僕達の棲家

王子

僕達の棲家

「すみたい場所にすむのは、難しいな」

 先輩は熊みたいな巨躯きょくでベンチに腰掛け、眉間にシワを寄せながら缶コーヒーをちびちびとすする。缶コーヒーはなぜ小さいサイズばかりなのだろう。背丈が百九十センチ近い先輩の指先で、百九十グラムのスチール缶がフェイク画像みたいに小さく見えた。

 すみたい場所。今なら分かる。先輩は「棲」の字を当てている。タヌキが穴ぐらに棲むように、深海魚が海底に棲むように、生き物には適した棲家すみかがある。先輩にとって、ここは棲める場所ではなくなってしまった。「息苦しいんだ」と言っていた。親がうるさいとか友達が少ないとかそんな理由ではなく。これは先輩の、先輩にしか解決できない問題だ。釣り上げられた魚が酸素を求めてあえぐように、呼吸もままならず一人静かに苦しんでいた。

 誰が助けてあげられただろう。僕だって原因の一つだというのに。


 三月の早朝は空気が冷たくて、買ったばかりの缶コーヒーは急速に熱を失っていく。

 先輩を東京へと運ぶ電車を待つ間、僕達は温かい飲み物が欲しくなって自販機の前で肩を並べた。先輩が小銭を投入して「お先にどうぞ」と言うので、ありがたくボタンを押すと、ガッタンと大げさな音とともに真っ黒な缶が落下してきた。

「えっ」

「どうした」

「僕、カフェオレ押しましたよね」

 先輩は受け取り口から無糖コーヒーを拾い上げながら、「ああ」と笑う。

「そういうこともあるさ」

 品物を入れ間違ったであろう誰かを責めることもなく、太い指でカフェオレのボタンを押した。吐き出されたのは、まろやかな色合いの缶だった。

「今度は当たりだな」と、差し出される。

「いや、いいですよ。先輩、無糖は飲めないじゃないですか」

「飲めないわけじゃない。飲まないだけだ」

 僕の手にカフェオレを押し付けて、「大丈夫だ」と言った。

 先輩の口癖だった。そう口にすれば何もかも万事解決するから心配無い、とでも言い聞かせるように大きく頷きながら「大丈夫」と言うのだ。でまかせでも気休めでもない。約束を守り、期待に応えられる器を持っていた。少なくとも、僕達、柔道部員はそれを十分に認めていた。


 県大会の団体戦決勝、インターハイ出場を目前にして僕達は完全に落ち着きを失っていた。部自体は学校からそれほど期待されていなかったが、先輩は僕達の中で傑出けっしゅつしていた。百キロを超える体は驚くほど軽やかで、そのえ渡る組み手を目にしていた僕とメンバー達は勢いづき、波に乗っていた。気付けば、残り一試合のみ。問題は、相手が昨年の優勝校であることだった。

 チーム内には温度のムラが生まれていた。ここまで勝ち進めたのなら十分だ。もしかしたらインターハイに進めるのではないか。相手が相手だからここまでだろう。今年が最後だから何としても勝ちたい。

 他の学校の大将ならどうしただろう。怒号で一喝いっかつし、黙らせたかもしれない。先輩はそうしなかった。メンバーを集めて円陣を組み、そしてただ一言「大丈夫だ」と言った。他には何も言わなかった。必ず勝てるとか、負けても誰も責めはしないとか、リーダーが言いそうなことは何一つ。

 それなのに、全員がその一言で落ち着きを取り戻していた。勝利を確信し合ったのでもなければ、当たって砕ける闘志にみなぎったのでもない。荒れた海が静まるように、心がいだのだった。僕達が一番必要としていたのは、間違いなくあの感覚だった。


 棲みたい場所に棲めない……僕が共感できたら、先輩はいくらか救われただろうか。

「すみたい場所にすむのは、難しいな」

 僕の「そうですね」なんて空虚くうきょな返答を聞いても先輩は責めたりしなかった。代わりに、僕のさざ波を敏感に察知して心配そうな顔をする。あのときを思い出したかのように。

 やめてください。そんなことだから棲家を失ってしまうんじゃないんですか。

 誰に迷惑をかけるわけでもないのに、常に人の反応をうかがっている。そう生きるのが自分の義務であると心得ているように。自分が抱えたものは、そういう類の問題だと思い込んでいる。

