仮想兄弟
狐崎のち
第1話 その病室で
それは、12月上旬の寒い日だった。
他校の生徒を殴った左手を見れば、青く痣になっている上に、ガサガサに乾燥して少し血がにじんでいたのを今でも憶えている。
生徒指導室まで俺を迎えにきた親父の、少し後ろを歩いた。
学ランの下にパーカを着込んだだけでは寒くて、無言の中、マフラーを巻き直しながら、肩を竦めた。
ふ、と親父が視界から横にずれる。
「おい、親父、どこ行く…」
家路と異なる道を選ぼうとする親父の背に声をかけようとして、その道があまりに通い慣れたものだったから、どこへ行こうとしているのか見当がついてしまって、口を閉じた。
足を止めた俺を振り返り、親父が何事もなかったかのように放った言葉。
それは、本当に晴天の霹靂だった。
「浩之。お前、来週から毎日、昴君の送り迎えしなさい」
「…はっ…?」
本当に、この時まで、存在も、名前も、知らなかった昴。
それなのに、それなのに。
俺は、そこから3ヶ月で、自分の人生がこんなにも急転するだなんて、
想像も、していなかったんだ。
仮想兄弟 #1
「ごめんねぇ、浩之くん」
何度も通ったその病院の、俺が行っていたところとは違う病棟に、彼女はいた。あんなに通ったのに、まだ知らない場所があったのかと、少しきょろきょろしてしまう。
総合病院の受付には老人がたくさんいて、先ほどまでの高校の荒れた様相とは大違いだ。
どこか居心地悪く、すぐにでも帰りたい心地になる。
「ここだな」
親父が、スライド式のドアをスーッと開ける。
見上げれば、4人部屋に、「文月深雪」の文字があった。
(深雪さん、入院してんのか)
親父は誰に会いに行くとも言わず、ただただここまで歩いてきた。
俺は、告げられた”昴”とやらの話も聞けていないし、ただただついていくしかなかった。
窓際のベッドだった。
白いカーテンの向こうには、穏やかに微笑む40代の女性。
鍵編みのカーディガンを肩から羽織ったその優雅さとは対照的に、左足に巻かれた包帯が痛々しい。
「深雪さん!今回は大変でしたね」
親父がベッド脇へかけて行き、パイプ椅子を引いて座る。
俺はなんとなく、その手前で立ったままでいた。
「ええ、大丈夫ですよ。高瀬さんこそ、ご心配かけてごめんなさい」
ふわりと笑うこの人は、自分が大変な目にあっているというのに本当にすごい。彼女は、あの時もこうだった。
この人がいなければ、俺も親父も、きっともう、ダメになっていた。
「浩之くんまできてくれたのね、忙しいのにありがとう」
喧嘩の後だから、俺の顔にはいくつかの傷があって。
彼女はそれに気づいてほんの少し目を見張りながらも、そこには触れなかった。
俺は、どこかみっともなく感じてしまって、恥ずかしいような、申し訳ないような気持ちになって、少し俯くしかなかった。
長いままにしている前髪がうっとうしい。
ぼそりと口にする。
「…大丈夫、なんスか…」
入院しているのだから骨折は間違いないだろう。
この女性は、文月深雪さん。看護師だ。
親父が倒れた時に、随分と面倒を見てくれた近所のおばさんだ。
親父と深雪さんの話を聞いていると、どうも、階段で滑った拍子に悪い着地の仕方をしてしまい、左足首にヒビが入ってしまったのだそうだ。
月末には退院ができそうだということを聞いて内心ホッとするが、それにしたって、俺がわざわざ深雪さんのところまで連れてこられた意味なんて。
あの訳わかんねぇ言葉以外、ねぇよな。
隣のベッドの患者がくしゃみをする。
寒い。
ちらりと目線をあげれば、窓の手前でパイプ椅子に座った子供が見える。
ほぼジャストサイズのトレーナーにデニム。
足をぷらぷらさせながら、つまらなさそうに下を向いている。
