第49話 『ミランダ嬢、政略結婚する』
――彼に選ばれる日など来るのだろうか。
恐らくそんな日は永遠にこないのではないか。
まるで自分は刑の執行を待つ囚人のようだ。
ミランダは父親の操り人形に過ぎない。
自分がこの世で最も嫌いな人間の権力のための道具だ。
淡い恋が叶わないと思い知った時の事を思い出す。
初めて好きになった人に『結婚してください』と言われた時の天にも昇るような幸せを覚えている。
そして父が彼の身分を理由に彼を罪人のように面罵し、激しく憤った。さながら吹き荒ぶ大嵐のような一幕を経て二度と会うことが出来なくなってしまった絶望を覚えている。
父である伯爵が大嫌い。
ミランダは知っている、妻は一人だけだと世間様に吹聴しながらその実特定ではない多くの女性と関係を持っている事を。
恐らく自分には、父が決して認めることのない腹違いの兄弟姉妹が何人もいるのだろうなということも。
『ダグラスは中々に気難しい御仁よ。ならば直接、お前が
失敗するとは思ってもいないが、万が一にもどこぞの小娘に勝ち馬に乗らせるような失態は許さぬ』
父はロンバルドの当主に幾度もミランダを推挙し続け、何かにつけ彼に返事を求めていた。
ロンバルド侯爵は推されたミランダとの話を断ることはなかったが、返事は常に保留の一言。
この時期まで婚約者が決まらないなど前代未聞だとミランダも不思議である。
だがどんな事情があるにせよ、自分は立場的にも置かれている情勢的にもジェイクと結婚”すべき”だ。
そのためだけに育てられたようなものである。
三年前、結婚しようと言ってくれた彼は父を大いに激高させた。
父の見たことのない剣幕にミランダも彼を庇うという選択肢が浮かばなかった程だ、あれ以来アンディの顔を見ることさえ許されなかった。
仕方ない、仕方ない。
でも自分はマシだ。
ジェイクは自分が好きだった彼と同じ騎士で、そして――人柄上、絶対に浮気もしないだろうし愛人を囲うようなこともないだろうし。
父とは違う!
あの男とは全く違う。
貴族らしいとは言い難いけれど魅力的な少年だった。
父のような性格の男に媚びを売れと言われれば絶望しかないが、ジェイクは嫌いじゃない。
どちらかというと好ましい。
アンディの次に、自分にとって理想の男性だと思う。
彼はとても真面目だし、実直な性格だ。
騎士を目指すことを決めた理由を知って、一層確信した。
どうせ一番好きな人と結婚するなど自分の身の上では不可能なのだ。
ならば次の可能性を追求するしかない。
選ばれたい! 守られたい! 愛されたい!
ジェイクと話をしていると、会うことも出来なくなった彼の話も時折聞くことが出来るし。
ミランダにはジェイクと結婚すること以外に残された道がない。
あの特待生と自分は違う。
あの娘は純粋に
想いが叶わなくても誰にも怒られない。
自分には彼しかいないのに、それを奪うな。
貴族という身分を気にしない振る舞いであるとか。
優しいところだとか。
強いところだとか、そういう共通項を見つけては彼を通してアンディを見ていたことは認めるとも。
もしもジェイクとの縁談が消失してしまったら、ミランダはその先がない。
父はそれ以外考えていないし、当然ミランダが選ばれるものと思っている。
周囲の人間もそれが当たり前だと思っているし、どうやら自分が一番序列的に高いらしいし。
……ジェイクに選ばれなかったら、どこの貴族に嫁がされるか分かったものではない。
役立たずと罵られ、父の逆鱗に触れて家を追い出されるかも。
遠い異国の島国に嫁がされる可能性さえ否定できない。
殺されることはないだろうが、どんな形で当家の踏み台にさせられることやら。
残酷なことが不得手な自分では想像も及ばない。
似た者同士の父子でミランダという商品の行き先を話し合うのだろうか。
ああ嫌だ。
それよりはジェイクが良い。
順当に彼の庇護下に入ることが出来るなら、守ってもらえるなら!
