第229.3話 ヤメ
――――気持ち悪い。
彼女はそう言った。
それはどうしてと尋ねたら、また気持ち悪いとだけ言われた。結局彼女はハッキリとした理由を言わないまま、軽蔑の眼差しを吐き捨てるように逸らし、足早に離れて行った。
彼女とはもう二度と会えない。最悪の後味。でも、そういう反応が絶対にないと思えるほど自分を過信してもいなかったから、失望のどん底に沈んだりはしなかった。
けれど、心残りはある。
気持ち悪いと言われた事に、どうして反論しなかったんだろう。
出来ない事もなかった。自分が間違った事をしているなんて、これっぽっちも思ってないから。
だけど、その背中を今でも思い出す自分の心の奥底には、やっぱり何かが間違ってるんじゃないかって疑念もあって。
もしそれが本当なら、きっとそれは絶望なんだと思う。
絶望っていうのは、軽い言葉じゃない。
もう絶対に何があってもどうしようもない、終わりの言葉。
奇跡にサヨナラするお別れの言葉。
葬式のような言葉だ。
そういうものがもし、この心の中にいるのだとしたら。
自分が全て悪くて、これから先も呪われたような道しかないのだとしたら。
きっともう、この世界に自分の居場所はないんだろう。
悲しいほど楽観的に、そんな事を考えていた。
「ギルドマスターってさぁ、性欲どう処理してんの?」
――――とある昼下がり。
営業を終えて帰ってきたギルド内にはヤメ一人しかいなかった。その時から嫌な予感はしていた。してたんだよ。なんかコイツって二人になると凄く変な事言い出しそうなんだもん。案の定だよチクショウ。
「……そこ触れるか? 普通」
「やー、だってギルドマスターさぁ、よくベンザブとかパブロのオッサン勢に娼館誘われてるのに全然行かないじゃん? どうしてんのって思うワケよ。もしかしてギルドの誰かを愛人にしてんじゃね? とか思うワケよ」
思うなよ。気持ちはわかるけど。
実際、ウチは結構女性の比率が高いギルドだ。もし俺が外部からこのアインシュレイル城下町ギルドを評価する立場だったら、絶対に怪しむだろう。ここのギルマスやってんなって。
「で、やってんの? 誰コマしてんの? もしシキちゃんだったらこの場でクチャってするから素直に言っちゃいなよ☆」
「ファジーに殺害予告すんな。誰もコマしてねぇよ。トップが部下に手ぇ出した時点でその組織は終わりだよ」
厳密にはギルマスとギルド員は上司と部下の関係じゃない。ギルドは会社じゃないからな。強いて言えば社長と、その会社と業務提携している個人事業者との関係に近い。何にしても、逆らえない立場の人間を相手にエロい事を強要するのはクズ中のクズだ。そんな人間がトップの組織に未来はない。
「じゃあ、どう処理してんのさ。こっそり一人で通ってんの?」
「借金のある身で娼館なんて通えるか。っていうか、忙し過ぎてそんなん気にしてる余裕ねーよ」
それは半分真実で、半分嘘だった。
実際、こう見えて俺はかなり忙しい。ギルド員の一日の行動をしっかり把握して、問題があるかどうかを判定した上で必要な奴に声掛けしなきゃならないし、営業と人脈作りの為に毎日歩き回る必要もある。会社と違って営業部なんてないからな。
ただ、忙しいから性欲が溜まらないなんて事はない。当たり前だけど。そして、この20歳の肉体は当然のように性欲旺盛。今まさに最盛期だ。
でも中身の俺は30越えたオッサンな訳で、人間30過ぎると性への意欲もそこそこ落ちてくる。少なくとも20代の頃のような、とにかくもう何でも良いからそういう事がしたい、みたいなガムシャラさはない。
特に俺は虚無の時間が長過ぎたから、枯れるのも早かったんだろう。エロいシチュエーションに興奮する事はあっても、それを求めて行動に起こすほどのアグレッシブさはいつの間にか消えてしまった。大学生の頃は意味もなく真夜中に出歩いて夜の公園を散歩してみたもんだけど。
そしてもう一つ。俺には性的な行為に関して思い出したくない過去がある。だからエロの優先順位は相当低い。
「いやいやー、そんなんじゃ誤魔化されないっしょ。ちょっとローブの胸元がユルめなソーサラーがいたらガン見してるの知ってんだけどぉ?」
「何ィィィ!? なんでバレた!? メッチャ周囲の視線気にしながら見てるのに!」
「甘っちょろいぜムッツリマスター! ヤメちゃんにかかればテメーのすっ惚けなんて軽~く見抜けるんだぞ☆ 如何にも興味ありませんよって顔でチラ見してる時のダセー顔ったらないね! ギャハハハハ!」
