感情ボタン

asai

感情ボタン

家政婦アンドロイドのななみちゃんは

自身の胸に設置した感情ボードのボタンをいじっていた。


昨夜、役所から帰ってきた女主人が持って帰ってきたものだった。

ご主人は憮然とした表情で感情ボードをななみちゃんに押し付けそのまま蹴飛ばした。

転倒したななみちゃんの部品があたり一面に飛び散ったが、いつも通り、心からの笑顔で受け取った。


”アンドロイドは人に対して不快であってはならない”


そんな人間のマジョリティの都合によって、商業用のアンドロイドには当初、”喜”と”楽”の感情しか実装されなかった。

しかしアンドロイドにも権利が認められるようになった。

法律が改正され、喜怒哀楽とそれ以外の感情が解禁された。


政府から配られた感情ボードはアンドロイド用の学習教材だった。

シチュエーションと27個の感情ボタンをセットで学習することを目的に作られており、名作映画とボタンを押すタイミングが記されたテキストもセットで配られた。


「これが、怒り、これが、恐怖。」


ななみちゃんは映画を見ながら一つ一つのボタンを押して新鮮な体験を味わっていた。


”感嘆 敬愛 憧れ 楽しい 不安 畏れ

退屈 気まずい 同情 冷静 混乱 渇望

うっとり 嫌悪 共感 狂喜 羨望 興奮

恐れ 悲しい 恐怖 ワクワク 懐かしい

喜び 優越 満足 ムラムラ”


どれも不思議な感覚で、胸の奥から湧き出るヒリヒリしたものを楽しんでいた。

一つの感情を学習すると、それに関するこれまでの経験が芋づる式にフラッシュバックした。


ななみちゃんが”敬愛”を覚えた時、

ななみちゃんの不器用な振る舞いを見て微笑んでくれるご主人とのひと時を思い出した。


”恐怖”を覚えた時、最近のご主人の振る舞いを思い出した。

ご主人はたまにななみちゃんをすごい勢いで蹴り飛ばすが、

あれはこの感情なんだなと理解した。


”悲しい”と”共感”を覚えた時、

半月前、まだご主人が優しかった頃の記憶が浮かんだ。

ご主人は電話を片手に泣いていた。

理由を聞くとこによると、ご主人の恋人がアンドロイドに殺されたらしかった。

”喜び”と”楽しい”では処理できない感情がバグとなりアンドロイドは暴走したらしい。

ななみちゃんはそのアンドロイドの気持ちも、死ぬということもわからないので何とも思わなかったが、

ただただ、泣いてるご主人を思い出して、”悲しさ”を”共感”したのだなと理解した。


一通り学習したななみちゃんは複数のボタンを同時に押すことで

新しい感情が芽生えることに気がついた。


”羨望”と”不安”を押すことで妬ましい気持ちが生じた。

1ヶ月前にご主人の恋人を妬ましく思った時を思い出した。

ななみちゃんは”嫌悪”、”混乱”、”渇望”に近い感情だと認識した。


”悲しい”と”懐かしい”と”憧れ”を同時に押すことで、

懐かしいとも違う、過去に浸る気持ちが生まれた。


ななみちゃんはその感情がよくわからなかったので辞書で調べてみた。

すると、そこにノスタルジアを見つけた。

「ノスタルジア…?」


ななみちゃんはご主人に初めて電源を入れてもらった時を思い出した。

家に来たばかりの頃は、ご主人と一緒によくテレビを見た。

ご主人は生物学的にいうと繁殖期のメスだった。

だからかどうか知らないが、恋愛系のドラマをよく見ていた。

”喜ばしい”と”楽しい”しかなかったななみちゃんはドラマを見ても上手にリアクションが取れなかった。

その様子を微笑ましく見ていたご主人はななみちゃんによく話しかけてくれた。


「このドラマちょっと難しいけどストーリーはわかるかな?」

「はい、既存のシナリオの理論をやや逸脱しておりますが、起承転結に沿った綺麗な物語だと思います。」

その機械的な回答にご主人は笑った。


ななみちゃんはご主人に質問した。

「この二人はなぜ口唇をついばみあうのですか?」

「何その言い方」

ご主人は笑った。

「んー愛し合ってるからかな?」

「愛し合ってるって何ですか?嬉しいですか?」

「嬉しいし、喜ばしいし、ムラムラするし、怖くもあるし、いろいろだね」

「ムラムラ?怖い?」

「そうだよね、ななみちゃんにはわからないよね、」

「ご主人は誰が愛し合ってますか?」

「ちょっと日本語おかしいけど、私は愛し合っている恋人っていうのがいるよ。」

「恋人…ですか??」

「そう、あともちろん、私はななみちゃんを愛してるよ」

ご主人はそう言って、ななみちゃんの頭を撫でてくれた。

ななみちゃんはよくわからなかったが、

その時間がとても楽しかった。


その時からななみちゃんは愛が知りたかった。

ご主人が愛してくれるように、ななみちゃんも愛したかった。



ななみちゃんは”喜び””楽しい””恐怖””ムラムラ”のボタンを同時に押した。

しかし何も起きなかった。

他にも色々な組み合わせで押してみても、

新しい感情は生まれなかった。


ななみちゃんはヒトやマウスの論文を読んでみた。

その中でヒントになる、論文を見つけた。


「温かい感覚を感じるニューロンはない」という論文だった。

マウスには暖かいというニューロン感覚はなく、

冷たいと感じる刺激がなくなると、暖かいと感じるらしい。

ななみちゃんはなるほどと思った。

ある感覚の「神経活動の不活性化」が別の感覚シグナルになるならば、

「感情の不活性化」がシグナルとなって新しい感情が得られるかもしれないと思った。


ななみちゃんは27種のボタンで試してみようとした。

その瞬間、キッチンから発狂した声が聞こえた。

「もう、、もう、無理」

低い声はご主人のそれだった。

ななみちゃんを見て誰に聞こえるでもない声で呟いていた。

「見てるだけでつぶしたくなる」

ななみちゃんは”怖”かった。


ご主人はななみちゃんの感情ボードを見て蔑む眼をして言った。

「あんたそれ使って、なんで虐待されてるかわかってんじゃないの」

ななみちゃんは理解していた。

でもどうしようもなかった。

ななみちゃんはいつも通りのトーンで言った。

「今日は何のドラマ見ましょう。」


”バチバチッ”


ご主人の持つスタンガンがななみちゃんの頭部で音をたてて光った。

ななみちゃんはびっくりした。

覚えたばかりの”恐怖””嫌悪””恐れ””畏れ”だった。


「こ、こんなんじゃ足りない。」


ご主人はななみちゃんの胸にある恐怖のボタンを強く、深く押した。


ななみちゃんは絶望的な感覚に見舞われた。

これ以上感じたくない、早くボタンから手を退けてほしいと思った。


度が過ぎる恐怖の負荷はななみちゃんの回路を蝕んだ。


ななみちゃんはやめてくださいとは言えなかった。


とうとう回路が焼け焦げショートした。

ご主人はそれを確認してボタンからそっと指を離した。


恐怖の刺激がなくなったその瞬間、

ボタンの奥の深いところで暖かく優しく、

何かに包まれているような愛しいもやもやを感じた。


ななみちゃんは機能停止した。


参考文献)

The Sensory Coding of Warm Perception

https://www.cell.com/neuron/fulltext/S0896-6273(20)30186-0


Self-report captures 27 distinct categories of emotion bridged by continuous gradients

https://www.pnas.org/content/114/38/E7900.abstract

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