第7話
「俺は、茉莉と会ったときから茉莉さえいればそれでいいと思ってきた。だが、少し知恵がつけば、相手が俺の言いなりになる人形じゃないことや、自分の抱いている欲望が世間ではおぞましいものだという認識はできあがる。俺はだから家を出たし、ほかの女性とも付き合った。でも駄目なんだ。いつでも茉莉が追ってこれるところまでしか逃げられない。本気で切り捨てることができない。
浅倉、俺は欲深いうえに自分に都合のいいようにしか生きてこなかった。万が一、さっきお前が言ったことを茉莉が口にしたが最後、他を全部投げ出すよう仕向けるだろう。そして俺にはそうするだけの力もある。また、茉莉もいっときは俺に騙されるふりもできる。
だが、人間は本来、社会的な生き物だ。俺はとうに狂ってると思うときもあるが、茉莉は違う。茉莉が夢からさめたときに俺も覚醒すればいいが、そうはいかない。俺には茉莉以上に欲しいものが見当たらないんだから、結果は明らかだ。
そうした何もかも、最悪の筋書きまで含めてすべてを見通そうと最大限に努力して、茉莉に伝えられるのは、俺の知るかぎり深町さん以外にはいない。それにもまして、茉莉が助けを求めたときに俺を押しとどめられそうなのは彼女しか思い当たらない」
察しのいい浅倉にしては珍しく、いまだ何ものをも掴めていない顔つきだった。
だからというわけでもないが、今まで抱えこんできた秘密をひとつ、その隙をみて吐きだした。
「茉莉がお前をいいひとだと言ったとき、あいつになんて言ったと思う? あいつがお前を好きになるはずはないとわかっていて、ましてやお前が振られたあとも深町サンに執着してるのも知っていて、それがただの会話の糸口くらいの意味しかないと頭では理解しているのに、お前のことをずいぶんと腐したよ。言わなくていいことまで、お前の女出入りが激しいってことまで口にした。茉莉が帰ったあと、吐き気がするほど後悔したね。しばらくお前とは顔を合わせたくないほど厭な気分になった。俺が悪いんだがな」
聞き終えた浅倉は俺から視線をはずし、肩をすくめるように苦笑して小さく頭をふった。
「や、それは事実だし、オレも茉莉ちゃん可愛いなあって思ってたから、あんたが妬くのも理由はあったってことで。それに、女の人が『いいひと』っていうときってそれもう、眼中にないってことでしょ」
浅倉の飄々とした言い種にはさしもの俺も吹き出しそうになった。
「たしかにな」
「そういうこと」
浅倉はかるく頷いて後はなしを元に戻そうとしたのだろうが、先に封じた。
「お前、深町サンの携帯、のぞき見るか?」
浅倉のこたえを俺は知っている。
瞳がかちあい、髪をかきあげてこいつが再び苦笑した。今度のそれは、先ほどと違い気まずかった。それからワンテンポおくれて。
「あの人は、何があろうとも見ないでしょうけどね」
そう。
彼女はそれをしない。それが卑しい行為だと思っているから。だが。
「でも、にんげん好きな相手のことは何だって知りたいでしょ」
浅倉は、何気ないようすで身勝手な欲望を肯定した。けれど、さきほど一呼吸おいた分だけ後ろ暗さについての自覚はある。こいつのことだ。覗き見たとして、それを深町さんに悟らせるほど愚かじゃない。知られたら軽蔑されると知っている。もしくは、そこで開き直って深町さんの潔癖さを責めるくらいのことをするだろう。思いもよらない方向からの反論にあたふたする彼女は見物に違いない。そんな想像を弄ぶ俺はどうしようもなく屈折している。
いっぽう茉莉は、俺の携帯もパソコンも盗み見ている。手の届く場所において、ロックもかけておかない俺が悪い。俺が誘導し、茉莉はそれを遂行しているだけだ。そう頭では理解する反面、自分のしたことと茉莉の行動がおぞましいと感じ、感じながらまた繰り返す。そして、俺が茉莉の携帯をのぞかないのは、茉莉の行動が読めているからであって必要がないという、ただそれだけのことだ。
だが先日、茉莉は俺がしてきたことをこちらにきちんとし返した。自分のパソコンを開き、プリントアウトした紙をこのローテーブルに置いた。俺は、誘惑に勝てなかった――……
「で、それでなんで深町センパイなわけ? あの人がそういう人だってのはわかる。それでもなんで?」