父とは異なる価値観で、『優しい』人の傍に仕えることが出来るならそれが幸せだ。
その幸せを遠ざけようとする奴は何があっても許せない。
それなのに、だ。
あの娘の純粋な感情に当てられてしまった。
好きだ、嫌いだ、脈がある、ない。
恋愛だ――
そう、それは可笑しな話だった。自分達にはこんなにも縁がない話なのに。
好かれなければいけない、他人を蹴落とさなくてはいけない立場も知らない癖に。
どうして貴女だけが、好きな人を想えるの。
叶わない夢を見ても許されるの。
……そして邪魔だから、腹が立ったから。
一向に色よい返事をもらえず避けられてばかりの自分。
なのに、そんな自分を嘲笑うようにあの娘が一緒にジェイクと帰宅した――と聞いた瞬間、理性の糸が一本切れた音がした。
自分はやはり父や兄と同じ血が流れているのだなぁと気づかされる。
あの娘が死んでしまっても構わないとさえ思う程、激高して弱い立場の人間に腹いせをぶつけているのだ。自分の中にあんな一面があるとは知らなかった。
言われた通り、自分の存在を否定する相手を排除し続けても、願いは叶わないというのに。
――家族を嫌いだと唾棄しながら、知らず知らずのうちに感化されていたことに衝撃を受けた。
ジェイクの事は好きだ。
それ以上に好きになってもらわないと困る。自分の行き先がない。
……どこが好き?
優しくて強いところ、身分を気にせず自然に立ち振る舞うところ。
ああ、でも顔は全然似てないかな。
このまま彼が自分を選ばないまま卒業を迎えてしまったら、自分はどこに流されて行くのだろう。
自分は他の令嬢と違って、”駄目で元々”と他家の縁談も保険をかけてジェイクにアタックしているわけではない。
保険がない。
父は他の候補を一切選んでくれない。
伯爵にとっては、念願のロンバルド当主の外戚になれる最大の好機だもの。
そうなれば兄も安泰、それはそれは多大な恩恵を我が実家は得られることだろう。
ジェイクに拒絶されたままなら、生涯独身? 嫁かず後家?
でも父や兄がそんな穀潰しを家に置くわけがない。
世の中には娘可愛さ、妹可愛さのあまりどこにも嫁に出さず養い続ける家だってあるだろうが、自分に限ってそれはない。
どんな風に使われるのか分からないから怖い。
愛されたいと思うのは我儘だ。
それと引き換えの特権階級。自由な想いと引き換えに、様々な便宜をはかってもらえるわけなのだから。
『見込みない者同士、正々堂々頑張りましょうね』
曇りなき眼でそう優しく語りかけられた時、ザーッと血の気が引いた。
生きている世界が違う。
己の勘違いで巻き込んでしまった事を心底後悔した。
自分には得られない生き様を、
打算の無い恋愛? ――それは御伽噺か何かかしら。
私のものに手を出すな、私からこれ以上奪うな。
分を弁えろ。
そんな己の切実な願いさえ空回るのか。
愛して欲しいなんて無理は言わない せめて選んで。
私をあの家から家族から、連れ出して。
※
学園で授業を受けていたミランダは、急な呼び出しがあるとの話で教室を出ることになった。
身分や立場が一般的ではない自分達には呼び出しなど珍しくもない話だが、何故かその日は胸がざわめいて仕方なかった。
「……!」
学園内の応接室で自分を待っていたのは、全く予期せぬ人物であった。
父か兄の手の者が様子でも見に来たのかと警戒していたミランダの前に、一人の青年が立っているではないか。
三年前、家で雇っている護衛兵達に両腕を掴まれ屋敷から引きずり出され。
乱暴に地面に投げ飛ばされた人と全く同じ面影をしている青年。
「え? ……ええ?」
目を凝らして良く見ても、アンディにしか見えない。
ミランダより四つも年上の彼は、既に二十歳を数える立派な青年である。
彼が王立学園を卒業した後、ミランダを嫁にくれと直談判に来た彼が――そして二度と娘と会うなと父を激高させた彼が? 何故?
