がキリキリと痛む、そんな心境に突き落とされる。


 だがカサンドラの必死の訴えはまるで見当違いのものであった。

 彼は虚を突かれ口を僅かに開け、困ったように眉尻を下げる。


「いや、そうではなくてね。

 彼の家には、国として義を欠いた行いをしてしまった。

 さぞかし彼の親御さんも困っているのではないかと……

 抗議であれば、私も聞き届けなければいけないことだ」


 人の話を最後まで聞け、というジェイクの忠告が今になってトストスとカサンドラの頭部に突き刺さる。

 ええと、と曖昧な言葉を出す間に、ウェッジ家に生じた問題の事を少々思い出す――確かに、急に去年唐突に中央と取引していた小麦がどうやら、という話は聞いた。

 カサンドラの父クラウスも何だかそのことで面倒そうな様子だったことも。


「……お、恐らくその件については事なきを得たのではないかと……」


「そうか、ならばいいんだ。

 申し訳ない――エリック卿の突然の決定に、私もシリウスも留まるよう進言したのだけど力が及ばなかった。

 これ以上の不利益が彼らに齎されることはないはずだ、非道な采配を呑んでくれて大変感謝する」


「勿体ないお言葉、ウェッジ家に代わって御礼申し上げます」


 正直に言えば商取引のことなどカサンドラの携わる範囲外だ。

 領地運営仕事の場にまでしゃしゃり出るような教育は受けていない、それはアレクの役割だ。


 父親の名代で王都を齷齪駆けずり回っていたベルナールも、決して不真面目なだけの男ではないと分かる。

 ただ、そういうあれこれも重なってこの学園や貴族が大嫌いというだけで。

 あんなに心が荒んでスレてしまっていたなど実際に会うまで想像できなかった。


 いや、カサンドラにとっては彼は過去の人間だった。

 自分が記憶を思い出すまでの己の黒歴史を後生大事に記憶し抱えている彼は、出来れば視界にも入れたくない微妙な立場の知人。

 思い出すことも憚れる、沈めた記憶の一部というか……

 

 気安くはあれども、決して近寄りたくはない。

 そんな微妙な相手のことを考え、カサンドラは心の中で憂鬱な溜息を落としたのである。




 ※



 嫌な予感というものは当たるもの。

 翌朝、カサンドラが教室に入ってすぐの登校直後に事件は起こった。



 王子に手紙を渡すため、生徒会室に早く行く用事がない日は遅くもなく早くもない時間に到着するのが常である。


 大体カサンドラが入室していた時には王子達は席に着いていて生徒に取り囲まれているし。

 三つ子に関しては一緒に登校したりバラバラだったりと統一性はないが、お互い遅刻をしない範囲内で通学していることは確かだ。


 既に教室は半数以上の生徒が登校済みで、専用の机には指定の鞄が下がっている状態である。

 カサンドラもそれに倣って鞄を掛けようと支度を始めた。


 まさにそんな一日の始まりを粉微塵に砕く存在が、教室後方の扉からやってきたのである。

 最初は扉の開閉音など注意を払わず、クラスメイトの誰かが登校してきたのだろうと視線だけを一瞥する――が。



「ベルナール!?」


 ここにいてはいけない存在を再び目の当たりにし、カサンドラは机の横の出っ張りに掛けようとしていた鞄をストンと床に落とす。

 それくらい動揺し、ぞわっと身の毛が弥立ち肩が震えた。


「げっ! なんだよカサンドラ、お前も早えーな、おい。

 こっちは早起きに苦労したってのに」


 口を真一文字に引き結び、彫りの深い顔立ちの男子生徒。

 彼はただならぬ意気込みを背負い、その鋭い眼光で教室内を一望した。

 そして僅かに彼の表情が喜色に染まりかけたのを確認するより早く、カサンドラは駆け寄る。


「寮住まいで早起きしてこの時間の方がどうかしています、普段一体何時に起きているのですか貴方は!」


「いつもは八時過ぎだがな、聞いて驚け今日は七時半起きだ。

 フフン、昨日の放課後は選択講義で会えなかったからな、朝に来れば良いって気づいたんだよ」


「とても早起きとは言えませんが」


 カサンドラが家を出た時間に起きたと胸を張られても大変反応に困る。

 そもそも会いに来たって、誰に?

 言い方は悪いが、いくら地方の無位の領主の息子だからと言って――ここまで躾のなってない大型犬に会わせられるような生徒などこのクラスにはいない!

