「ひだまりの中で」 - 睦月衣

『別れてくれないかな』

 宮沢ひまりがそのメッセージに気づいたのは、大学へ向かう電車の中だった。その日は土曜日で入れている授業はなく、午後からのサークル活動に向かうところだった。

 車内は比較的空いていた。朝早くに乗る平日の混み具合はそれはもう相当なもので、もう少しで骨が折れるのではないかというほど押し詰められるのだが、土曜日のこの時間帯だとそれもいくらかましだった。

 その日、何となくバッグの中のバイブ音に気づいてスマホを取り出し、吊革に掴まりながら片手でホーム画面を起こして、それを見つけた。

 五秒ほど文字を眺めていただろうか。その音を何度も心の中で反芻すると、すうっと胸の奥が冷たくなった。

『どうして?』

 打ち終わると画面を消し、視線を窓の外に戻した。

 彼と知り合ったのは高校三年生の春だった。予備校で同じ教室で、ひまりが消しゴムを借りたのをきっかけに交流が始まった。彼は元々別の大学への進学を希望していたが、直前になって「やっぱりひまりと同じ大学に行きたい」と希望を変えたのだった。ひまりは驚いたし、当然先生には反対された。それでも彼は頑なに、彼にとっては楽勝であろう試験を受け、そしてこの春、二人は揃ってこの大学に入学したのである。学部は別だが、同じサークルに入り、週に一度は顔を合わせていた。活動の後は同期みんなで夕飯を食べ、二人で同じ電車で帰るのだ。――今日もそのつもりだった。それなのに。

 ちょうど川を渡るところだった。ひまりの住む県はこの川を境に東京都と接している。青く塗装された鉄の柱が、目の前をものすごいスピードで通り過ぎていった。遠くにスカイツリーが見えた。今日は快晴で、はっきりと輪郭がわかる。

 ふと、そういえばスカイツリーには行ったことがなかったな……と思った。「また今度」と言って先延ばしにしていたが、結局その「今度」は永遠に訪れなかった。……おかしなものだ。妙に頭が冴えている。

 スカイツリーがビルに隠れたころ、右手に振動を感じた。おそらく彼だ。再びトーク画面を開く。

『もう恋人として見れない』

 ……ふう、と小さく息が漏れた。ついにこの日が来たか、と思った。掴まっている左手が少し痺れている。

『わかった。それなら仕方ないね』

 淡々と親指を動かし、送信を押す。既読はつかない。ひまりはスマホをバッグにしまった。

 あっけなかったな、と思った。長く一緒にいたはずなのに、終わりはこんなにも一瞬だった。そして驚くほど感情が無かった。あまりにも冷めていて、何のつっかかりもなくすとんと落ちた。

「卒業したら結婚しようね」なんて、笑いあったのはいつだっけ。冗談だと言いながら、ちょっと本気だったのに。おかしいなあ。

 ふと自分の右手に目が行った。薬指にシルバーの指輪をはめている。これいくらしたっけ……と、揺られながら考える。

 降車駅のアナウンスが流れた。大きな乗換駅なだけあって、かなりの人がホームに降りた。人の波はそのまま階段を上り、各線のホームや出口に分かれていく。

 前を歩くカップルが手を繋いでいた。その少し後ろを歩くヘッドフォンをしたサラリーマン風の男性が、いらついた様子でそれを睨んでいる。

 ひまりはちょうど着いたらしい電車に乗り込み、ほとんど無意識にスマホを取り出した。しまったと思いながら勢いで通知欄を開くと、彼から『ごめんね』とだけ入っていた。もう動揺はない。しかし、

 ……どうして私が謝られなきゃいけないのよ。

 反射的に思った。

 彼は私が傷ついたとでも思ったのだろうか。それを自分のせいだとして謝ったのだろうか。あくまでも彼が優位に立っていると、その前提で私を慰めるつもりで謝ったのだろうか。

 先に好きになったのは彼の方だった。告白したのも彼の方だった。追いかけていたのは彼の方だった。なのになぜ、私が彼に謝られなければならない? 彼が求めるから受け入れたのに、彼に私を拒否する権利はどうしてあるだろうか?

