第102話 王子の要望
先日はリゼの本気を見せてもらい、驚き戸惑ってしまったカサンドラ。
普段教室内での姉妹間の会話や対面で話すときには世間を斜めに構えて見るタイプのようなのに。
最初からそうだったが、ジェイクの事になると本当に何をするか分からない。
リゼはこの世界の”主人公”という立場もあるだろう、でもリタやリナも同じようなポテンシャルを持っているとしたら……
昨日の生徒会室のジェイクとシリウスのやりとりを思い出し、少々顔が青ざめる。
私の胃、
仲裁役だけは本当に勘弁してもらいたい。
そんな風に己の体調の心配をしつつカサンドラは今学期最後の選択講義、歴史学の講座に足を運ぶ。
この時期はやはり実技よりも席に着いて講義を聞く生徒の方が多いようで賑やかである。
来週から試験なのだ、選択講義の内容は直接試験に反映されることはないけれど。
繋がりや関係のある知識を学べるかもしれないし、ジェイクではないが”内職”をして試験対策する生徒もいないわけじゃない。
そういう最初から講義を聴く気のない人たちは後方の列に陣取っているので大変分かりやすい。
カサンドラは試験勉強の気分転換も兼ねて、講義を聴く気満々で前方の席に向かっていた――ら。
そこに人垣ができており、うっ、と怯んだ。
こうやって誰かを中心に女生徒が集まっている場合、そこには彼らの内の誰かが座っているわけで。
誰だろう? と、ヒヤッと背筋に汗が滴る。
カサンドラが姿を現した途端、彼を囲んでいた令嬢達が一人、二人と遠ざかっていく。そのことで必然的に中心人物が誰かは知れるわけだ。
同じ講義を選んだ相手は、王子だった。
一気に人が引いていく様子には未だに慣れない、教室内ではカサンドラがいようがいまいがお構いなしにクラスメイトは王子に話しかけているもので。
「君と一緒の講義は久しぶりだね」
そこまで周囲の露骨な変化があっては、当然王子も近づくカサンドラの存在に気づいてしまう。
お互いに無視など出来ない間柄。
無論、カサンドラは無視なんか絶対出来ないのだけど。
別にカサンドラが彼女達を追い払ったわけではない、自主的に道を開けてくれたのだ。
でもやっぱり自分が追いやったように傍から見えるだろう。
外聞が悪い…!
若干の居心地の悪さと引き換えに、王子の爽やかな笑顔を見ることが出来る。
……素直に、嬉しい。
相変わらず人類の至宝だと言い切りたい、王子の麗しいご尊顔に怯みそうになった。
努めて平静に、カサンドラも一礼する。
「ごきげんよう、王子。
今学期最後の講義を王子と一緒に聴くことが出来て嬉しく思います」
周囲の女生徒が席を退いてくれたので、前方窓際の席に座る王子の周囲はぽっかり空席。
一瞬どこに座るか悩んでしまったが、やはり王子の隣以外はあり得ないような気がする。
以前もそうだったし、周囲の目もあるし。
「隣にお邪魔いたします。……宜しいでしょうか」
「勿論、どうぞ」
彼の笑顔は聊かも曇ることなく、この暑い夏でも清涼感さえ齎すほどだ。
入学してから三か月以上が経過し、頻繁に王子の姿を見かけているというのに。
どうにも彼の姿には慣れない。
隣に座るだけでも本当に良いのかどうか何度も確認したくなるくらい緊張する。
でもカフェで一緒にお茶をした時よりはまだ心理的距離はマシになっただろうか。
カサンドラ比で、だが。
講師が来るまでの残り少ない時間に軽い雑談を始める。
顔見知りと一緒にいて無言だと落ち着かなくなるものだが、それが王子だと猶更だ。
他愛ない天気の話が終わると、沈黙が互いの間にフッと降り立った。
沈黙は……怖い、というか勿体ない。
折角王子と一緒にいられるのに!
ここで王子と会うことは予想外だったので、話題のストックを大慌てで探る。
話したいことが在り過ぎて、この場で何を話すのが正解か忙しなく思考が巡る。
脳内の『王子BOX』を手当たり次第にガチャガチャと掻き回すことになるわけで。
笑みを浮かべたまま、言葉の選択に迷うカサンドラ。
手持無沙汰にならないよう鞄の中から適当に筆記具を入れたりしまったり、指の先は完全に迷走している。
「そういえば……」
ありがたいことに、右往左往するカサンドラよりも先に王子の方が気を遣って話しかけてくれた。
「この間見せてもらった舞踏会のドレスのことで話をしてもいいかな」
まさか王子から舞踏会というキーワードが出てくるなんて。
何気なく放り投げられた単語を掬いあげ、カサンドラは肝が冷える想いだ。
ここでドレスの件……?
「は、はい。
何か問題があったのでしょうか?」
やはり色合いが明るすぎてカサンドラには合わないからもっとシックな印象のドレスが良いのでは?