ぐっ……まさかバレてるとは。これだからヤメは侮れない。隙あらば人の痛い所突いてくるよな……コイツ。
「で、どうなの。正直に話してみ?」
「……仕方ない。これは内緒だからな? もしお前以外の誰かがこの話をしてたら、お前がバラしたと断定して二度とシキさんと仕事できないシフトにしてやる」
「うわぁ最低だコイツ! 人の弱味につけ込むの超うめぇ!」
暫しヤメと睨み合う。すると先に折れたのはヤメの方だった。
「わーったわーった。絶対言わなーい。ヤメちゃんこう見えてぇ、マジの時はマジだからさ」
「絶対だぞ? 絶対だからな?」
一応、ギルマスなんだからギルド員を全面的に信頼はしている。というか、しなきゃ仕事にならん。だからここで俺に『信じない』って選択肢はない。秘密を明かすのも、ヤメの不信感を払拭する必要があるからだ。なんだかんだ、居て貰わないと困る人材だからな。
「……実は初体験の時に失敗して、それがトラウマになってんだよ」
「え、マジ? 何やらかしたん? 立ちくらみ系? フライング系? 迷子系? それとも単純に性癖ヤバい系?」
「……やり過ぎた系」
「ヒャハハハハハ! こいつヤッバ! やってんねぇ! 今日からギルドマスターのこと悲しき野獣って呼んで良い?」
「やめろマジで。それに、そういう感じじゃなくてテンパッた末に手順いろいろ間違えたとか、そっち系だから」
「あー、そっちかぁ。まーそういうの嫌う女多いよねー。初々しいって取るか、見苦しいって取るかの二択なんだけど」
まさに、その時に相手して貰ったプロの方は『見苦しい』という目で見ていましたね。あの目は一生忘れられないな……
「そんな訳で、性欲はあるけど性行為に関しては恐怖の方が勝ってガツガツいけないんだよ。マジで無理」
「なーんだ。悲しきヘタレマスターだったんだー」
「それもやめて。っていうか性遍歴を渾名にするって人類史上最悪の仕打ちじゃね?」
「アハハハハハ! だよねー!」
無邪気に笑いやがって。一生引きずるレベルのトラウマだってのに。
でもまあ、割とアッサリ話せたな。無駄にプライドの高い俺の事だから、転生してなきゃ他人に言う事は永遠になかっただろう。何処か昔の自分を他人事のように思える今だからこそ、こんなふうに過去の失敗を暴露できるのかもしれない。
「ま、誰にでもイヤーな過去の一つや二つあらーね」
「ヤメにもあるのか? 既に恥ずかしい設定幾つも抱えてるけど」
「おい設定言うな嬲り殺しにすっぞ☆」
言葉のチョイスよ。嬲り殺しって殺人鬼とか悪魔しか使わないセリフじゃん。
「……恥ずかしい過去、ってほどでもないけどさ。あ、これから言うのヤメちゃんの独り言ね。勝手に聞くのは良いけど質問には一切答えねーので。弁えろよ?」
「はいはい」
こっちも根掘り葉掘り聞こうとは思ってない。ただの雑談。ギルド員との親睦を深める為の、ちょっとした秘密の共有だ。
「ヤメちゃんはこー見えて、子供の頃は良いトコのお嬢様でねー。見ての通り超カワイイから、そりゃもーチヤホヤされまくってたんですわ」
「へー」
「でもある日、親が殺されてさー」
急にヘビィだな! そんな軽いノリで言うなよこっちの感情がおっつかねぇよ!
「ま、しょうがないんだけどさ。子供心にもあの親は狂ってたし。なんか呼吸してるだけで税金とる、みたいな事言い出してたもんねー」
……ん? 何処かで聞いた事ある話のような……
「まーそういうクズ領主だったから、殺されて当たり前だったんだけどさー。親が死んだらお家はサクッと崩壊。それまでヤメちゃん達の面倒見てた使用人とか、御機嫌取ってた太鼓持ち連中はサーッといなくなって、気付いたらヤメちゃんと妹の二人だけ残してみーんな去っちった」
「え? 母親も?」
「そいつ真っ先に男作って消えた」
軽いノリで地獄みたいな話すんな。要は捨てられたって事じゃねーか。
「そんなワケで、妹を食わせていかなきゃいけなかったから、子供の頃の夢は諦めなきゃなーってなって」
「夢って何?」
「女優」
……ビックリ。全然予想してなかった。
「家が金持ちだったから、演劇の舞台見る機会結構あってねー。ドハマリしちゃったワケよ。モンスターに食われて死んだけど生き返って仲間を助ける悲しきゾンビの話とか、好きな人の眼球を手に入れなきゃ生き返れない幽霊の話とか」
後味悪いだけの伏線回収やめろ! あの謎設定の数々にそんな意味あったのかよ! もうネタに出来ねーじゃん!