 ひまりは顔を上げ、ぎゅうっと目をつぶった。

 私は傷ついていない。それどころか何も感じない。悲しくない。未練もない。むしろすっきりする。涙も出ない。しかし――

 ふと思い出す。一緒に勉強した日々、合格発表の瞬間、私しか知らない彼の表情。

 私は――確かに好きだった。順番はどうであれ私も彼を好きだった。ただその『好き』が、彼とうまく噛み合わなかったのかもしれないけれど。

 ひまりは目を開くと、何重にも重なる車窓をしばらく見つめていた。やがてどこかの駅のアナウンスが流れ、近くのドアが開くまで、ずっとそうしていた。

 ――右手の中の暗くなった画面に目をやる。トーク画面を起こし、硬くなった親指で文字を打つ。

 恋人じゃなくたっていい。思えば、私が好きになったのは恋人としての彼じゃなかった。人として惹かれたのだ。私も彼も悪くない。仕方のないことなのだ。

『祐樹は悪くないよ』

 そう送ると、今度はすぐに既読がついた。

『ありがとう』

 まもなく届いた返信に思わず口元が緩む。こういうときの定型文だと知りながら、使ったことはなかったな……。『これからも友達としてよろしくね』の文字を、もつれながら打っていく。こんな日が来るなんて……。

 しかし、送信する前にメッセージが来た。

 ――その文字列は、解読するのがなかなか困難だった。


     *


 静寂に響きわたる着信音。ノクターンの第二番。

 佐伯英治はスマホと手帳を持って、そそくさと大講義室を出た。

「もしもし」

 応えると、電話の向こうから小さな声がする。まったく困ったもんだ。補講中にかけてくるなんて……。当てる位置を調節しながら階段を降りてゆき、一階から外へ出る。

 外に出ると、すぐに階段を降りてピロティに出た。彼が通う大学の五号館は一階がピロティになっていて、そこに多くの学生が集まれるようになっている。数少ない開放的な空間なので、今日のような快晴の日は特に、設置されているテーブル席は競争率が高い。

 見ると、今はほとんど埋まっているが、一つだけ空いている場所がある。佐伯はそのテーブルに手帳を置き、自身はベンチに腰を下ろした。

 ぱらぱらと手帳をめくりながら、電話の向こうに問いかける。

「……じゃあ、もう実行してくれたってことだね?」

 やわらかな風が彼の細い髪を揺らしている。透き通った頬にほんのり赤が染みている。

 少しの沈黙。そして、ニッコリ微笑んだ。

「そうか。……ありがとう。これで僕は君の秘密をバラさなくてよくなった。……いやあ、すごくよいことだよ。君も僕も、悪人にならずに済んだのだからね」

 風でページがめくれそうになるのを、左手で押さえながら会話を続けた。

 ――そうか。……ふふふ、なるほどね。それで君はどうしたの? うん……。

 それから時折楽しそうに「ははは」と笑う佐伯に、電話の向こうの声はひどく憔悴している風だった。


 しばらくして佐伯は手帳にさした万年筆を抜き取り、最後のページに書かれたリストのようなものを一つ線で消した。そして変わらず涼しげな顔で言う。

「……じゃあ、最後にいいかい?」

 ぶわっ……と強い風が吹いて、佐伯の声は吸い込まれてゆく。電話の向こうの声は聞こえなかった。

 気にすることはなかった。もう初めに伝えてある。聞こえていようがなかろうが、僕のすることはただ一つ――。

「――ということで。わかったね?」

 佐伯は優しく尋ねた。あくまでも優しく――ただし拒否権はない。電話の向こうから、かすかにノイズが聞こえる。

 ――これで、君と僕とはさよならだ。金輪際関わらない。サークルも辞めて。もちろんあの子にも近づくな。絶対にね。もし破ったら、どうなるかわかってるよね?