なんて提案されたらどうしよう。
今から変更して間に合うとも思えない、だとすれば過去に着たドレスをリメイクして……
「この間王宮で侍女達と衣装の打ち合わせをしていてね。
その時君のドレスの話をしたのだけど――
ドレスの後ろを留める紐が、鮮やかな赤色と指定があっただろう?」
「え? そ、そう……ですね」
まさかあのデザイン画を記憶し、更に言葉にして説明できる記憶力をお持ちで!?
カサンドラの笑顔に僅かに亀裂が入った音がした、
自分だって全ての配色なんか覚えていない、勿論デザインを見つつ脳裏にイメージすることは出来る。
でも背中の紐の色なんて、そんな細かいところまで……
ああ、確かにリボンで結ぶとか書いていた。
男性は女性のドレスなんかにそう興味はないものだと思い込んでいたので、動揺が態度に出てしまったかもしれない。
彼に言われて思い出せば、確かにドレスの背中のデザインは、上部をホックで留めるものではなかった。
本来ホックで留める部位がハトメ――金属の輪っかになっていて、そこに紐を通してぎゅっと結ぶ。
デザイン画では蝶結びであったが、そのあたりはドレスを着つけてくれる使用人のセンスに任せればいい。
「話の最中、それなら私の
靴底!
確かに舞踏会でダンスを踊るなら、普通のパーティよりも靴を動かすことになるし。
その靴裏が赤色なのは普段見えないところのお洒落っぽい気がする、チラチラと目に入ることだろう。
想像すると素敵だなと思った。
王子なら何でも似合うと断言できるが。
「王子のお衣装を拝見できるなんて、当日が楽しみです」
嘘偽りない気持ち、万感の思いでそう答える。
カサンドラの衣装の色は白が基調で明るいし、きっと王子も白系で纏めて登場するのだろう。
想像しただけで華やかな光景が視界一面に広がっていく。
金髪碧眼のカッコいい王子様が、舞踏会仕様の衣装で踊るのだ。
……果たして自分は正常な精神で隣に立っていられるのだろうか、自信が全くない。
ふふふ、とちょっと気味の悪い微笑みになったかもしれない。
そんな風に慌てるカサンドラだったが、逆に王子も少し表情が変……? 気のせいかもしれない
「だからカサンドラ嬢、舞踏会の髪型は合奏の時のように纏めてもらってもいいかな?」
「………?
え、はい、それは……まだ、髪型までは決めていません。
王子がそうおっしゃるのでしたら」
「良かった、その方が君の赤い飾り紐が良く見えると思ってね。
今の髪型も似合っているけれど、あの日は印象が違って見えて驚いた。
――当日の楽しみが一つ増えたよ」
物凄く軽い感じだが、大変恥ずかしいことを言われた気がする。
カサンドラは無意識のうちに自分の首、そして後頭部に片手を置く。
合奏の時は演奏の邪魔になってはいけないとひとまとめのアップ状態で参加した。
当然今は普通のハーフアップで、バレッタで纏めた箇所以外は完全にそのまま背中まで金の髪を下ろしているわけで。
自分の掌は、サラッと髪を撫でるだけ。
なんと言えばいいのか、分からない。
視線を落ち着かなく動かし、出来ることならば頭を抱えてその場に突っ伏して悶えてしまいたい。
だが自分は王子の婚約者!
レンドール侯爵の一人娘! 講義室でいきなりもんどりうつなど! そんな奇怪な行動をとるお嬢様など存在しない!
ぐっと奥歯を噛み締め、膝の上の手を握りしめ。
このもどかしくも恥ずかしい衝動を何とか必死で抑え込む。
ああ、でもこの内側からカーッと込み上げてくる感覚が上手く昇華できない。
言った当人は何も変化のない表情で、普通に微笑んでいるのだから全く心臓に悪いどころじゃない。
彼としてはなんでもない、ただの当日の衣装合わせの確認のような案件なのに。
髪を纏めている方が良い……というわけでもないのだろうか?
王子がそっちの方が好ましいなら、この学園の女子生徒の慣習を華麗に破ってアップヘアでもシニヨンでも纏めて来るのですが!?
