エピソード53 兄と弟
ノスタルジックな時間のあと、孫景の部屋に集合した。時間は午後3時、ちょうどおやつ時だ。売店で買ってきたコーヒーに、伊織の持ち込んだいちごのロールケーキを机の上に広げた。
ロールケーキはピンク色のふわふわ生地、クリームの中にいちごがふんだんに使われており、いちごの酸味とクリームの控えめな甘さのバランスが良く、好評だった。
「これは美味いぜ」
「いちごが美味しいですね」
男5人でロールケーキに舌鼓を打つ絵面はなかなかむさ苦しいものがあるな、と伊織は他人事のように思った。
榊も澄ました顔でもくもくと食べている。ハードボイルドな男も甘いものが好きなのだ。
「今日、これ拾いました」
ケーキを食べ終わる頃合いを見て、伊織がチンピラの置き土産の書類を机の上に出した。瞬間、コーヒーを手にしていた曹瑛、榊、孫景が揃って吹き出した。
「ちょっと何やってるんですか、汚いなぁ」
呆れた高谷がタオルでテーブルを拭く。伊織が男たちの表情の変化を察知した瞬間、書類を引っ込めたので事なきを得た。
「伊織、何でこんなもの持ってるんだ」
曹瑛が真剣な顔で伊織に詰め寄る。
「喫茶店で拾ったんだって、さっき説明しようとしたのに名刺に気を取られて、人の話を全然聞いてなかったじゃないか」
伊織は不満げに言い返す。曹瑛はそれに腹を立てたのか、無言でデコピンを食らわせた。
あのときは、曹瑛も孫景も九竜会の名刺のインパクトが強すぎて、書類どころではなかったのだ。
きれいになったテーブルに再度書類を広げる。くしゃくしゃの折り目がついたその書類には「水滸館タイムスケジュール」と銘打ってある。
「これ機密情報だぞ」
榊が書類を見ながら半ば呆れて呟く。
「今日の19時、お客が到着とあるな。八虎連のことか。取引場所は2階のダンスホール。警備配置とシフト表まで地図に書いてあるぞ」
孫景が書類を読み上げる。こんな大事なものを喫茶店に落としていくとは、どれだけ間抜けなのか。
「伊織、すごいな、これ優勝だぞ」
榊が興奮のあまり何を言っているのか分からない。とりあえず、伊織はすごく褒められたのだと理解した。
「しかし、こんなものを書類にして末端にも配布しているのか、遠足のしおりじゃあるまいし・・・もはやバカだな」
「組織が大きいと統率が取れないんじゃないですか」
首をかしげる榊に、高谷が冷静に返事をしている。
「おかげで配置も分かったな、俺たちの予測が裏付けされたってことだ。作戦通りで問題ないだろう。見張りを殺すと後が面倒だから気絶させて縛っておくか」
部屋の端には孫景が仕入れてきたロープの山が積まれている。
「それが無難だろう」
曹瑛もアウェイでの無益な殺しには反対らしい。
部屋に戻り、曹瑛が露天風呂に行くと言っている。当初あれほど嫌がっていたのにそんなにハマったのか、と驚きつつ伊織も今日のウォーキングの汗を流しにいくことにした。富士山の見える展望露天風呂はこんな時間なので人がいない。
「ねえ瑛さん、今日会った劉玲さんてさ、子供の頃に弟と生き別れたんだって」
「よくある話だ」
曹瑛は興味なさそうに言う。
「瑛さんと劉玲さん、一度話をしてみて欲しいな。もしかして、瑛さんの・・・」
「俺の兄は死んだ」
曹瑛は伊織の言葉を遮った。劉玲が弟は伊織に似ていると言っていた。それなら曹瑛とは似ても似つかない。
「兄は目の前で斬り殺された。殺したのは帽子の男、黄維峰だ」
そういうことだったのか、黄維峰の姿を目にした曹瑛が冷静さを失っていたのは。今回も黄維峰が来るなら、曹瑛は冷静でいられるだろうか。伊織はこの話題に触れたことに後悔していた。