 彼のどこにいても変わらない明け透けで奔放な物言いは今に始まったことではないが……


 ここは王子が在籍するクラスだ、りにった生徒で構成された面子が揃っている。

 ベルナールの不遜で横柄な態度に多くの女生徒は怯え、不安そうな目でこちらを見ているわけで。 


「お待ちなさいベルナール。

 再度問いますが、貴方、わたくしのクラスに一体何の用があるのです?」


 昨日の王子との会話が脳裏にリフレイン。


 まさか本当に、王子やシリウスに対し急な作物取引停止に抗議するために教室まで来たのではあるまいな!?

 それは決して勇気などではない、無謀だ。

 彼の進みを止めなければ……とそればかりで頭が埋まる。


「ああ? ここの教室の主でもあるまいに、えらそうに」


 皮肉げに口を歪め、彼はずかずかと教室の中に入っていく。

 それを押しとどめるよう、彼の腕を取った。


「わたくしは貴方に問うているのです。質問に答えなさい、ベルナール」


 周囲の視線が物凄く痛い。

 前方に陣取る王子達も何事かと様子を伺っているだろうことは想像できるが、恐ろしくてそちらに背を向けるような形で立つ。

 何とかして彼を教室から引き出して、事情を聴かなければとそれだけで頭が一杯だった。 


「じゃあ、お前に会いに来たっつったら満足か?」

 

 それはこの間の冗談の意趣返しのようなものだ。

 ニヤッと笑って嘯く彼を押しとどめるよう、その腕を掴む指に力を込めた。

 爪を食いこませる様に力を入れても所詮は一般的女子の握力だ、彼は全く意に介さない。


 ベルナールにとっては確かに業腹だろう。

 だが自分にとって彼は学園内で”格下”の序列で、衆目の前で御しきれななどと思われてはこちらの立場が揺らぐ由々しき問題。

 ただ飄々と普段通りに振る舞う彼は、こちらの切実な願いを一向に聞き入れない。


 ……ならば彼が言うことを聞くように”昔に戻る”か?


 彼を見下し黙らせ、有無を言わせぬ絶対的存在として――以前のように怒声を浴びせれば彼も渋々ながら引き下がってくれるか。

 だがそんなまさしく悪役そのものの振る舞いをクラスメイトに見られるのも大変困る。

 恥ずかしい上に、今まで培ってきた信用の全てを壊してしまう……


 三つ子だって教室にいるのだ。

 偉そうに身分をひけらかしながら言うことを聞かない相手を抑えつける、そんな姿を見られたくない。

 だがいつまでも言うことを聞かせられない様子も見せたくはない。

 迷った。ジレンマだ。


「おい、ちょっと待て」


 だがカサンドラの葛藤は幸か不幸か長く続かない。

 自領の人間一人宥められない自分を叱りに来たのか、とカサンドラの背筋が凍りついた。


 恐る恐る横目で確認すると、そこには辟易とした様子で腕組みをするジェイクの姿がそこにある。

 わざわざ教室の後方まで移動して、何を言い出す気だとカサンドラも息を呑む。


「……何だ、よ」


 怖いもの知らず過ぎるベルナールだが、流石にロンバルドの嫡男が話しかけて来ればその勢いは削がれる。

 この学園に通う以上、絶対に目を付けられてはいけない相手だと彼もよくよく分かっているはずだ、下手な騒ぎを起こしたことを秒速で謝罪して一刻も早く教室に戻って欲しい。


 はぁ、とジェイクは瞑目し――そしてうっすらと橙色の瞳をうっすら開けてこちらをめ据える。

 そうやって真顔で睨んでくると心臓が竦み上がるくらい怖いと思う、それは普段剣を携え相手と対峙する軍人が持つ威圧感のせいか。



「ベルナールだったか。

 別にお前の女の趣味をどうこう言うつもりは無いけどな。

 生憎カサンドラは現段階ではアーサーの正当な婚約者だ。

 その話が解消した後だと言うなら、言い寄るのはお前の自由だが……」



 ジェイクが本当にうんざりした様子で腕を組んでいるので、カサンドラは我に還ってベルナールから瞬時に手を離す。

 もしかして!


 ……今までの態度、会話内容などからベルナールがカサンドラに懸想しているとでも判断された?