ロンバルド派において末端に近い家の嫡子だが、騎士団では頭角を現し出世頭だという話はジェイクからも聞き及んでいる。
尤も、将来父親の将軍の跡を継ぐだろうジェイクと比べればささやかな昇進には違いないけれども。
彼は彼の世界で頑張っているのだなぁ、と。
既に他人と化した彼の安否情報はたまに漏れて聞こえた。
綺麗な銀の髪、優男の雰囲気を纏いながらも騎士団勤めでしっかりした身体つき。人好きのする好青年のアンディが何故ここに。
「ミランダ、久しぶりだね」
「……はぁ……。
ええと、その……貴方には大変ご迷惑をおかけしました」
現状が呑み込めず、心ここに在らずのまま頭を前に傾ける。
自分などに求婚したばっかりに、理不尽な暴力に襲われてしまった。
ふらつく足取りで、ソファに座る。
彼はそんな自分を気づかわしそうに見やり、向かいの席に腰を下ろした。
「何故貴方が?」
騎士団のメンバーが学園にやってくる用事などなかったはず。
それもジェイク当てではなくミランダを指名というのもわけがわからない。
「ミランダ、君にお願いがある。
これから君に言う言葉を全部、そのままの意味で受け取って答えて欲しい」
そして彼は真剣な眼差しで、ハッキリとした声で。
ミランダにとんでもないことを言ったのだ。
『私と結婚してください』、と。
「…………? …………!?」
いや、ちょっと待って。
同じフレーズは三年前に聞いた。
あの時自分は今よりもっと世の中のことを知らない無知なお嬢様で。
彼の質問が自分達に齎す意味を深く考えず返事をしてしまった。
好きな人に求婚されるなんて素敵! 嬉しい! 夢みたい!
キラキラと希望に満ちた顔で頷いた。
結果は惨憺たるもので、ミランダは恐ろしい形相で彼を謗り詰る父の剣幕に心を無にして震えるだけだった。
「三年も待たせてしまったから、やっぱり気持ちは移ってしまったかな」
「……いえ、その……」
ミランダの心臓が今にも爆発しそうだ。
目がぐるぐる回る。
本心を言ってしまいたい。
未だにアンディの事を慕っていると口に出してしまいたい。
でもそれは開けてはならない過去の記憶だ。
その本心をジェイクに告げ口されてしまえば自分の人生はそこで終わってしまう!
誰かの仕組んだ巧妙な罠なのではないかと見えない敵の存在さえ疑う。
彼は二心を持つ女性など絶対に選ばない。どちらも好きですなんて言ったが最後、ただでさえ細いジェイクとの縁が完全に切れてしまう。
それだけは……!
「それは……
嬉しい、です……けど」
好きな人に結婚してくれと言われて嬉しくない人などこの世にいない。
嬉しい。
なのにそれを受け入れることは出来ない。
それでも――「迷惑です」と、己の心にもない返事はどうしてもできなかった。
保身に走るにはアンディの突拍子もない求婚など拒絶する必要があったのに。
だがふと疑問に思う。
守るべき自分の立場って何だろう?
私は何を守るのだろう?
「良かった。
じゃあ、私と結婚してくれるかな?」
いやいや、何を言っているのかこの人は。
その言葉に無邪気に飛びつけるほど、今の自分は子供ではない。
返事に窮し、彼の顔をじっと見た。
懐かしい、面影がそのまま。
初めての舞踏会で声をかけてくれた優しいお兄さんのまま、彼は大人になってしまったのだ。
騎士団の制服が良く彼に似合っていて眩しくて目を細める。
「……で、ですが私は……」
ソファに腰を沈めたまま、ぐっとスカートの裾を掴む。
父のような女好きで不誠実、権力欲の権化に嫁ぐのは絶対嫌だ。
アンディと一緒になれないなら、父とは真逆の性状であるジェイクに選ばれたい。
いや、そうでなければならないのだ。
そこにしか自分の幸せはない。
「家の事情を全部無視した、君自身の気持ちが聴きたい。
ミランダがジェイク君にいたく執心していることは私も承知の上だ。三年の間に心が彼に移ってしまったなら私は何も言えない」
父や兄を怒らせてしまったら、どこぞの成金商人にでも売り渡されかねない。
彼の言葉に嬉しいですなんて言ってしまったら駄目なのだ。
「ジェイク様の事は勿論お慕いしております!