「それに、その九龍会の男。伊織にはずいぶん愛想が良かったようだが、もし敵と見なしたらどんな非情な手段を使ってでも追い詰めてくる。あの組織は格が違う。奴らからすると中国東北地方の八虎連はただの田舎ヤクザだ」
曹瑛の言葉は重く、伊織は押し黙ってしまった。劉玲の弟への想いには優しさが感じられた。とてもそんな非情な男には見えなかった。それは彼の本質が見えていないだけなのだろうか。劉玲の手の温もりを思い出して、伊織はやるせない気持ちになった。
風呂から上がり、売店でパンと飲み物を買って部屋に戻った。今日は残念ながら豪勢な会席料理というわけにはいかない。
曹瑛は黒の開襟シャツに黒いパンツ、ハーフコートも黒と全身黒づくめの着こなしだ。コートの内側には仕事道具が仕込まれているのか、重そうに揺らめいている。
「俺はどうしよう」
ブルーのジャケットにストライプのカットソー、スモークグレーのパンツ。かといって今日来ていたものも明るめの色なので、どちらにしても夜の闇に紛れることは難しい。曹瑛は伊織を一瞥する。
「伊織は館内に入り込んだらそこでじっとしていればいい」
ドレスコードは気にしなくていいらしい。
約束の時間が近づいた。孫景の部屋で全員が顔を合わせた。孫景は白シャツにブラウンのフライトジャケット、迷彩柄パンツ。ガタイが良いので、本物の軍人顔負けだ。
榊は黒いピンストライプのスーツにグレーのシャツ、ミッドナイトブルーのネクタイ。紛うことなきヤクザな格好だった。高谷はピンクの無地シャツにグレーのパーカー、ジーンズと大学生らしい。
「あんたは足を洗ったんじゃないのか」
曹瑛の言葉に、榊はフンと鼻で笑った。
「麒麟会の幹部に話をつけるのにジャージはないだろ」
それもそうだな、と曹瑛も笑う。孫景は大きな肩掛けバッグを持って立ち上がった。中にはロープが入っているのだろう。重そうだ。高谷もノートパソコンを小脇に抱えている。
「伊織はフライパンはいいのか」
「榊さん、俺はお笑いキャラじゃないですからね」
伊織は唇を尖らせて抗議した。真面目な顔で冗談を言わないで欲しい。案外、横浜でのフライパンを根に持っているのかもしれない。だが、フライパンを使って榊の刃を防いだのは曹瑛だ。
「じゃあ、出発だ」
ホテルを出てバンに乗り込む。榊の運転で県道脇へやってきた。午後6時をまわり、すでに日は落ちている。昼間は晴天だったが、空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだ。肌に嫌な湿気がまとわりついているのを感じる。
車は雑木林の中に隠し、水滸館の裏手を目指す。背の高い木立の合間を縫って進む。木の枝が折り重なり、暗い影を落とす。伊織は木の根に足をひっかけ、何度か転びそうになった。遅れないようについていかないと、と顔を上げると曹瑛が暗闇の中に立っていて思わず息を呑んだ。全く気配を感じなかった。
「遅れるなよ、伊織」
曹瑛が伊織の手を引いた。曹瑛の歩いた後についていくと楽に進めることに気が付いた。暗い中で最適なルートを選んでいるのだ。300メートルほどで水滸館の裏手に出た。いつの間にか榊と高谷、孫景も揃っている。木の幹の間から周辺の様子をうかがう。
「見張りは建物周辺だけのようだな」
曹瑛は愛用のナイフ、バヨネットを弄んでいる。
「裏手には3人、こいつらから始末するか」
孫景はバッグからロープを取り出す。建物に沿って、黒づくめのいかつい3人の男たちが15メートルほどの間隔で立っている。
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