 可能性としてはなくはない、今まで自分にフランクな態度で話しかけてくる男子生徒など皆無だ。

 それが王子に、ひいては王族に一目置いた敬意の表れだとするならば。


 全く状況を考えずカサンドラと一見訳知った様子で話をするベルナールは何なんだ、と言う話になる。

 盛大なる誤解だ。


 このままでは誤解にせよ何にせよ心象は最悪。

 下手をすれば彼共々、懲罰房送りになるのではというぞっとする未来が頭をよぎる。



「――……はぁ?」



 心底呆れた様子のベルナールは、ポカーンとした様子で口を開ける。

 が、すぐに頭に血が上ったようだった。

 ベルナールは正面に立ち塞がるような形で立つジェイクを指差し怒鳴る。


「だ・か・ら! 俺が用事があるのはこいつじゃないって言ってるだろ!

 邪魔されてるだけだ!」


 彼はようやく自由になった腕をぶらぶらと左右に振り、スッと教室の奥に歩いていく。

 ジェイクの横を通り過ぎ、窓際に向かって一直線だ。

 その迷いのない動作に、カサンドラもジェイクも、いや教室にいる全ての生徒が注視していたことだろう。



「やっと見つけた!」


 彼は顔に喜色を浮かべた。その表情に嘘偽りなど感じる隙間もない、満面の笑みだ。

 それまで窓際の席で一人、息を潜めて存在感を消そうと縮こまっていた一人の少女は、大きく肩を跳ね上げる。

 席に座って俯き、出来る限りベルナールから距離を取ろうと身体を横に傾けるが残念ながらそちらにあるのは壁だ。

 逃げようもない。


 ベルナールはそんな怯え戸惑う少女、ゴードン商会の娘シンシアに向かって片手を差し出した。

 もう片方の手は己の胸元に添え、キラキラと輝く笑顔で。



「シンシア!

 俺、お前の好みになれるよう頑張るから――



    結婚を前提に俺と付き合ってください!





     っていうか嫁に来て欲しい!」




 その日の朝、教室の窓は全開だった。

 ほとんど風もそよがず、無風に近く残暑が教室内の気温を上げている。


 だがベルナールのその発言の影響で、ゴウッとクラス中に突風が吹き荒ぶ幻を一同が共有した。

 突拍子もなさすぎる怒涛の求婚のインパクトは絶大だ。


 カサンドラも動揺のあまり目を点にして、掌をシンシアに差し出すベルナールの全身を見やる他ない。


 何故……何故こんなことに?


 そう思いを巡らせる時間もありはしなかった。



 シンシアは衝撃の余り呆然としていたが――

 みるみる内に顔を真っ赤に染め上げ、祈るように自身の手を組み椅子を後ろに転がす勢いで立ち上がる。

 そして目尻にうっすらと涙を溜め、全身を戦慄かせ叫んだ。



「い……、いやーーーーー!!」



 逃がさないとばかりに真横に立つベルナールは、絹を裂くような悲鳴に気圧されて一瞬蹈鞴を踏む。

 その隙を突いて、シンシアは逃げ出した。

 あまり足が速そうには見えない彼女だが、その逃げ足はまさに脱兎のごとし。


 教室の扉の前で異様な雰囲気にのまれ立ち尽くすクラスメイトを押しのけるように、彼女は疾風のように教室から出て行った。


「おい待て、なんでだよシンシア!」


 だが諦めの悪い男は、そんなことでは到底納得いかないとばかりに彼女の後を追いかける。

 教室に入ろうとする生徒にタックルしながら、彼は想い人を追いかけて廊下を駆けだしてしまった。




「……え?」


 後に残されたカサンドラは、状況が呑み込めないままこめかみを人差し指で解す。

 ベルナールはシンシアに会いに来ていたという事?


 ……でもあの二人に接点なんて、そんな……




『はー、どっかにいねぇかなぁ。

 貴族のお嬢さんなんて、ろくなもんじゃねーし。

 慎ましくて女の子らしくて控えめで素直で――とにかく心が優しいフツーの女の子、落ちてないかなー』




 思い出を手繰り寄せ、ようやくその接点を作ったのが自分だと気づいた時には顔が真っ青だ。

 自分は、もしかしてとんでもないことをしてしまったのでは……


 ベルナールはシンシアは何も欲していなかったとそれだけの報告しかしてこなかった。

 代理人として役に立たなかったという記憶しかないけれど。

 一体、二人の間に何が……

 



「カサンドラ……」


 完全に置いて行きぼりにされたのはカサンドラだけではない。

 牽制要員として動かざるを得なかったジェイクは髪をくしゃくしゃっと掻き乱し、額に青筋を浮かべカサンドラに向き直る。




「お前、紛らわしいんだよ!」










    えっ、やっぱり私のせい!?










 ※






 彼女の机の横には鞄が掛かったまま。

 その日、シンシアは教室に戻ってこなかった。

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