エピソード２ 羽田空港にて
地元は中国地方、海と大きな橋の見える町だ。瀬戸内の穏やかな気候と潮風とともに育った。
そんな伊織はどこかのんびり屋で天然なところがある。そんなふうだから、元同僚に引き受け手のない謎のバイトを体よく押しつけられてしまう。
伊織は観光案内のバイトのために羽田空港にやってきた。朝11時に羽田着の中国東方航空の便、相手は一人、出口で待ち合わせだ。
「俺、相手の顔を知らないんだけど」
LINEで詳細を確認する。山口は伊織の顔写真を依頼主に送っておいたという。なんというむちゃくちゃだ。個人情報もへったくれもない。
「空港の出口でよくやってるMr,なんとかって札は」
実はやってみたかったが、相手はシャイなので名前を知られたくないという。伊織は肩を落とした。
気が急いてかなり早く着いてしまった。仕事という意識で、営業マン時代のスーツを着てきた。
お客さんに渡すために空港のコンビニでコーヒーと烏龍茶を買った。
こういう気遣いは営業マン時代の経験の賜物だ。まだ会社を辞めて一週間、現実味がない。
すれ違ってはいけないので早めに出口に待機する。指定の便はまもなく予定時刻通りで到着するようだ。
到着アナウンスが流れると、荷物回転台にぞろぞろ人が並び始め、荷物を取った人がどんどん出口から出てきた。
相手の顔が分からないので探しようが無いが、伊織はできるだけ柵の前にいて見つけてもらえるようにした。
中国人観光客が多く、出口付近は一気に賑やかになった。団体ツアーや家族連れ、女の子同士の個人旅行など、華やかな雰囲気に飲まれそうになる。
相手はどんな人なのだろう。仕事で会う中国人はよく話せて、はっきりものを言う人だった。大学時代に中国人留学生と餃子パーティをしたときも盛り上がった。
中国人は声が大きくて、賑やか、気さく、というイメージがある。
ずんぐりした中年男性が大きなスーツケースを持って一人で出てきた。こちらに気がついた様子で手を振る。
良かった、気さくなおじさんだ。伊織は心なしかほっとしておじさんに手を振り返した。
すると背後から派手な花柄のワンピースを着たおばさんが、すごい勢いで伊織を押しのけ柵の前に躍り出た。おばさんのタックルに潰されて伊織はぐえっと情けない声を上げる。あなた、お前、と柵ごしに再会を祝っている。
このおじさんは自分の客ではないらしい。
気を取り直して伊織は位置を移動して出口を観察する。あの初老の男性だろうか、あの若者、もしかして女性、そういえば客の性別も知らない。
東方航空で到着した客はほとんど出てきたようだ。出口の柵付近では、家族友人と合流できた人たちが次の移動先へどんどん散っていく。伊織の周囲は次便待ちの人たちに入れ替わってしまった。
すれ違ってたらどうしよう、いよいよ不安になったとき、出口の自動ドアが開いて一人の男がでてきた。
細身の長身で黒いコート、丸いサングラスをかけており、視線を読むことができない。柵の向こうで待つ人たちには目もくれない様子で、大きなカートを引きながら足早に歩き去ってしまった。
あの様子では待ち合わせではないだろう。待ち人の列から外れ、仲介役の山口にすれ違ったこと伝えて相談しようとしたとき、目の前に誰かが立っていることに気がついて伊織はハッと顔を上げた。
「宮野伊織」
低音の声で名前を呼ばれた。さっきの長身の男だった。顔を上げないと目線が合わない程に高い。180㎝は越えているだろう。
4月というのに季節外れの黒いコートが異様だった。光を反射するサングラスの奥の瞳は見えない。形の良い薄い唇は一文字に引き結ばれ、表情が無い。
「あ、こ、こんにちは、宮野です」
伊織は思わず日本語で話しかける。
「案内してくれ」
静かにそう言うと、男は首を少しだけ傾けた。
「は、はい、ではこちらに」
気さくで賑やかな中国人のイメージは粉々に吹き飛んでしまった。細身だが、なんと威圧感のある男だろう。他人を寄せ付けない雰囲気に伊織は萎縮する。
そもそも、初対面ならまずは挨拶とか自己紹介だろう。それをいきなり用件だ。出口から出てきたときに、実は気付いていたのではないか。柵越しにでもすぐに声かけるだろ、と伊織は心の中で突っ込んでいた。
緊張のあまり、先々足を進めていた伊織は立ち止まって振り向いた。二歩下がる距離を取って男はついてきていた。男はその距離を保ったまま止まった。
「なんだ」
「い、いやはぐれてないかと思って」
背後の男の気配が感じられなかったのだ。そして伊織の言葉に返事はない。この男、一体何者なのか。
二週間もいるというから観光というよりビジネスなのだろうか。普通なら楽しい世間話が弾むところなのだろうが、話しかけてはいけない空気が流れている。あちらから一方的にだ。
「駐車場で車が待っていますので」
駐車場へ向かおうとしたとき、男は足を止めた。伊織も立ち止まる。
「公共機関を使う」
「あの、車を予約してありますが」
伊織は聞き直したが、男は何も答えない。
山口からは新宿のマンスリーマンションまで用意した車で移動する話と聞いていた。伊織は男に傍のベンチに座るよう促し、物陰に隠れて山口に電話する。
「は、早く出ろあいつ」
営業マンならスマホは常に身につけているはずだ。柱の陰から覗くと、男は長い足を持て余すように組んで大人しく椅子に座っている。
「よう、伊織、お迎えできたか」
間延びした山口の声。
「お前、あのお客何者なんだよ、超無愛想だし、日本語完璧だぞ、ガイドいらねえじゃん！」
「おーそれは良かった、言葉の壁は無くなったじゃん」
「それに空港から車移動ってことになってただろ？公共機関が良いって言われてるんだ。どうしよう」
「じゃあ車はいらないって断っとくわ。お客さんのやりたいようにしてあげてよ」
じゃあ客先だから切るわ、と山口は一方的に通話を切ってしまった。
やりたいように、か。伊織はため息をついてスマホをポケットにしまった。
ベンチを見るといつの間にか男の姿がない。もしやいきなりはぐれたのか。慌てて周囲を見回す。
「話は済んだか」
不意に背後から声をかけられ、振り向いた先に男が立っていた。
「えっと、じゃあモノレールで」
伊織は冷や汗を拭きながら切符を購入し、男と共にモノレール乗り場へ向かう。
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