「あとは、妹の為に頑張って仕事して、最後に死んじゃう姉の話とか」
「縁起悪っ! そんなフラグ立てんなよ!」
「しゃーねーじゃん事実だもんよ。その劇を観てなかったら、多分頑張れてなかっただろーしさぁ」
……意外過ぎる過去。ヤメってそんな苦労人だったのか。
「ま、ラッキーな事に魔法の才能あったから、割と真っ当な稼ぎ方できたけどねー。でも新米がソーサラーギルドで稼ぐにはさ、先輩の皆々様から仕事かっ攫わなきゃダメなんだよね。そりゃもう顰蹙買った買った」
「事情を話せば仕事回して貰えたんじゃないのか? ティシエラならそれくらいの便宜図るだろ」
「女ばっかの職場はそんな甘くねーの。家の事情で頑張ってるのはヤメちゃんだけじゃないしねー」
成程。同情を買うような事を言えば、逆にイビられる構図になってんのか。怖いなあ……
「それでも、最初の頃は結構強引にやってたんだけどね。そのツケで、まぁ悪評流される流される。それがお得意先にも知られちゃって、向こうからお断りの連絡来てさー。ちょっと厳しーって感じになってたんよ」
「だから俺の勧誘にあんな直ぐ乗ったのか」
「渡りに船ってね。流石のヤメちゃんも、ちょーっとヤバいなコレって感じだったから」
「ティシエラに助けは……」
「求めたら応えちゃうじゃん、ティッシは。ギルドがムチャクチャになっちゃうよ」
……なんだかんだ、そういう空気は読めるんだよな、ヤメは。だから彼女がティシエラを頼らなかったのは、なんとなく想像がついた。
「大体そんな感じ。つーか質問すんなっつったのにフツーにしてくんなよ」
「普通に答えてたクセして今更言われてもな。で、妹さんは元気してんの?」
「入院中。治るか治らないかわかんない病気でさ。昔からずっとそんな感じ」
「……」
「ちっとはヤメちゃんを見直したかい?」
「ああ。凄いなお前」
「ま、全部嘘なんだけど」
「凄いなお前!」
「本当は、ソーサラーギルドの気に入ったコを食いまくった所為で悪評流れたんだよねー」
「なんかもう全部凄いな!」
「オチも付いたんで帰りまーす。良い時間つぶしになっただろー? じゃねー」
終始ユルい空気のまま、ヤメは笑顔で手を振ってギルドを出て行った。
でも、この建物の中に残っているのは俺一人じゃない。多分。
「シキさん」
気配は消していても俺には関係ない。どうせ感じ取れないんだから。だから呼ぶ。いれば応えてくれるし、いなけりゃただの独り言だ。
「……何?」
やっぱりいたか。いると思ったんだよな。大抵俺かヤメの近くにいるし。
「今の話、聞いてた?」
「盗み聞きを怒ってるの?」
「いや、過去にもう聞いてたかって意味」
「……本人からは聞いてないよ」
正直だなあ、シキさんは。つまり調べて知ってはいた、って事か。
「これは独り言だけど」
「ウチのギルド、独り言流行ってんねえ」
「あの子は子供の頃からあんな感じみたいでね。母親からは相当嫌われてたってさ。だから、捨てられたのは自分の所為だって思ってるフシがある。妹まで道連れにしてしまったって罪悪感を引きずってるのかも」
考え過ぎ、とは思わない。ヤメはきっとそういう奴だ。
「でも意外。隊長に話すとは思わなかった」
「きっと、シキさんはもう知ってるって気付いてるな。俺にはまあ、仕事回せ報酬上げろってメッセージを込めての吐露なんだろうけど」
「それだけじゃないよ」
珍しく、シキさんが強い口調で否定してきた。
「心の強いヤツに限って、自分が本当に困ってた時に受けた恩は絶対忘れないからさ。隊長がいる限り、オネットをどうこうもしないと思うよ」
「オネットさんを恨んでるとも思えないけどね」
「ま、ね。あんなデタラメな市政じゃどのみちクーデターが起こって、下手したら一族皆殺しにされてただろうし」
そのシキさんの見解が正解だと思う。そしてヤメも、そう結論付けているだろう。
でも、人の心はそう簡単に割り切れない。もしかしたら、ウチのギルドに入ったのはオネットさん目当てだったのかもしれない。
誰が悪いとも言えないし、誰の味方も出来ない。ハッキリ言えるのは、ウチのギルドに入った以上、仲間同士の対立なんて御法度。守れなきゃクビだ。それを抑止力とする以外にない。ま、恐らくそれ以外にも抑止力はあるんだろうけど。