別に校則で女子の髪型が決まっているわけではない。
長く美しい髪こそ淑女のシンボルという社交界の価値観がそのまま適用されて、皆ロングヘアなのだ。
実際に長い髪の手入れは大変だ、余程ゆとりがないと長い髪には出来ても手入れの行き届いた美しさは維持できない。
一気に沸騰するテンション。
でもすぐに、それは現実を思い出してしゅんと落ちる。
いや、やめよう。
勘違いして暴走した結果、王子が引いてしまうかも知れない。
”ただのお世辞を真に受けられてしまった”なんて思われでもしたら、王子の顔が見れない。
普段から髪型をそうして欲しいと頼まれたわけではないし、何より自意識過剰すぎて冷静に考えたら恥ずかしい。
一度だけ髪型を変えたから新鮮味があったというだけの話で、それ以外の意味などないのだ。
一々自分の願望だの期待だののフィルターを透してしまうから、自分の思考が先走り過ぎてしまう……
そうやって提案してくれるということは少なくとも自分が嫌われたり避けられたりしてない! と、思うけど。
王子ならあまり好ましくない相手でも、円滑な関係性を築くためにお世辞くらい言えるはず……うーん……
分からない。
今口を開いたらむにゃむにゃと言語化できない気持ちが漏れて出てしまいそう。
いくら心に予防線を張って浮かれすぎないようにしようと戒めても、好きな人からそう言われて嬉しくないわけがない。
顔の表情が緩みそうになる。
……王子が女性との話に慣れていないとか、絶対そんなはずはない。
物凄く気が付くし、ここぞというところで欠かさず持ち上げてくれる。
それは彼が王子という立場だから、多くの令嬢達を相手にするスキルの一つとして磨き上げられた対外的な誉め言葉で。
相手がカサンドラでもそうでなくても彼は普通に爽やかな笑顔で褒めてくれるのだ。
……彼の掌の上でゴロゴロと転がされている気持ちになったところで、少し遅れて講師が扉を開けて入って来た。
顔を触るのが怖い。きっと今、凄く熱くなっているから。
※
王子と並んで歩き、生徒会室に向かう。
先に入室し、奥でお茶の準備をしていたアイリスがこちらに気づいて「まぁ」と嬉しそうに表情を綻ばせる。
「ええと、たまたま……選択講義が一緒で……」
アイリスの微笑ましさ全開の視線から逃れるように、何故かカサンドラは言い訳じみた説明をしてしまう。
「そうなのですか、ふふ、それは良かったですね」
含み笑いに何らかの意図を添えるのは王子が不審に思うのでやめて欲しいのだけど。
彼女は王子と自分の仲が上手くいくことを願ってくれているようだが、その生暖かい空気に晒されると居たたまれない。
しかも彼女自身は許嫁同士ながらも相思相愛のレオンハルト公子というパートナーがいるのだ。
既に最大限の仲を構築しているだろうアイリスにほんわかと応援されているのだと実感するのは……かなり気恥ずかしい。
彼女の意味ありげな微笑みを遮るように、カサンドラはそっと一通の封書をアイリスの前に差し出した。
「こちらがアイリス様の招待状です」
それは彼女が、腹違いの妹達にビリビリに破かれて失ってしまった――舞踏会への招待状。
一度失われたもの、それも国王陛下の名の下に発行されたものだ。
再び手にすることなど出来るはずが無かったものが、今こうしてアイリスの手元に戻ってきた。
途端、アイリスの表情が引き締まる。
背筋をしゃんと伸ばし、清廉たる瞳をカサンドラと王子に向けたのだ。
彼女は片手で招待状を大切そうに抱き、そしてスカートの裾を軽く持ち上げる仕草で一礼する。
その流れるような淀みない所作は、彼女が良家の息女であること何よりも示す”こなれた”ものだった。
「王子殿下。
この度は
殿下の寛大なる御配慮を頂戴し、恐悦至極に存じます」
「気にしないで欲しい。
私の些細な手間など、アイリス嬢が舞踏会に参加できなくなってしまうことと比べればどうということはないのだから」
王子も瞳を細めてニコッと微笑む。
高貴さが溢れ、慈しみさえ滲み出る声掛けに、カサンドラも動揺した。
アイリスが王子を生徒としての王子ではなく、王族としての王子に対してお礼を述べたからそれに合わせたのだろう。
余裕というか、上に立って当たり前という存在感。
普段学園生活や生徒会では自分が前面に出ることは無いけれども、やはり彼は特別な人間だなぁと横で見ていてもドギマギする。
金の力で爵位を買ったような貴族擬きには真似できない育ちの良さで出来ている。
「恐縮です。
舞踏会で御二方にお会いできることが、今から楽しみでなりません。
……カサンドラ様、ありがとうございました」
――舞踏会。
ついさっきの講義の前、ドレスがどうの衣装がどうの。髪型がどうの、と。
王子と交わしていたやりとりが明確に脳内で再現されるので、今はその単語を出来る限り遠ざけたいのに。
今日が今学期最後の役員会なら――渡すしかないではないか。
「舞踏会の前に、お互い試験を頑張って乗り切りたいね」
王子はこの一瞬で、いつも通りのアイリスの後輩であり『生徒会長』としての顔に戻る。
臣下に接する時の王子の雰囲気は、さっきのように凛としたものなのだろう。
普段自分達が見ている王子は学園仕様の王子様。
でも王宮で他の家臣たちと接する時には、そこに王族としての風格を纏っているのかも。
カサンドラは結局、彼の一面の端っこくらいしか知らないままだ。
もうすぐ一学期が終わってしまう。
……この夏にも会えたら、彼の事がもう少し分かるだろうか。
来週の今頃は、試験が終わって学園中が解放感に満ちていることだろう。
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