第6話

 俺は嘘をついている。わかりやすくも言える。だが、わかりやすく言えば、浅倉にただ反論されるだけだ。そして、深町さんも取り合わない。言えてしまった時点で、それはもう「問題」ではなくて努力対象になるというのが深町サンの判断だ。俺は、それをこそ問いたいのだが、うまくいくかはわからない。なので、

「なんで」

 という浅倉の子供じみた質問には苦笑しながらこたえる羽目になった。

「いつでも、どんなときでも正論を吐けるのがあのひとの最大の難点で、どうしようもない美点だろう?」

「それ、本人の前で言える?」

「言えるさ。言うだけなら」

 開き直った俺に、浅倉は猛然と噛みついた。

「自分の狡猾さを省みず、全部お任せって何それ? あの人はあんたのためにいるわけじゃないし、それから茉莉ちゃんにも失礼だ」

 あらかじめ、それにはこたえる用意があった。

「俺には、茉莉に払うべき礼儀はない。生き方を変えるつもりもない」

「龍村さん」

 怒声すれすれの呼びかけに、俺は声を震わさず、しずかに返した。

「先に礼を失したのは茉莉のほうだ。俺はそれに付け込む。それが責められるべきことだと言われれば理解できるがやめる気はない。

 だが、深町さんには礼を尽くす。彼女は俺が居直ることも予測の範囲だろうが、あのひとが茉莉の尊厳を守り抜こうとする限りにおいて、俺は彼女を尊重する」

「だから、それがただの責任転嫁だっつってんだよっ」

「その自覚もある」

「じゃあなんで!」

「俺は、茉莉を愛してるわけじゃない」

 浅倉が、息をのんだ音が聞こえた。それを耳殻にとりこんでから、俺はゆっくりと語りはじめた。

「浅倉、家庭内でおこなわれる暴力以上に隠微なものはないんだよ。俺はたしかに茉莉に指一本ふれていない。ただ、それがそのまま俺の茉莉に対する性的虐待の言い訳にならないのはわかるよな?」

「龍村さん……」

 先日、来須に友人の独身女性たちを紹介してもらった。そのうちのひとりと何度か電話やメールのやり取りをし、会う日を決めた。その日の朝、茉莉はいきなり家にやってきて途中まで一緒に行くといい、銀座に買い物にでるだけだと無邪気そうに微笑んだ。

 俺は、その場で叱れなかった。拒絶、できなかったのだ。

 けっきょく茉莉は待ち合わせの場所までついてきた。帰れと怒鳴れない自分にやきもきし、茉莉の行動に頬が赤らんだ。相手の女性は俺の隣の茉莉に目を丸くしたが、そつなく合わせてくれた。茉莉はすぐにその場から立ち去ったが、その女性とは気詰まりなままで終わった。

 傷つけたと判断するのは傲慢にすぎるだろう。その女性とて、俺をそこまで好いてくれていたわけではないのだから。それでも、この非礼は俺をこころの底から落ちこませ、来須の面目をつぶし、謝罪をしなければならなくなったこともきつかった。またそれ以上に、茉莉の異様な言動を悦んでいる自分が恐ろしかったのだ。

 母が事故に会う前、いくどか無言電話があった。病的に執拗と呼べるほどでもない、だが、間違いなく嫌がらせとしての効果はある程度の回数で。あれは義母の仕業であると俺は思っていて、彼女と同じ家に住むのが怖かった。ところが、その女は茉莉を連れてやってきた。茉莉と暮らすのであれば、俺は義母を追い出すわけにはいかなかった。そして父は、俺の母が死んで誰にも気兼ねなく後妻を迎えられることを素直に喜ぶひとだった。

 父は、新しく娶った妻が間接的に母を殺したと考えたことはないのだろうか? 

 家事の一切を他人に任せる神経質で少女趣味の俺の母より美しく、気配りのできる茉莉の母親のほうが妻としてよいという気持ちはわからないではない。とすれば、父は、茉莉の母親を愛しているから結婚したわけではなくて、便利で都合がいいから一緒になったのだ。

 では、俺はどうだろう?

