エピソード6 お泊まりの準備を強要される
非常に面倒なことになった。アパートのある池袋に向かうJR車内で伊織は悶々としていた。やむなく引き受けた外国人の観光案内のバイトがなぜか住み込みでの世話まで。しかも相手はガイドなんかいらないくらいに日本語が堪能で、そもそも目的が観光なのかも分からない。人格も問題ありだ、無愛想にも程がある。
「降りないのか」
不意に声をかけられ、伊織は慌てて電車を降りる。いつの間にか池袋に到着していたようだ。案内役の自分が案内されるとは。
改札を出てアパートへ向かう。この得体の知れない男に住まいを知られるのは抵抗があった。曹瑛は街の雰囲気を観察しながら歩いている。
「あの」
伊織は突然立ち止まって振り返った。男は2歩後でピタリと止まった。普通急に振り向かれたらびっくりしそうなものだが、微動だにしない。
「ここから20分ほど歩くので、そこのレストランで待っててもらえますか?支度にも時間がかかるし」
改札を出て、頭をフル回転させて思いついた言い訳だ。お客さんを歩かせた上に待たせるのは悪い、良い口実だと思った。
「構わない」
俺が構うんですけど!伊織はそれが声に出せずに絶句した。二人の間だけ時間が止まり、その横をサラリーマンやカップルが通り過ぎていく。相変わらずサングラスをしたままの曹瑛は表情が全く読めないが無言の圧力で進め、と言っている。伊織は前をむき直した。一体何なんだよ、とぼそっとひとりごちた。足取りが重い。
「この辺りが住宅街なのか。古くからの家も多いな」
「駅から離れると案外開発されていないところも多いです」
気がつけば、曹瑛がいつの間にか横並びに歩いている。ついさっきまで細い路地へダッシュして逃げようと思っていたが、それも叶いそうにない。せめてわかりにくいようにと裏路地を駆使してアパートに到着した。
「片付いてないから準備に時間がかかりますよ」
「ここで待つ」
曹瑛はアパートの全景が見える対面の道路脇で立ち止まった。さすがに部屋に入るとは言わないか。伊織はほっとして部屋の鍵を開けた。
「もうっ、何なんだよ」
部屋に入って頭を抱えて絶叫した。解放され、今までの鬱屈とした思いがほとばしる。出会ってまだ4時間ほどなのに、謎の圧力によるかつてないストレスで伊織は一気に疲れを感じた。
スーツのままベッドに座ってうなだれる。どうしよう、このままベランダから逃げだそうか。でももう部屋も知られてしまったし。
ここはもう大人しく諦めて2週間ガイドか家政婦か、おもてなしするしかないのか。大きなため息をついて立ち上がる。ガスの元栓は閉めた。それからスーツを脱ぎ捨て、シャツとパンツ、春物のジャケットに着替えた。下着を3セット、タオル、洗面道具、他に旅行のときって何を持って行くんだっけ。旅行といえば1年に1,2回実家へ帰るくらい。
あれやこれやと考えているうちに、必要なものはコンビニで買えばいいか、と気が付いた。10年選手の旅行カバンに必要最低限のものをつめて部屋を出た。
曹瑛は道路の端で腕組みをして立っていた。見た目のインパクトが強すぎて平和な住宅街には到底そぐわない。伊織は曹瑛のもとに小走りに駆けた。
「すみません、お待たせしました」
「謝る必要はない」
それだけ言ってJR駅へ戻り始めた。謝らなくて良いって、中国人って滅多に謝らないんだっけ。そもそも挨拶からすみませんとペコペコして、何かあればすぐにすみませんと謝る日本人は異質に映るのかもしれない。曹瑛が先を歩く。さっき来るとき通ったのとは違う道だ。伊織も知らない道だった。
「伊織」
「は、はい」
突然の呼び捨てだ。名前など意味は無いといいながら、覚えていたのか。伊織は心なしか嬉しく思った。
「日本で目立たない服を買いたい」
確かに、その季節外れのコートは目立ちすぎる。気がつけば駅前に出ていた。曹瑛は最短ルートを通って戻ったことになる。驚く伊織を尻目に、曹瑛はメンズ向けのカジュアルショップに入っていった。
店内に入るとすぐに店員が声をかけてきた。伊織はセンスがないし、ここは店員任せで良いだろう、と少し離れた場所で様子を覗う。もしコミュニケーションで困れば助け船を出せば良い。曹瑛は似合うものを適当に見繕ってくれ、と依頼しているようだ。店員は張り切ってチョイスし始める。
「この時期は気温の変化があるから、重ね着できる薄手のものを選ぶといいですよ」
「今のモノトーンの統一も素敵だけど、春だしちょっと明るめの色を試してみるのもアリですよね」
この街の店員はしゃべり方は標準語で正しいのだが、どうもスカしているような気がして伊織は未だに慣れない。曹瑛の方がよほど綺麗な日本語だなと思った。ところで曹瑛はちゃんとやりとりできているだろうか。
服の隙間から様子をのぞき込んで伊織は絶句した。曹瑛が自然な笑顔で店員と話している。しかもちゃんとこの素材はどうだとか、今年の流行はなんだとか、普通にコミュニケーションをして。信じられない。二重人格なのか。伊織はその場で固まってしまった。
「伊織、これどうかな」
「え・・・」
服のチョイスを尋ねてきた。もうさっきまでの人物とはまるで別人のようだ。
「この人何着ても似合うから迷うのよ」
「あ、はあ、俺センスないからわからないけど、いいと思う・・・」
伊織はそれだけやっと答えた。ベージュのパンツに黒のシャツ、グレーのジャケット。今の黒コートより断然普通に見える。店員は自分の目利きが良かったことに満足して上機嫌だ。曹瑛は着回しが効く組み合わせを選んで購入し、その場で着替えた。
「ありがとう」
伊織はぽかんとして曹瑛を見た。今の格好に合わないのは分かっているのか、もうサングラスをしていない。先ほどまで笑みをたたえていた切れ長の目元が、無感情なものに戻っていた。俺といるときだけ無愛想なのか。伊織はよほど怪訝な顔をしていたようだ。
「何か言いたそうだな」
「笑うんだなって思って」
「必要なときはな」
そう言って、曹瑛は歩き出した。ICカードを使ってJRに乗る。その動作も慣れたものだった。曹瑛はここで生活する練習をしたいのだろうか。電車には運良くふたりとも座れた。曹瑛がICカードを眺めている。
「なぜペンギンなんだ」
「え?」
「このカードのデザイン。この辺にはペンギンが生息しているのか」
「絵本のキャラクターが元だって聞きますけど、まあ、かわいいからですかね」
目の前に立っていた若い女子2人がその会話を聞いてクスクス笑っていた。
新宿に到着し、電車を降りた。夕方5時をまわっている。夕飯のことも考えないといけない。
「夕食は何が食べたいですか」
「荷物を置いて買い物に行くぞ。マンションの近くにスーパーがある」
よく見てるな、と伊織は素直に感心した。二人で部屋に戻り、荷物を置いた。
「俺、何か買ってきますよ。休んでてください」
「一緒に行く」
伊織の提案は却下された。まあそうだろうとは思った。外国のスーパーは珍しいものが発見できるので面白いものだ。曹瑛はキッチンを物色している。フライパンや鍋がそろっているのを確認し、伊織の方を向いた。
「お前の手料理が食べたい」
「・・・は?」
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