 佐伯は囁くようにそう言って、一息置いた。もう何も聞こえない。

 屋根の隙間から見える快晴を見上げ、佐伯は静かに笑った。一つ大仕事を成し遂げたような、そんな爽やかな気分……。

 電話の向こうからは、すすり泣くような声が聞こえている。うるさいなあ。もう消えてくれ。

 ピッと無機質な音がして、世界は平和になった。電話を切った佐伯は、軽く息を吐いて手帳を閉じた。

 ……さあ、行こう。


 十分ほど経って、佐伯は講義室に戻ってきた。板書を見ると、まだ次の話題には進んでいないようである。

 スマホの画面には『宮沢ひまり』と表示されている。

『五限のあと、時間ありますか?』

 文化祭に向けて一年生のメンバーで自主練習をするのに、何人か先輩に見てほしいということらしい。

『大丈夫だよ。せっかくだから、石崎くんも呼び止めておくといいよ』

 返信すると、まもなく既読がついた。

『ありがとうございます!』

 そうして共に送られてきたパンダのスタンプは、どこかひまりに似ていると思う。佐伯は嬉しくなって、同じスタンプをダウンロードして送った。

 スマホを机の中にしまい、遅れた分の板書をとる。専門分野外でおもしろくはない授業だけれど、今日はなんだか気分がいい。佐伯はどこか澄み渡った、すがすがしい気持ちで顔を上げた。

 ――これで、準備は整った。

 カーテンの隙間から、外を歩いているひまりが目についた。周りには何人かのサークルメンバーがいる。彼らは佐伯に気がつくと、小さく頭を下げた。佐伯は手を振った。

 彼らはまた歩いていく。五号館の隣にあるサークル棟に行くらしい。今日は三限も四限も補講で参加できないから、少し顔を出してやろう。きれいになったあの子たちを見てやろう……。

 去っていく彼らの後姿に、佐伯は底知れぬ満足感を覚えていた。つい最近まであの中にいた青年は、もうどこにも見当たらない。

 佐伯の第一の目的は、果たされたのだ。


     *


 しかたなかったんだ。

 坂本祐樹はそう言い聞かせてトーク画面を閉じた。

 彼からの連絡は突然だった。初めは誰だかわからなかったが、尋ねると「そんなこともわからないの?」と罵られた。そのあとのさらさらした笑い声でわかった。普段からは想像もつかないような、恐ろしく冷たい声色……。

 佐伯英治はサークルの先輩だ。新歓で体験に行ったときに担当してくれたのが佐伯で、何も知らない自分たちに丁寧に教えてくれたのをよく覚えている。

 入会後も懇意にしてくれていた。直属の先輩ではなかったが、いつも穏やかで優しい佐伯を、祐樹は心底信頼し、尊敬していたのだ。

 それがどうしてこうなったのだろう。思い返してみても、兆しはどこにもない。

 彼は何も語らなかった。突然電話をかけてきて、秘密をバラされたくなければ自分の言うとおりにしろ、と脅してきた。ここで相手にしなければよかったのかもしれない。しかし、秘密――と聞いて、思い当たることがないわけではなかった。

 正直、祐樹は彼に心を許しすぎたように思う。一緒にサークルに入った彼女のことを、多く語りすぎたのかもしれない。それでも祐樹は佐伯を信用していたのだし、ある程度は漏らしてしまうものだろう。しかしそれも初めから仕掛けられていたことだとしたら――入学したばかりの十八の少年には、防ぎようもなかったことかもしれない。

 秘密などと言っても、大したことではなかった。祐樹が彼女――ひまりとの約束をドタキャンして大学の友達とゲームイベントに行ったとか、そこで会った美女コスプレーヤーとツーショットを撮ったとか、そのあと数人で食事に行ったりとか……その程度だ。しかし、祐樹には負い目があった。

 ひまりは非常に気立ての良い彼女だった。祐樹に嘘をついたことがないのはもちろん、不安にさせたことも一度もない。きっとこの件を知っても笑って許してくれるのだろう。――だが、祐樹が耐えられない。身勝手な話だとはわかっているが、どうしてもひまりに知られるわけにはいかなかった。自分が苦しみたくないから……。

 佐伯は「秘密」について詳しくは語らなかった。しかし、祐樹はすっかりこのことだと信じ込んでいた。それで彼は佐伯の話を了承し、取引現場であるカフェへと向かったのだった。

 最寄り駅の近くにあるカフェに着くと、佐伯は紅茶を飲んで待っていた。促されて向かいのソファに座る。やがて祐樹が頼んだコーヒーが届くと、佐伯はバッグの中からあるものを取り出し、テーブルの上に置いた。

