エピソード79 龍神の研究者

 龍神の原料になる植物プランターや検査機器が並ぶ部屋を通り抜け、ガラス張りの壁にたどり着いた。ガラスの向こうでは配線に繋がれた成人男性がベッドに寝かされている。

「これは」

 伊織はその異様な風景に顔から血の気が引くのが分かった。どう見ても人体実験の現場そのものだった。

「龍神の効果を試す実験だな、狂気の兵士を作るための本格的な実験だろう」

 見れば、屈強な男達がベッドにずらりと並んでいる。モニターの波形を白衣の研究者が観察していた。


「あんな強そうな人たちがさらに凶暴になるなんて、怖すぎる」

「伊織、行こう」

 伊織はショックを隠せない。曹瑛は言葉を失って立ちすくむ伊織の手を引いてその場から立ち去った。

「ここで待っていろ」

 曹瑛は明かりの消えた研究ブースで伊織を椅子に座らせた。伊織は不安そうな顔で曹瑛を見上げている。

「俺はもう少し研究所内を探る。何かあったら呼べ」

 マイクに向かって話せば曹瑛に危機を伝えることができる。伊織は頷いた。置き去りは怖いが、足手まといになるわけにはいかない。曹瑛は足早に別のフロアに向かった。伊織に合わせた歩調とは比べものにならない早さで駆けていく。白衣の裾が風になびいて消えていった。


 伊織は周囲を見渡した。試験管に試薬など、研究用の道具がところ狭しと並んでいる。カタカタと物音がして、伊織はビクッと肩をすくめた。怖々と音がした方を振り向けば、実験用だろう、クリアケースの中にマウスが飼われていた。ケースは3種類。1つ目のケースの2匹は元気にちょろちょろと動き回っている。2つ目のケースは2匹とも傷だらけで死んでいた。伊織は思わず眉を顰める。3つ目のケースでは2匹のマウスがのろのろと動き回っている。龍神の動物実験のようだ。2つ目のケースは龍神を投与されて凶暴化し、殺し合ったに違いない。3つ目のケースは何だろう、そう思ってじっと覗き込んでいた伊織は背後に近づく気配に気がついていなかった。


「你是谁?」

 声が聞こえて慌てて振り返った。中国語だ。お前は誰だと言われたのが分かった。心臓がわしづかみされたような感覚に伊織は全身が硬直する。恐る恐る振り向けば、そこには白髪交じりの頭に銀縁眼鏡、年の頃は50代の白衣のやせぎすの男が立っていた。白衣の擦り切れ具合からここに長く勤務しているように思える。

「す、すみません、ちょっと休憩していて・・・」

 伊織はそこまで言って口を塞いだ。焦って日本語で話してしまった。一気に血の気が引いた。男が眉を顰めて伊織の顔をじっと見つめている。手が伸びてきて、伊織の首にかけた身分証を確認する。

「珍妙だな、ここに日本人がいるとは、それにこの身分証の持ち主は精神を病んで療養中のはずだが」

 瑛さん、身分証が他人とバレてしまったよ。伊織は心の中で涙を流した。ハッと伊織は我に返った。そんなことよりも男が話したのは日本語だった。伊織は恐る恐る男を見上げる。


「君は何者だね」

 男は白衣のポケットに手をつっこんだままぶっきらぼうに訊ねた。

「あの、えっと」

「日本語を忘れたのか」

「い、いえ」

 この龍神プラントをまるごと破壊しにやってきましたなんて言えるはずがない。

「私は小笠原義郎、君の名は何という」

「宮野伊織です」

「何をしにここにやってきた」

 小笠原と名乗る男は淡々と、冷静な口調で話しかける。相手が日本人と分かり、伊織も次第に落ち着いてきた。

「龍神のことを調べにきました」

 ぶっ潰しに来たとは言わないでおこうと判断した。

「なんの権限があってだ」

「龍神は恐ろしいドラッグです。これが広まればたくさんの人が悲しい思いをします」

 男はフンと鼻で笑い、伊織の目を覗き込んだ。真っ直ぐな瞳は不安に怯えながらも、その背後に強い意志を隠しているのが見て取れた。


「悲しい思い、か。君は龍神の実態を知っているのか」

「ええ、少しは」

「そう、ここにあるのはまさに悪魔のドラッグだよ」

 小笠原は伊織の横の椅子に腰掛けた。空調の低い動作音が不気味に響き渡る。


「私の祖父は、もうとうの昔に亡くなったが、製薬会社のお偉いさんだった。研究者だったが、一線を退いてからは経営側に立ち金回りも良かった。人類の役立つ新薬をたくさん開発していたと言っていたよ」