そして、こいつはこいつではじめっから終わりまで自分のことしか頭にないのだとあらためて理解して、つまり、俺と茉莉の関係なんぞ一顧だにしていないと振り切る薄情な潔さに免じ、俺も堂々と一矢報いることにした。
「お前が振られたあと、俺は深町サンに交際を申し込んだんだよ」
今日みたなかではいちばん厭そうな顔をされて心の底から笑いたくなった。ふだんが普段で本質的には何事にも動じない男であるだけに、これは、途方もなく気持ちがいい。
浅倉は衝動的な疑問を無理やり押さえつけようと努力したらしいが、こちらにその問いは筒抜けだった。あまり挑発しすぎても厄介だ。そうは思うが、この顔をみてはやめられない。
「……でも、けっきょくは付き合わなかったんだよね?」
「そうも言えるが、酒井さんにばれないように何度かふたりきりでデートしたよ」
「ハアア??」
「茉莉がヒステリーを起こさなきゃ、うまくいったかもしれんと思うときもあるよ」
二股というよりお試しだったな、とつけそえると、浅倉の肩ががっくり落ちた。そして頭をぶるぶる振って声をあげた。
「ああもう、ちょっと待った。何それ、それってどいういうこと?」
「どうもこうもなくて事実だよ。嘘はついてない」
「いや、でも」
「来須にも言ってないから黙っとけよ。深町サンにも言わないほうがいいってこともわかってるよな?」
念押ししながら思い返す。
三度目のデートで、俺はほとんど紋切口調で泊まっていきますかと口にした。だいぶ、焦っていた。自分の欲望にではなく、あまりに何もかもがすんなりいきすぎることに。絹の手触りで滞りなく物事がすすみ蜜の甘さで時間がすぎるので、その魔法の出所を知らずにはおれなかったのだ。
こちらの余裕のなさに反して、彼女はいまにも笑い出しそうな顔をして首をふった。それから頬にかかる髪を指ではらい、さすがにそこまでしちゃまずいでしょ、と肩をすくめてから、それに私、セックス好きじゃないから、と挑発的に微笑んだ。
「……それ、ほんとにどういうこと?」
主人に置いてきぼりにされた犬のような顔をした男へと、俺は冷たく返す。
「自分で考えろ」
「あの人のことは言われなくてもそうするって、オレは、あんたの頭ん中を教えてくれって言ってるんだよっ」
「自分が好きだった男の彼女だから気になったっていうのは表向きの理由で、本音は、あのひとだけが、俺の欲望を否定しなかったからだろうな」
浅倉は難しい顔をしておしだまった。
あのとき、試されているとわかって俺は醒めた。それに気づいた深町さんは寸前とまるで違う、屈託のない笑顔で俺をみた。
龍村くんは、私にほんとうのところは理解されたくないでしょ? たぶん私もそうだから、この関係でいいんじゃないの?
茉莉のことも、彼女には話していた。酒井さん、つまり、深町さんの彼氏が好きだということも隠さなかった。困らせたくてしたことを、あのひとは純粋に悦んだ。潔癖なひとという甘やかな断定は裏切られ、俺の嫌がらせは逐一あのひとの淫靡な愉悦になりかわる。その仕掛けが知りたかった俺をあざ笑い、彼女はいつも肝腎なところで背をむけた。
いま思えば、不思議でもなんでもない。彼女は誰にも執着していなかった。だからこそ、俺の恋々とした告白や情緒不安定な八つ当たりを、舶来品の金平糖でも味わうように手のひらで眺め、舌のうえでとっくりと転がして、その歪な突起を嘗め回していたに違いない。
そうして逃げた深町さんを追いかけなかったのは、それさえも試されていると匂わされたからだ。あそこまで意識的に行動されては臆病な俺にはとうてい手が出ない。
ふいに浅倉がこちらを見て鋭く切り込んだ。
「龍村さん、妹さんと血がつながってたら何ていうつもり?」
「茉莉にそのことは話さないと言ってるじゃないか」
「好きだって言われたらどうするか訊いてんだよ」
「深町さんが好きだってこたえるに決まってるだろ」
「やっぱり」
「当たり前だ。他にどうしろと?」
「茉莉ちゃんが、血がつながっててもいいって言ったら?」
「だから、それを茉莉は知らないよ」
「オレが話したら?」
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