 茉莉は俺のことをよく知っている。俺がなにを好み、なにを嫌うかも、よく理解している。それはそうだ。俺が、ずっとそうして教え込んできたのだから。

 茉莉は俺が好きだという。いや、そう小説に書いた。もう我慢できないと書き記すそのことばこそが、俺が長年くりかえしたことばであり、また、彼女に望んだことばであると、俺はよく知っている。

「俺は、あのはなしに自分が口にしたことばと、茉莉がつぶやいたことば、そのほかありとあらゆる現実の残響をたしかに聞きとった。あれは他者支配、性的搾取、相手を思うままにする暴力のはなしだ。それと同じく、本来ならば誰もが耳をふさぎ聞きたくないと拒絶してもおかしくないことを俺は口にしている。俺が臆病だから、または照れくさいから、こんなふうに言うわけじゃない」

 茉莉がいちどだけ、俺と同じ大学にいきたいともらしたことがある。そのとき俺は、お前の成績では無理だと言い切って、遊ぶ時間もなくなるしせっかく続けてきたピアノのレッスンもやめるのか、と口にした。

 たしかに、客観的に見て、そのときの成績では難しかっただろう。だからといって「無理」などという必要はない。茉莉は勉強をする気がなくてしなかっただけで、頭が悪いわけではない。受験テクニックくらい教えてやればよかったのだ。そしてまた愚かにも、その物言いがピアノをやめたいという消極的な拒絶であった可能性をも思いつきもしなかった。

 それからすこし冷静になって後、考えた。受験は運次第だ。当日のコンディションが悪ければ常にA判定でも落ちるときは落ちる。それに、俺が勉強をみてやる必要などもなかったのだ。うちは金に困っているわけじゃないのだから、家庭教師でもなんでもつけられた。ピアノだって、べつにやめてもよかったのだろう。もちろん両親はがっかりしたかもしれないが、本人が決めるのが本筋だ。それよりなにより、茉莉を男女共学の大学にいれたくなかった俺のエゴが、あいつの希望とひとつ打ち砕いたことになる。

 なぜ俺は、茉莉が希望をきいて応援してやらなかったのだろう。いや、応援やアドバイスさえしなくともいい。ただ、それを黙って聞くだけでよかったのだ。

 そのとき俺は大学二年生だった。家を出て茉莉を見ない日をすごすうちに世間で言うところのまっとうな感覚がゆるやかに蘇りつつあった。思い返してみると、俺は、自分より幼く力の弱いものに支配的であっただけだと気がついた。自分のしてきたことの後ろ暗さに慄いて、ひたすら茉莉から離れたかった。それなら茉莉の自由にすればいいと、後からでもそう伝えればいいのに俺はそれもしなかった。自分はこの関係から抜け出したいと願いながら、相手にはそこに留まれと命じ、おれは茉莉を忘れたくて他の男に恋をした。

 かつて、邪魔さえしなければそれでいいと深町さんは口にしていた。応援もいらないと苦笑した。邪魔だから、どうせそれも支配だから、間違ってるんだよ何もかも、とあの尖った頤をそらして冷ややかに哂った。

 これは、施設管理局の仕事のはなしだ。そして、この主語にあたるのは「男」だった。つまり、深町さんの彼氏だ。その男は俺にこっそり、彼女をフォローしてやってと頼んできた。あいつ無茶するから、と。

 事実そうとうに無茶だったが、横で見ていて、頼りないとは感じなかった。少なくとも誰よりも熱意があり、引き受ける覚悟もあった。

 それでも、そのとき好きな男の頼みだったから聞き流しはしなかった。それは余計なお世話じゃないですか、だなんて皮肉も我慢した。つまり俺も、好意をもった相手に対しては強くでられたわけではない。

 事が終わったあと、俺はそれとなく彼女にそのはなしをした。余計なことをわざわざ口にしたのは、そのころには俺が好きなのはその男ではなく深町さんのほうだと遅まきながら気がついたからだ。

 深町サンはあの調子で「まったくヒーロー気取りで恥ずかしい。立場を弁えろよ、愚か者め!」と冗談めかして笑い飛ばしたが、それは「友人」という名の男の前のはなしであって、自分の「彼氏」の前で口にしたのはもっと穏健な反撥だったに違いない。

 顧みて、あのときの茉莉は、そっか、と言った。

 そっか、そうだよね。あたし、勉強キライだし、やっぱり無理か。

 俺は卑怯にも黙っていた。あのときのおぞましい沈黙を、俺はまたくりかえそうとしている。

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