……たとえそれが……どれほど見込みのないものであったとしても」
自分が一番好きな人にそれを言わされる、この屈辱。
そう言わなければいけない自分の身の上を呪う。
だがポロポロと涙が零れ落ちていく。
恨まれているに違いない、酷い目に遭う彼を庇う言葉の一つも出せなかった。
父が怖くてアンディに会いに行くことさえ恐れて、兄の言う通りに動いてきた。
「そんな風に追い詰めるつもりはなかったんだ。
……ああ、でも……
そうか、ごめん、困らせて」
彼は穏やかにそう囁き立ち上がる。
一歩、二歩近づいて手を伸ばす。
ミランダの頭をポンポンと撫でた。
「私はずっと君のことを好きだよ。
だからそれを前提の上で、私の話を聞いてほしい」
何故未だにそんな事を言う。
ミランダは彼の意図が分からず、どこまで自分や相手を信用して良いのか分からず、魂が抜かれたような光のない瞳のまま。
彼は再び向かい側のソファに腰を下ろし、真面目な顔でミランダを見つめた。
「君を迎えに行ける立場になるため今の職場でそれなりに実績を積んで、上からも目をかけられるようになったと自負している」
王宮騎士団に入るだけでなく、そこで地位を上げていくということはとても難しいことだ。
ただの兵士たちと違って、実力はもとより大きな政治力が必要になる――騎士団ではロンバルド家一門が大きな影響力を持っていることは誰もが知っている。
地位がなければ、騎士達を纏める武官の地位を得るのは不可能だ。軍内のロンバルド派の中でも更に派閥があると言われている。
何の政治的影響力もないただの青年がその中に割って入るのはとても難しいだろう。
「実は――騎士団の要職が空位になるという話があってね。
一年後か二年後か……というスパンの話だけれど」
「はぁ……」
当然軍の内情など、ミランダに言われてもピンとこない。
一体彼は何を言いたいのだろうと首を傾げるばかりだ。
今更ミランダに出世自慢をしたいわけでもあるまいに。
「幸運にもその空位となる職の後任に私を据えてはどうかという声が挙がっているようなんだ。
だが、どうも私の力だけでは難しい話でね。
……後ろ盾がね、心許なくて」
アンディの家は子爵家という立場ではあるが、かなり斜陽で権威から遠ざかって久しいと聞く。
そりゃあ父も娘を誑かすなと激高するだろうなと後で納得できたものだ。
あの時の自分は純粋だったから彼の実家なんて眼中になかった。
ただ一緒にいるのが楽しかった、結婚して欲しいと言われて舞い上がってしまった。それが何を意味するかも知らないで。
「おかしな話だと思うだろう?
君を迎えに行くために軍の要職に就けるほど偉くならないといけない。
だから今まで頑張って来たんだ。
でも――結局、この身一つでは私は君に釣り合う最低限の地位にさえ就くことが出来ない。
今のままでは両翼長どまり、とても君を娶ることなど出来やしない」
ウェレス伯爵家の後ろ盾が得られるなら、アンディは出世できるということ?
だから結婚してくれと?
彼の出世を手助けするために……?
こんなにも分かりやすく清々しい政略絡みの婚姻があるだろうか。
彼の言い分がおかしすぎて、つい笑ってしまいそうになる。
でも笑えなかった。
「最初に言った通り、勘違いしないで欲しいんだ。
私は出世がしたいから君に結婚を申し込んでいるわけじゃない」
「……私と結婚?
父や兄がそれを許すとお思いですの?
それに――私と結婚したからと言って! 貴方がその座に必ず就ける保証がありまして!?」
頭が混乱するミランダだったが、彼は相変わらず穏やかに微笑むだけだ。
「勿論。これはジェイク君たっての希望だから絶対通るよ」
「…………は? え? ジェイク様のって……ええ?」
ミランダとは全く関係のない場所で、ジェイクとアンディは騎士団で同僚、先輩後輩の仲である。
ジェイクは彼の腕や性格や能力から是非右翼師団長に関わるポストに就いてほしいと希望しているそうだ。
だがアンディの実家の吹けば飛ぶような後ろ盾だけでは、他の有力者を押さえ据えるのは難しい。当人に一定以上の政治力が求められる要職であると。
ミランダと結婚するためにその地位を欲するなら、逆説的ではあるが先にミランダと結婚すればまるっと収まる話じゃないか? と、ジェイクから言われたことも一度や二度ではないそうだ。
アンディは今までその勧めに頷くことは無かった。
……出世だけが目的と勘違いされるのは嫌だと、頑なに固辞していたらしい。
それは最終手段だ。
自分の力でミランダに釣り合う地位を軍内で確立できれば、それが一番後ろめたさもなく意気揚々と迎えに行くことが出来るのだから。
ということは、アンディがこうして結婚の申し出をしてくる何らかの事情が生じた? それは一体……
ともかく、父が断固として反対するだろうことだけは分かる。
依然ミランダをジェイクの嫁にと事あるごとにごり押していたのだ。
将軍が婚約の件を放置しているのは断ること自体、ウェレス伯がうるさくて面倒だからだろうと口さがない者の間で噂に昇っていた。
そんな父の執念深さを思えば、ミランダの嫁入りの件の返事をしないばかりか子爵家の嫡子にくれてやれだなんて――ひと悶着起こることは間違いない。
うちの娘の何が不満だと発狂しそう。
反乱でも起こしかねないとミランダは想像して身の毛が弥立った。
「落ち着いて聞いてほしい。
君はもうジェイク君とは結婚出来ないんだよ」
「そのような話、聞いておりません!」
では自分は今まで何のために。
……いや、違う。これから自分はどうなってしまうのか?