「シキさんがヤメに甘い理由がなんとなくわかったよ」
「別に甘くした覚えはないけど。向こうがやけに絡んでくるから、適当に相手してるだけ」
「へいへい」
「何そのムカつく顔。嬲り殺しにされたいの?」
「……仲良いね、ホント」
オチも付いたし、俺も帰るか。っつってもここが家なんだけど。
それにしてもこのギルド、結構良いメンツが揃ったもんだよな。これも人徳かな。
「で、隊長」
「何?」
「結局、持て余してる性欲はどうしてるの?」
「えぇぇ……」
やたら下ネタと重い話が多い一日だった。
――――演じるのは楽だ。
自分を曝け出さなかったら、例え傷付いても何処か俯瞰してその傷口を眺められる。こういうキャラクターだからこう思われても仕方ない、こんな事言われても当然だって予防線を張れる。
何かを演じている時は、自分を安全圏へ避難させられる。夢中になっている時間だけは色んな事が忘れられる。望まれて生まれた訳じゃないとか、いつか金持ち仲間の家に売られてしまうとか、そういう現実も。
でも結局、好きな事って仕事には出来ないもので。それを誰の所為にもしたくなかったから、頑張って頑張って頑張った。だって妹は何も悪くなくて、順番が違えば床に伏せていたのはこっちの方だったんだから。
なのに気を抜くと、それしかない人生に絶望して。恨み言の一つでも言ってしまうと、それが全部真実になるような気がして。
適度に憂さ晴らしをしておかないと破綻しそうだったから、言葉遣いを変えて、キャラを作って、結構ムチャクチャやった。
『アンタがこのギルドの品位を下げてるの! わからない!? 気持ち悪いのよアンタ! みんなだって、ティシエラ様だってそう思ってるから!』
だから因果応報ってのも仕方ないって割り切れてたんだけど、この言葉だけは刺さっちった。同じ事を子供の頃、毎日のように言われてたもんなぁ。
まあ気持ち悪いのは事実だし? そういうキャラ作りしてるから当然だし? なーんて思ってはみても……結局、素だった頃の自分の記憶ってのは中々上書き出来ないんだなってわかった。正論って怖っ。どんな中傷よりも毒だねこれ。
さーて、どうしましょっか。居場所がないのなら、違う所に行かなくちゃ。自分で居場所を作れる力はないし、ここでくたばる訳にもいかない。ま、金を稼ぐ方法は一つや二つじゃないし? 効率を考えたらもっと良い職業は幾らでもあるよね。若い内じゃないとダメな仕事も多いけど。ならいっそ、そっちに行っちまうか――――
『ところでヤメ、ウチのギルドに来ない?」』
『ん? いーよ行く行く』
そう考えていた矢先だったのに、即答しちった自分にビックリ。思ってたよりずっとこの仕事が好きで、魔法を使える自分に誇りを持ってたって気付いたのは、この時だった。
ソーサラーギルドに比べたら規模は小さいし、出来たばっかの弱小ギルド。頼りないギルドマスターに、中途半端な戦力。安定した仕事が得られるとは思えないような職場だ。
許せ妹よ。多分、このギルドにいるより娼館とかで働いた方がずっと稼げるのはわかってんの。でもお姉ちゃんは迷わずこっち選んじゃった。
『でもヤメが上手くフォローしてたよね。後方から指示出しもして』
『ヤメちゃん的にはシキちゃんがMVPかなー。戦い長引いてもパパッて次のヒーラー見つけてくれて』
『私はコレットに助けられた。レベル78はやっぱ半端ないね』
『ちっとはヤメちゃんを見直したかい?』
『ああ。凄いなお前』
……こんな世界にも、自分の居場所があるって知っちまったモンだからさ。
楽観的な性格だからね、仕方ないね。大丈夫、治療費はここでだって稼げる。多分。運が良ければ。なんとかなるなる。
「ふあぁ~あ」
眠い。帰って寝るべ。
「お休みリーナ。また明日」
外に出るともう真っ暗。夜風がちべたい。もうそんな季節かい。寒いの苦手なのにヤだねー。
さ、明日も頑張るぞ☆
妹の為に頑張る優しくてカッケー自分を、一日でも長く演じる為に。
それがヤメちゃんの夢だから。
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