「これ、ボイスレコーダー」

「……え?」

「今まで君と会って話したときのね。ああ、今は録音していないから安心して」

 佐伯は微笑んでいた。そして次はスマホを取り出し、画面を向けた。

「で、これは写真。君が例のコスプレイヤーと仲良く話してるところだね。この背景……ホテルかな?」

「え、どうして……」

 佐伯は表情を変えず続けた。

「君はもう少し周りに気を付けた方がいい。それと、友達は選ぶことだね」

 わけがわからなかった。目の前の男は本当にあの佐伯なのか。優しくて親切で、尊敬していた先輩……。

 祐樹は写真を凝視した。ただの偶然にすぎない。それが事実でも、そう見えてしまう証拠を彼は持っている……。

 そして佐伯は画面をスワイプした。次の写真が現れる。――画面を見て、祐樹は絶句した。そこに写っていたのは、どこかの部屋で眠るひまりと……

「どう? 驚いた? 君ってば、てっきり僕を信用してくれていると思ってたのに、結構嘘を言ってたんだね。ひまりちゃんが全部教えてくれたよ」

「え……?」

「気立ての良い彼女って言ってたっけ? 嘘だよ。ひまりちゃんはもう君に気なんてない。そりゃそうだ。あんなに束縛するくせに、自分はこうして遊び呆けているんだから」

「いや、その写真は誤解で……」

「知ってるよ。でもひまりちゃんはそうは思わなかったみたいだ」

「見せたんですか⁉」

「不可抗力だよ」

 信じられない。佐伯さんに裏切られたこともまだ受け入れられないというのに……。

「それでね、彼女言ってたんだけど。もう君とは別れたいって。でも言いだせないし、この写真のことも僕に迷惑がかかるから言えないって。だからさ、坂本くん。君、彼女を振ってよ」

「……え?」

「わからない? 彼女は君と別れたいんだ。でも自分からは言いだせない。今君が彼女にしてやれることは、君から別れを切り出すことくらいじゃない?」

 佐伯は笑っていた。まるで自分が正義であると言わんばかりに。

 ――もう終わりだ。俺の負けだ。何も考えられない。考えたくない……。

「…………はい」

 まもなく、祐樹はそう返事をしていた。うつむいてかかった前髪の向こうで、佐伯がにやりと笑うのが見えた。彼の言葉には重みがあった。彼の発する全ての言葉が絶対的な意味を持つ気がしていた。祐樹に拒否権はなかったのだ。


 帰り際、佐伯は振り返って言った。

「ああ、秘密をばらすって言うのは、ひまりちゃんにじゃないよ。彼女はもう充分知っているからね。サークルのみんなにだ。彼らは噂好きだからなあ……広まったらもうここには居られないだろうし、確か君と同じ学科の子も結構いたよね。授業もきついだろうなあ」

 そう言ってにこにこしている佐伯は、夕陽があたってゾッとするほど美しかった。

 祐樹は黙って頭を下げて、佐伯の元を離れた。今日はひまりの誕生日プレゼントを探しに行く予定だった。でももう会うことすら許されない。冷静に考えたらわかったかもしれない。でも彼には平常心などとうになくなっていたのだ。


 次の日、祐樹は佐伯の約束を守り、ひまりに別れの連絡を入れた。ひまりは相変わらず優しかった。全て知っているとは思えないほどに。浮気をしたと思っている相手に向かって「悪くないよ」など、たとえ気づいていないふりでも言えるだろうか。――この画面の向こうにいるのは本当にひまりだろうか。いや……ひまりなのは確かだろう。しかし、ひまりが一人でいるとは限らない。隣には佐伯がいるのではないか。そして二人で画面を覗き、自分の様子を窺っているのではないか――。

 祐樹はたまらなくなって、最後の文章を打ち込んだ。隣に佐伯がいるのなら、否定しても状況が悪くなるだけだ。どうせもう会えない。それならせめて、自分と別れて良かったと、そうひまりが割り切れる終わりにしてやりたい。

 ――本当は気づくべきだったのだ。ひまりと佐伯のあの写真は偽物で、全て虚言だったということに。しかし、祐樹は洗脳されていた。初めて佐伯に身の上話をしたとき――いや……もっと前、ひまりとサークルの体験に来たときから、ずっと。

 送信を押すと、すぐに既読が付いた。返事が返ってくる前にすかさずブロックをする。

 これでもうさよならだ。楽しかったなあ……二人で色んな所に行った。この辺りで行ったことがないのはスカイツリーくらいか。ひまりの誕生日に行こうと思っていたのになあ。

 自室のベッドの上で手をかざすと、薬指のシルバーの指輪が無情に光った。もうしばらくは外せそうにない。今さっき自分が送った文字列を、意味もなく反芻していた。全て嘘である、その言葉たちを……。