「ジェイク君が正式に『お断り』したから。
――ミランダとの縁談の可否判断の権限を預かって、そのまま伯爵に最後通牒を突きつけてたよ」
息が止まるかと思った。
それまでウェレスの申し出を保留、思案中、待て、とのらりくらり状態だったロンバルド側から、とうとう正式に受け入れないと却下されてしまったのか。
一度決まった決定が覆ることなど早々ない、だからミランダは彼の嫁候補から永遠に外されてしまった。
「で。
最後通牒と――私とミランダの婚姻を勧める交渉も一緒にね」
婚姻? 誰と誰が?
自分はジェイクと結婚できないのに?
……自分と……アンディ……?
そんな話は全く聞いていないのだが。
ミランダの実家は馬車で通えるほど近くないので、多くの上級貴族の令嬢がそうであるように王都に構えた別邸から通学している。
ゆえに実家で起こる出来事は知らないし、第一知りたいとも思わない。
父と兄が様子を見に来ることがどれだけ嫌で嫌でしょうがないか……
この学園に通う期間、自分がジェイクとの結婚話を実現させなければいけない。
自分の人生のリミットのようなもの。監視されている状態は全く気が休まらない。
「正式な許可を貰ってきたんだ。
もう一度言うね。
私と結婚してください。――ミランダ」
今日二度目? 三度目?
頭がどうにかなりそうだ。
「……………。」
それは物凄く自分にとって都合の良い話過ぎて、俄かに受け入れることが難しかった。
冷静に考えなくても、自分は結局誰かにとって都合の良い駒でしかない。
――私は出世がしたいから君に結婚を申し込んでいるわけじゃない。
彼はそれを何度も前置きしていた。
先入観を持たずに話を聞いてくれと。
それを信じても良いのだろうか?
「ほ……本当に、父は……その、通達を受け入れたの……ですか?」
「ははは。
是非ミランダに見せてあげたかったよ。
当主名代でジェイク君がウェレスに行ったんだけどね。
百を超える騎兵を引きつれてウェレス伯爵邸を包囲するとか、まぁ、うん……
あれは伯爵もどうにもできないよねぇ」
思い出し苦笑いをしているアンディの詞に、ヒッと肩を震わせた。
ジェイク様、貴方……私兵連れて何してるんですか?
「そもそも、君とジェイク君の関係は政略結婚でさえないんだよ。
政略結婚って言うのは親兄弟や親類筋が話を詰めて、家同士の利害を調整した上で行う契約だ。
でも伯爵の力不足で”調整”が不可能だから、ミランダ自身が努力してジェイク君と結婚しろなんて、これは政略でもなんでもない!
ただの伯爵の我儘であり怠慢、身に過ぎた野望じゃないか。どうしてそれに君が付き合わないといけないんだ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃というのだろうか。
今まで自分はロンバルドに嫁入りして、それで実家に箔をつけるために行動しなければならないのだと思い込んでいた。
だがそれは自分の責任ではない? ……結婚できなくても、それは契約まで結びつけることのできなかった親のせい……?
私のせいじゃない?
「い……いきなりそんな事を仰られても……
何故ジェイク様は急にそのような思い切った行動を!?
今までも散々『お断り』する機会があったはずです」
するとアンディは眉尻を下げ、困ったように微笑んだ。
「ジェイク君も大分反省してたよ。
君と結婚する気はサラサラなくても、君が他の令嬢に厳しく目を光らせて露を払ってくれるから……結構助かってたって……
それに縁談を管理するのは現当主の仕事、自分のこととはいえ本来ジェイク君には積極的に関われない領域だからね。静観してた――っていうのが正しいのかな」
何ですって……?
私はあの人のただの防波堤だったの!?