 先輩は臆病おくびょうなわけじゃない。心に勇敢ゆうかん獅子ししを飼っている。

 僕と出会う前は、眠るようにじっと耐えていたのかもしれない。

 僕と出会ったから、目を覚ましてしまったのかもしれない。

 それが先輩を苦しめることになった。


 部活を終え、空に紫が差し掛かる時間、冬入り前の寒風の中。口数の少ない、いつもどおりの先輩らしさで「好きなんだ」と言うものだから、僕は「何がですか」と返した。先輩は何も言わず、眉間にしわを寄せて僕の目をじっと見ていた。あまりにも決意と気迫に満ちていて、ああそういうことかと、ふんわり悟った。

 不意を突かれたのもあって「そうですか」としか言えなかった。

 頭が回転し始める。先輩は、僕を好きだという。そういう人もいるのだと承知した。それで、これから僕達の関係はどうなるのだろう。いやそれよりも先に、僕は今なんと答えればいいのだろう。僕の気持ちは。

 そこまで考えて、ようやくとんでもない場所に立たされているのだと気付いた。

 同性を好きになる人がいるのは、本やドラマの中の話だと高をくくっていた。これはフィクションじゃない。僕はまさに今、当事者になってしまった。登場人物達への感情移入なんて生易しい話じゃなくて。目の前の先輩に、生身の人間として、僕達の関係が崩れるか否かの瀬戸際で向き合わなければいけない。

 日が落ちてきたせいか、急に足元から寒気が上ってくる。

 僕はどれほどの時間押し黙っていたのだろう。先輩が「大丈夫か?」と、ずぶ濡れの子猫を見るような目で覗き込んでくる。僕達の身長差ってライオンと子猫みたいだなと、呑気なことを考えてしまった。

 僕がよほどひどい顔をしていたのか、心配を通り越して泣きそうな顔をする。そんな表情を見るのは初めてだった。いつまでも黙っているわけにはいかない。救急車でも呼ばれそうだ。

「ありがとうございます。でも、ごめんなさい、僕、恋愛対象は……」

 先輩は大きく一つうなずき「大丈夫だ」と笑った。予想どおりで安心した、という具合に。こんなときでも口にするのは、僕を気にかけての「大丈夫」なのだ。

「驚かせて悪かった。顔色が悪いな、大丈夫か」

 その顔を見上げれば、いつも真正面から見据える視線がわずかに左右にぶれていて、動揺は明らかだった。大丈夫じゃないのは先輩なのだと愚鈍ぐどんな僕でも分かった。

 ほどなくして、先輩は「卒業したら上京する」と僕に告げた。

「ここは息苦しいんだ。俺の棲んでいい場所じゃない気がする」

 先輩は慎重に言葉を選ぶ。だから僕への当てつけじゃないのは分かっていた。それなのに、どこにでもある先輩と後輩のつながりは、互いの重荷になってしまった。


 灰色の雲が春を拒むように空をふさぎ、僕達から言葉を奪う。冷えきったカフェオレは甘みが残っていない気がした。温かさと甘さは親密な間柄にあるのかもしれない。こんな寒空の下で飲む無糖コーヒーはどんな味がするのだろう。先輩は自分の傷に構わず、あらゆる災難から僕を守ろうと気を遣ってくれる。いつでもしてもらうばかりだった。僕に天気を操る力があれば、旅立ちのはなむけに暖かな陽射しでも呼び寄せただろうに。

 カンカンカン、と警報音が突然プラットホームに鳴り響き、僕達は身を強張こわばらせた。列車の姿はまだ見えないが、すぐに滑り込んでくるだろう。

「電車が来るな」

「そうですね」

 そうじゃない。言うべきことはたくさんあるのに。僕から何か一言でも口にすれば、あとは先輩があの一言で安心させてくれるだろうか。理由の分からない焦燥感しょうそうかんのような、むずむずした感触に突き動かされる。

「お別れですね」

 なんとも中身の無い言葉だ。何もできない僕にはお似合いだ。

「そうだな。でも、大丈夫だ」

 僕の目を見ずに、まるで定型句を唱えるように先輩は言った。「大丈夫」が、こんなにも軽率に扱われたのは初めてだった。いつもの先輩じゃない。先輩を受け入れなかった僕は腫れ物ですか。目を見ることも耐えられないんですか。だから東京に行くんですか。先輩の棲む場所って、本当に東京にあるんですか。

「何が大丈夫なんですか。先輩の棲む場所を奪ったのって僕ですよね。本当は僕をうらんでるんじゃないんですか」

「怒ってるのか? 急にどうした」

 何に腹が立っているのか分からない。何か言いたい気持ちだけが先立って、何を言えばいいのか分からない。代用の言葉ならいくらでも思い付くのに。

「これじゃあ、僕が追い出すみたいじゃないですか」

 間違ったことは言っていない。その場しのぎで傷付けたかもしれないとしても。

「なんだそういうことか」と、先輩は笑った。作り物ではなくて、でも僕を安心させるための笑顔。自分の感情表現ではなく、不機嫌な赤ちゃんをあやすような。

「全部、俺の問題だから気にするな。大丈夫だから」

 その「大丈夫」を待っていたのは事実だ。でもそれだけじゃなくて。いや、言葉じゃないのかもしれない。わがままな僕が、本当に欲しいのは。

 カーブの向こうから列車が現れた。カウントダウンタイマーみたいにじりじりと迫る。

 僕との関係なんて、去る理由の一部に過ぎなかったのだと思う。僕には教えてくれなかったけれど、棲む環境に適さない要因が、先輩の周りにはたくさんあったのだろう。先輩の言うように、これは先輩の問題で、つまり僕が駄々をこねたところで、どうにかなる問題じゃないのかもしれない。

 そうか、僕はどうにかしたいんだ。望んでいたことがようやく輪郭を持ち始めた。

 僕は、先輩に、行かないでほしいんだ。

 先輩の気持ちには応えられないくせに、いつまでも僕の先輩として近くで安心させてほしい。どこまでも僕のわがままだ。気持ちの悪い感触がスッと引いた気がした。

「先輩。がんばって、くださいね」

 ありきたりな別れ文句が口をいて出る。ふてくされたように聞こえたかもしれない。

「ああ。大丈夫だ」と、作り物のエールに応えて頷く。今度は僕の目を見ながら。今は、いつもの先輩らしさを取り戻しているように見えた。

 東京に、先輩の棲む場所は見付かるだろうか。

 酸素を求めてあえぐことなく、棲むための住民票を得て、自由に遊泳できる場所が。たとえ無かったとしても。先輩が自分のために「大丈夫」を言える小さな小さな棲家に、僕はなりたい。だから。

「また会いましょう、ここで」

「俺の居場所は、もうここには無いよ」

「ありますよ」

「慰めてくれるのはありがたいけど、俺は家族にだって……」

「ここには、僕がいるじゃないですか」

 えっ、と先輩は言葉に詰まる。

「僕は先輩の後輩ですよ」

しまった、大事なところで変な日本語になってしまった。

「あてにしていいのか」

 後輩としてだが、と付け加えるのを忘れなかった。

 こんなときまで、僕が困りそうなことは全て取り除こうと気を遣って。

「当たり前じゃないですか」

「俺と一緒にいるのは、その、気まずくないのか」

「何言ってるんですか。大丈夫です」

「分かった。帰ってくるよ」

 先輩、僕はほんの少しでも、お返しができましたか。

 きしむ車輪の音。動きを止める列車。耳を突くドアの開口音。いざなわれるように歩を進め、先頭車両に乗り込んだ背中。心なしか小さくなった気がする。陳腐ちんぷだけれど時間が止まればいいと願った。そんなのお構いなしとばかりに無機質なドアが僕達を隔てる。

 頭が車窓から見切れている。大きな左手で顔を覆っていて表情はうかがえなかった。もう片方の手がこちらに小さく振られていて、図体に似合わない仕草でおかしかった。

 列車が先輩をこの土地から連れ出していく。衰弱した生存者を乗せた救命艇が、荒れ狂う海から脱出するみたいに。ここよりは棲みやすい土地まで運んでほしい、どうか。

 獅子は眠るままではいられない。獅子は勇敢の象徴だ。いつか先輩が帰ってきたとき、僕が矢面やおもてに立って、降りかかる火の粉を払い除けなければ。また息苦しさを感じさせるわけにはいかない。ここに僕という一時ひとときの棲家があって、先輩が「ここは大丈夫だ」とカフェオレを指先につまんで笑えるように。

 その日まで、さようなら。先輩。

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