 小笠原は淡々と語り始めた。

「ある日、屋根裏で祖父の日誌を見つけた。そこには戦中に捕虜を使って行われた恐ろしい人体実験の記録が綿密に書き記されていた。通常では効果が計れないその実験結果を戦後の混乱の中で欧米諸国へ売り渡し、自分は外資系製薬会社の役員に収まっていたんだ」

「その実験の場所は」

「そう、満州、今のこのハルビンの地だよ」

 男は自嘲する。


「誇りに思っていた祖父の真実を知り、私は彼をなじった。彼とはそれきりだ。次に顔を合わせたのは葬儀の日だった」

「そんな」

 いたたまれなくなり、伊織は俯いた。身近な人間がそんな恐ろしい行為に関わっていたと知ったら、どれほどのショックだろうか。伊織は気の良いじいちゃんの顔を思い浮かべ、余計につらくなった。

「私はそれでも、祖父と同じ薬学の道を志した。中堅で活躍している時期に日本企業の開発力や社員への待遇に疑問を感じ、中国でこの研究職を見つけた。それがまさかこんな研究だったとはな」


 小笠原の口調に、伊織は彼が好んで龍神の開発をしているわけではない可能性に気がついた。

「アンフェタミンを知っているか」

「いいえ」

 風邪は寝て治す伊織はほとんど医者にかかったことがない。薬の名前のような雰囲気だが、聞き覚えはない。

「第二次大戦中にドイツ軍が使用した、いわば覚醒剤だ。兵士に投与すれば、中枢神経を刺激し、高揚感、集中力が増し、痛みや飢えも感じず、睡眠も不要だ。スピードを要する電撃戦でドイツ兵に多量に配布され、それなりの効果を得た」

 伊織はただ神妙な面持ちで小笠原の話を聞いている。


「しかし、アンフェタミンは耐性がすぐに獲得されるため、同じ高揚感を得るには必要な投与量は増える。しかも、不穏、うつ、不眠、自殺衝動といった副作用も問題になった」

「薬は毒でもあるということですね」

「その通りだ。龍神はさらに攻撃性、暴力性を高める働きがある。一時的に強力な兵士を作ることができるが、恐ろしい力を持つ廃人を同時に生み出す」

「では、あなたはそれを知りながらこの研究を続けているんですか」

 伊織は思わず強い口調で訊ねる。男はその剣幕に押され、目を背けた。

「最初は高額な報酬目当てだったよ。しかし、研究の全貌が分かるにつれ、私は祖父と同じ過ちを繰り返していることに気が付いた。だが、すでに中枢に関わり過ぎたために研究から抜け出すことはできなくなっていた」

「脅されたんですか」

「そうだ、私にも妻子がいる」

 小笠原は絞り出すように呟く。


「私は龍神の改良を進めると共に、少ない同志と密かに別の研究をしていた」

「それは」

「龍神の効果を中和する薬だ」

「えっ」

 伊織は思わずのけぞった。リアクションの大きさに自分でも驚いている。

「龍神は依存性の高いドラッグだ。私は完全ではないにせよ、効果を中和する対抗薬を開発した。試薬はそこにあるだけだ」

 小笠原が指さした先に小型の冷蔵庫の窓から試験管に入った透明な液体が見えた。

「中枢神経を刺激され、凶暴化した人間を抑えることができる。ただ、副作用についてはまだ充分な結果がでていない」

 伊織はマウスのケースを見つめた。3つめのケースにいたマウスは龍神の対抗薬を投与された検体ということか。無力化には成功しているが、脱力という副作用があるように思える。


「俺たちは龍神をこの世から消すためにここに来ました」

 伊織は小笠原の顔を見つめながら真実を伝えた。彼は驚いていたが、伊織の目をまっすぐに見つめている。

「そう簡単にいくのか」

「できます。優秀な仲間が揃っているから」

 伊織は強い口調で答えた。小笠原は考えて、伊織の手を握った。

「君に賭けよう」

 そう言って、引き出しから紙とボールペンを取り出した。研究所の地図をさらさらと描き始めた。

「龍神の研究データはこのプラント内にすべて保存している。すべての痕跡を消すには地下サーバーのデータだけでなく研究サンプルもだ」

 小笠原は地図上に何カ所か丸をつけていく。薬剤サンプルの保存庫、植物サンプルのプランター、そして芥子畑。

「それから、ある資料を灰にしなければ」

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