「その内その内って思ってたら、君が特待生に害をなしてしまったからそうも言っていられなくなった。流石に今後も無関係の一般人にまで迷惑かけるわけにはいかないからね。
ミランダのことを一旦棚上げにしていたのだから、申し訳なかった」
”――そこまで思い詰めさせて悪かった。”とはジェイクの言だそうだ。
令嬢同士で牽制し合うならまだしも、無関係の市民が巻き込まれるのは許容できない。だから動いたのか。
「本当に悪いのはジェイク君が君を選ぶことは無いと分かっていたから、半ば安心して出世事情ばかりに
ミランダを娶るためだけに重要ポストに執着することに対する罪悪感だとか。
諸々の葛藤、自身への不甲斐なさ、ミランダに恨まれたらどうしようなど懊悩するアンディをジェイクは強引に引きつれ、伯爵邸へ乗り込んだ。
当然のように伯爵の抵抗も激しかったそうだが、ここで完全にジェイクと反目するのは彼には分が悪い。
縁談却下の決定が侯爵直々のお達しであるなら呑むしかないのだ。
だがジェイクが将来の片腕として、アンディを高くかっているというのは大きく伯爵の心象を変えた。
次代の侯爵であり将軍として王の隣に立つジェイクにここまで見込まれた将来性を持つ男を逃すのは惜しい。
アンディが軍の要職に就き引き立てられれば斜陽の端にあった彼の実家が脚光を浴び、躍進を遂げるであろう。
しかもジェイクの肝入りならこれ以上ない保証。
どうあってもアンディの後ろ盾となってもらうという意思を示す私兵を伴ってのお宅訪問。
逆らうだけ勿体ない話だと、瞬時に算盤を弾いたことは想像に難くない。
父は強かで小狡い男だ。
あっさりと書面にサインを記した。
あれほどミランダを縛り付けていた政略結婚の呪縛は、ジェイクの父親の一言で煙のように消えてしまったのだ。
結局はそれほど力の差のある関係だから、父は執着した。ミランダが気に入られなければどうにもならないほどの家格の差がそこに聳えている。
それはアンディがミランダに対して感じるのと同じ、高い壁。
別のステージに立つ人の傍に行くのは難しい。
相手に引き上げてもらうか、自分が頑張って登るしかない。
沢山の情報が頭に詰め込まれてミランダは眩暈がしそうだ。
「そろそろ理解してもらえたかな?
……君が卒業するまでにどうにか外堀を功績で埋めようと思ってたんだけどね。
悔しいけど、今はまだ私一人で君の立つ舞台まで上がれないんだ」
すると彼は応接室のソファから立ち上がり、再度ミランダの傍に寄る。
そして今度は、座るままのミランダの足元に片膝を曲げて跪いた。
「私は本来出世や名誉などに縁の無い、ただ剣の腕を恃みにするだけの下級貴族の末裔です。
嘗ては己の身の不足故、伯爵のお許しを頂戴すること叶わず。
姫を娶るため三年を賭し只管研鑽を積み、ロンバルド侯爵並びにウェレス伯爵ご両人より婚姻のご裁可を賜りました。
どうか、私と結婚してください」
これが政略結婚……?
自分と結婚すれば、彼は――自分と結婚できる立場になる?
なんだか主客が転倒して良くわからない。
「………。
嬉しい……――!」
これは夢ではないのか。
だって自分がしたことは、あの時我慢がならず堪えられなくて、あの特待生に酷いことだけじゃないか。
それが何故、巡り巡ってアンディと縁が結ばれるという奇跡に繋がるのだ?
ふわっと身体が宙に浮く。
長身の彼が、ミランダの身体を抱き上げた。
「良かった。
ここまで準備万端で来て、君に嫌われてたら赤恥どころか生きていけないよ…
遠い山を越えて異国に出奔してた」
確かに、話上既に自分とアンディは書面上では正式な婚約者だということらしい。
物凄い力技で、圧力がかかりすぎている話だけども。
これで実はミランダが心底ジェイクに心酔して過去の男など忘れてしまったわ、という場合なら本当に悲惨な結末だっただろうな、なんて賭けだ。
でもそうならないということは最初から分かってたのかな。
”一番”好きなわけじゃないって、あの人は知っていたのかな。
アンディはミランダと結婚するという目的を果たせ
ミランダは自分の一番好きな人と結婚できるという未来が開け
ジェイクは将来の有能な部下を、自身が望む好きな場所に周囲に気兼ねすることなく配置出来るようになる
あれ……? おかしいな、誰も損してない。
そうか、これが政略結婚か。互いの要望、利害の一致。
生まれて初めて舞踏会に出席した日。
ここから連れ出して欲しいと初対面の優しそうなお兄さんにお願いした。
彼はにっこり微笑んで、後でね、と頭を撫でてくれた。
――連れ出して欲しいのは舞踏会場ではなくて、家からだった。
それを分かってくれた人は、彼だけだった。
打算だらけの『
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