黒く艶やかな髪が、さらさらと揺れる。
(へぇ…子供って、髪、綺麗なんだな)
そんなことをふと、思う。
ブリーチのしすぎで痛みきった俺の髪とは大違いだ。
俺にもあんな頃があったのだろうか。
そして、きっと、こいつが
件の、昴ってやつ、なのだろう。
*********
お袋は、3年前に死んだ。
俺が中学生の時だった。
それまで家事をほとんどやってこなかった親父は、残業に加えて、俺の世話やら、料理やら、掃除やらが一気に舞い込んでくることになった。
病状の妻を見舞い、会社へ通い、俺に気を使い。
もともと体が強い方ではない、ヒョロヒョロした痩せた親父だ。
お袋が死んで、葬式が終わったら、意識を失うように倒れた。
お袋が入院していたこの病院に運ばれた親父を見てくれたのが、近所に住んでいた深雪さんだった。
彼女はここで看護師として働いていて、お袋が入院している時に通っていた親父と顔見知りで、事情もわかっていたから、何かと話が早かった。
お袋が倒れた時、俺はバスケの大会に向けて猛練習中だった。
3年までは試合を頑張って、スポーツの成績は悪くなかったから、なんだったら推薦を狙おうと思っていた。
そこそこ勉強も頑張って、上の下くらいはキープして。
身長もあったし女子からの人気もそこそこあり、クラスの連中ともうまくやっていて、スクールカーストはまぁまぁってとこだった。
いわゆる順風満帆な学生生活だ。
このまま、よくわかんねぇけど、大学に行って、就活をして…という未来をゆるやかに想像していた。
何が変わった訳じゃない。
それでも、お袋が倒れたことは、俺の生活に随分と深く影を落とした。
学校のやつらとLINEで馬鹿話をしていても、頭の中のどこかで警鐘を鳴らすような、とめどない溝ができたような、そんな心地がした。
親父とお袋は、自分のことを考えろと言ってくれた。
それでも、俺は、まるで自分が宙に浮いたようだった。
もう、ガキじゃない。
だけど、ガキじゃないなら、どう、すべき、なんだろう…
自分の夢をただ追いかけるべきなのだろうか。
そんな大した夢でもないのに。
NBAの選手になれるほどの才能があるわけじゃない。
抜群の成績があるわけでもない。
すごく気になっている突き詰めたいものがあるわけでも、ない。
家族を大事に支えるべきなのだろうか。
今更?支えて、支えて、そして、これからお袋は死ぬ。
親父を助ける?どうやって。
金を稼ぐと言ったって、まだ中学生だ。
進学して就職してできることだって、たかが知れている。
(…俺は、なんて、半端な存在なんだろう)
家族のことに手を出したくても、何をしていいのかわからずに、それでもオロオロするのはダサくて、そんなの嫌で。
学校では平気な顔をして、お袋の見舞いにはこっそり通って、家でたまにネットで調べながら家事をしてみたりして。
うまくもないであろう俺の作った飯を、親父は何も言わずに最後まで食べた。
それでもお袋が死んで、親父が入院して、俺はいよいよよくわからなくなってしまった。
そんな時に、これ食べなさいと料理をもたせてくれたのが深雪さんだった。
親父の見舞いの度に、俺に声をかけては、何かと気にかけてくれた。
「うちはたくさんいるから余っちゃうのよ、おすそわけでごめんね」
俺は無表情だっただろうに、彼女が向けてくれる柔らかな笑顔が、残像のように今も脳裏に焼き付いている。
家に帰って一人、誰もいない居間で、タッパーのまま食べた深雪さんの料理はなぜか懐かしい味がして。
せめてレンジであっためりゃよかったが、もうそんな気力も湧かなかった。
3口くらい食べる頃には、毎回、頰を涙が伝った。
親父が帰ってこないのをいいことに、俺は一人、制服のまま、飯も皿もほったらかしで、電気もつけずに何度か泣いた。