 ――浮気したこと、反省しています。ごめんなさい。

 自分はいったい、どこで間違ったのだろうか。


     *


 石崎卓矢は、同期の佐伯と共に一年生の練習に付き合っていた。彼らももう入会して半年。一年生だけでもある程度形になってきており、成長を感じる日々である。

 石崎の直属の後輩は五人いる。中でも熱心なのが坂本祐樹だった。こういう機会にいないのは珍しいと思いながらも、他の子たちに目をやる。

 佐伯は相変わらず宮沢ひまりを見ていた。ひまりは佐伯の班の後輩で、石崎の班で一番が祐樹なら、佐伯の班ではひまりというような、いわゆる優等生だった。石崎もひまりと話すことはあるが、絵に描いたような良い子だと思う。

 佐伯は頭の良い子が好きだった。昔からそうだった。自分もそうだからかもしれないが、理論的で冷静な人に惹かれるらしい。

 それにしても、最近の彼はどこかおかしい。どこがと言われると説明はできないが、どこか……。

 最近彼は、知りもしないゲームイベントに行ってきたらしい。理由を訊いても「秘密」としか言わず、「恥ずかしいから絶対人には言わないで」と言う。

 それから、最近彼は画像編集を始めた。サークルが代替わりしてすぐに仕事に取りかかれるよう、チラシを作る練習だと言って色んな画像を作っているらしい。試しに見せてもらったことがあるが、なかなかの腕前だった。去年の文化祭でやむなく欠席した会員を、空いている場所にあたかも存在しているかのように合成していた。「プロになれるよ」と石崎が言うと、佐伯は「そんなに社会は甘くないよ」と笑っていた。

 一年生の練習が終わり、ちらほら夕飯の話が出始めた。今年の一年生は仲が良い。石崎は、佐伯と割り勘で一年生たちに夕飯を奢るつもりでいた。しかし、大学を出るとき、佐伯が言った。

「じゃあ、僕とひまりちゃんはこれで帰るよ。ちょっと用事があってね」

 思わず言葉に詰まった。佐伯の笑顔とひまりの困ったような顔を交互に見る。

「……おう、また来週な」

 ――他にかける言葉がなかった。なにか不穏なものがまとわりつくような感覚……。

 佐伯は軽く手を振って、ひまりと共に先に歩いて行った。残された一年生たちがざわついている。

「ひまりって、祐樹と付き合ってたよね。何かあったのかな」

「祐樹って結構佐伯さんと仲良いじゃん? 何かそういう相談とかじゃない?」

 いや――違う。佐伯はそんなことをする奴じゃない。そもそもあいつはひまりを狙っている。俺にはわかる。それから祐樹のことも良く思っていない。あいつは嫌いな奴の前だと一層笑みが増すんだ。祐樹と話すときのあいつは見たことないほど笑顔なんだ――。

 石崎は、鳥居の中に消えていく二人の背中を見つめた。通学路にあるあの神社は、縁結びの神社だったか。たまに佐伯が一人でお参りしているのを見かけることがあった。通学路だし特別気に留めることもなかったが、もしかすると彼は、あいつは、何かとんでもないことを企んでいるのではないか。――いや、もう遅いのか。

 何にせよ、石崎には現状をどうする手もなかった。――そもそも何も起きていないのだ。特別何もなく、平穏な日常が流れている。

 一年生の一人が肩を叩いた。

「石崎さん、飯行きましょうよ。俺いつものラーメンがいいっす」

「あ……ああ。今日は何人だ? 一、二、三、四、五……すまん、さすがに半額負担にしてくれ」

「自分で払いますよ。石崎さん無料トッピング券持ってましたよね」

「なんだそれが目的か。じゃあ、行くか」

 石崎は後輩七人を引き連れて、大学裏手の坂を下って行った。あえて神社は通らなかった。何となく、行ってはいけない気がしていたから。

 後ろに騒がしい話し声を聞きながら、石崎は祐樹のことを考えていた。本来ここに居るはずの彼。日中のサークルだって、無断欠席なんてするはずもないのに。


 ――石崎が祐樹から退会の旨を聞かされたのは、その夜のことだった。

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