追憶の香り
何日か経って街は落ち着きを取り戻した。
通りには冒険者であふれ笑い、時には喧騒が響き渡る。
昼間はにぎやか、夕方になっても彼らの活気は収まらず、一層騒がしさを増す。
その中である一角だけは静けさを保っていた。
街の一角に収まった豪華な屋敷。薄暗い部屋の隅に座り込み、窓に映る揺らめく夕焼け空を背に、ヒルダ・マギーは追憶に浸る。壺に入れたローズマリーのポプリが、すっきりと香った。
出会いは数年前。
買い物をしながら商店街を巡っていると、食べ物屋の手前で突っ立っている若い男を見つけた。
みすぼらしい格好をした彼はポケットに手を突っ込みながら、物欲しげな目で果物や魚を眺めている。
その癖、一向に手を出す気配を見せない。
かといきなりりんごを掴んで、猛スピードで走り出した。
「あっ! 待ちなさい!」
すぐさま追いかける。
男は逃げながら振り返った。
「なんだよ! お前になにができるんだ? やれるもんならやってみ、な?」
煽る声が途切れる。
男は口を半開きにしつつ、目を見開く。
彼の目の前で女が剣を抜き、銀色の刃が鋭い輝きを放ったのだ。
明らかな殺気。
盗人の顔は一瞬で青ざめ、表情は引きつり、ダラダラと汗をかく。
「覚悟しなさい」
一歩で踏み込んで剣を振り上げる。
男はノータイムで土下座した。
「すみませんでしたっ! 許してください!」
惨めなほどの潔さを見せる男を、あっけにとられたように見下ろし、ヒルダは硬直した。
ひとまず刃をしまって事情を聞く。
食べ物に困っているようだったため、買ってやった。
店を離れて、活気のある通りを歩きながら、話を始める。
「組織に入ってるんですけど、あんま活躍できてなくて」
「だからお金がないってわけ? だったらダンジョンでも攻略すればいいじゃない」
「無茶言わないでくださいよ。あんな魔窟、なんのためらいもなく行くやつなんて、サガプールの英雄くらいですよ」
りんごを玉遊びをするように弄びながら、男が言う。
サガプールの英雄、フラン・マースリンを話題に出されて、ヒルダはムスッとした。
「あたし、あの男嫌いなのよね」
「は? なんでですか?」
男がきょとんと尋ねる。
「別に。理由なんてないわ」
目付き鋭く言い放つ。
彼女の声は低く、なにか寄せ付けないものを感じた。
男は相手の迫力に押されて、黙り込む。
対してヒルダはなんの気なしに、話を変える。
「どうでもいいけど、お金がほしいんでしょ?」
「ああ、はい」
思い出したように口に出して、頷く。
「だったらうちに来なさいよ」
軽々しく告げ、口角を上げた。
目を細めると赤いサングラス越しに、金色の瞳が覗く。メッキを塗ったような輝きだった。
「光栄に思いなさい。あたしは列記とした貴族なんだから。そのあたしに仕えるのよ?」
「貴族っ?」
男はオーバーなりアクションを取る。
「貴族様がなんでったって、こんな街に?」
本当か? と言いたげな不躾な態度だが、ヒルダは気にしない。
おのれの素晴らしさは誰にも覆せないし、疑う者の目が眩んでいるだけだ。
所詮は貧民。彼の観察眼なんてその程度である。
一方で先ほどから男は戸惑い、そわそわとしていた。
「逃げるなんて言わせないわよ」
「分かってます。でも、いいんですか?」
「なにがよ?」
「俺なんかを雇って」
彼はおのれを過小評価していた。
なにをやってもうまくいかず、誰の役にも立てないと思い込んでいる。
その不安から隙あらば逃げ出そうと、様子を伺っているのだ。
「言っておくけど、あんたに拒否権はないのよ。このあたしの誘いを断るなんて、許せない。そんなマネをして恥でもかかせる気?」
「ああ、ごめんなさい。従います。役にも立ちます」
男は慌てて平謝り。
「フン。分かってるじゃない」
女は満足げに笑う。
機嫌はすっかり治っていた。
相手の態度が軟化したのが分かり、男は顔を上げる。
しばしの静寂。
パウダーブルーの空から太陽の光が降り注ぐ、ポカポカとした気候。
爽やかな風に木の葉が舞う中、ヒルダは問う。
「あんた、名前は?」
「俺ですか」
ためらい。
男は瞬きをしながら、真横を向く。
「言えないの? まさか、教えられないくらい底辺な身分だったりするわけ?」
「言えます。本当に」
挑発に即乗る。
もっとも、本心では教えたくないと思っていることは、彼女の目からも明らかだった。
「ルイ」
引き結んだ唇を開く。
真剣な目で相手を見上げた。
「ふーん」
女は冷ややかに彼を見下ろす。
細めた目に収まった瞳に、光は映らない。
ルイとは過去の英雄と同じ名だ。
上等にもほどがある。
彼にはもったいない。
ヒルダはルイを舐めていた。
低級な人間。流れる血からして違う。
いくら外面を磨こうと内面の野蛮さはごまかせない。
彼の価値なんてそんなもの。
彼女は相手を下に見ていた。
それなのに。
共に生活をするにつれて、彼に惹かれつつある自分に気づく。
普段の猫をかぶったおとなしさと、敵対者に向ける刺々しい態度の、ギャップが好きだ。
従者ゆえに遠慮をしているようだが、苛烈な部分も表に出してほしい。
そうすればお似合いになるから。
何年もルイと一緒にいるけれど、いまだに相手の本質を掴めない。
彼には謎が多く、知れば知るほど分からなくなる。
そもそもどこから来たのかすら不明なのだ。
ある日闇の中から急に現れたようで、時折暗い雰囲気も垣間見える。
そこがまたミステリアスで、ドキドキした。
ああ、だけど。
彼はもういない。
今度こそ闇の中へ消えてしまった。
見送ったときから分かっていた、彼は戻らないと。
だから、一夜明けてルイが帰ってこなくても、現実をあっさりと受け入れられた。
もう二度と会うことはない。
あの日々も、思い出も。
彼の存在も、なにもかも。
霧に溶けてしまった。
今となっては幻だったのではないかと思えてくる。
いつの間にか窓の外が暗くなっていた。
かすかな肌寒さを感じる夜。
ダークブルーの空に星が流れていく。
ヒルダの頬にもぽたりと、露が落ちた。
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