だから。
深雪さんの料理はきっと醤油の優しい味なのだが、俺の記憶の中では、どこか塩っけが混じっていて、ちゃんと覚えていない。
*********
「私が困った時に助けてくれたのは深雪さんだ。彼女が困った時に私が彼女を助けるのは、当然だろう」
親父が俺を振り向いてそう告げる。
それは、わかる。
それは同意なんだが…
「だから、って…」
ちらりとこちらを見上げてきた少年と視線が合う。
それはまるで噛みつくようでもあり、凍てついたようでもある。
俺は深雪さんの家族についてはあまりよく知らない。
こんな、わりかし小さなガキがいるんだということも今知った。
「昴は小学3年生でね、習い事に行く前に夕飯を食べさせてあげたくて」
深雪さんが説明する。
どうも、母親が入院したので、子供の面倒を見る人がいないということらしい。
この家、父親はどうしたんだろう。
他に親戚とか、キョーダイとかいねーのかな…
深雪さんの頼みを断りたいわけではないが、そもそも残念ながら、俺はこの役に向いていない。
俺にはキョウダイはいない。
年下を可愛がった記憶もない。
小学生のガキを、面倒をみるも何も…
むしろ、中学生の時の自分の姿を重ねて、なんとも言えない気持ちになった。
「いらない」
昴がツンとした声を出す。
「もう、昴、そんなこと言わないで…」
深雪さんの声がけにも怯まず、昴は続ける。
「いいよ、別に。律だっているじゃん!」
りつ?
なんだコイツ、兄でもいるんか。
つーかキョーダイを名前呼びってするもんなんだな。
へぇ、と思いながら、なんだか面倒を見ずにすみそうな流れに内心安堵する。上のキョーダイなんだったら、中学生くらいか。
俯いて、前髪が影を落としたその表情はよく見えない。
なんだコイツ、肌、めちゃくちゃすべすべだな。
パイプ椅子をぎゅうと握りしめながら昴は続ける。
「お母さん、僕、へいき、だから」
「ごめん!遅くなって」
ガラッと部屋の扉が開いたかと思えば、軽やかな声と共に、女性が飛び込んできた。
顎くらいで揃えられた、少し色素が薄い、やわらかそうな髪。
顔は可愛いとも美人とも言えそうな…正直…大変、好みな…っと、いかんいかん。
あれ、これ、近所の進学高の制服じゃねぇかな。
わりかし真面目な、偏差値高めのとこだったような。
短めのスカートがひらりと舞い、現在男子校に通っている俺は、なにやら悪いことをしているような気になり、思わず目を逸らした。
「律!来なくていいって言ったのに」
左隣に座っていた昴が、ガタッと立って声を張った。
…え。
律?
こいつが律?
思考が追いつかない。
嘘だろ。
男だと思っていた。
…めちゃくちゃ可愛いじゃないか。
律と呼ばれた彼女は、深雪さんにあーだこーだと話しかけていたが、くるっと振り返って俺を見た。さらさらした髪が弧を描き、どうにも見惚れてしまう。
「あっ、この人が昴を見てくれる人?」
「そうよ、例の高瀬さんとこの浩之くん」
似たようなトーンの声をした母娘だ。
「嬉しい!助かるわ、よろしくね、浩之くん」
ふわりと笑いかけられて、思わず俺は答えていた。
「あ、あぁ…」
ぎょっとした顔で昴が俺を見上げた。
「はっ!?ちょっ…」
「よかったね、昴」
律がにこりと笑う傍らで、昴がいやそうに顔を歪めるのが見えた。
俺と文月家の物語は、ここから急展開していくことになる。
仮想兄弟 狐崎のち @nochi_kozaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。仮想兄弟 の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます