第2話

「最期は見る影もなかったが」

 夜も更けたダイナーの一角で始まった〈タイニー・ドックを語ろうの会〉。ぼくたちの他には居眠りをしているか酔い潰れている客だけ。ウィークリーの口上で会は始まった。

「打ち切りだなんていう無惨な目に合ったが」ウィークリーは続ける。「あいつは今もおれたちの――」ウィークリーは握り拳を作り、自分の胸を叩いた。「ここに生きている」

 今から八年前のことだ。子犬が主役の教育番組があった。

 両目を覆う透明なグラススクリーンを被ると景色は一変し、傍らにはタイニー・ドックと呼ばれるジャックラッセルテリアが現れる。視聴者は名を持たぬタイニー・ドックの飼い主になって、隔週配信される物語を体験し、道徳を学び、愛を育み、勇気を獲得した。

 六年間続いたその番組は配信期間が幼少期と重なるぼくたちの世代にとって、神話に等しかった。古代の人たちが神を生きる標にしたように、ぼくたちはタイニー・ドックの進む先に人間としての在るべき姿を見出す。

「ぼくは犬の世話をする仕事をしてるんだけど――」

 ウィークリーはにやけ面で口を挟んだ。「犬好きが講じてか」

 いい年して、まだ子供の頃の思い出に縋ってるのか。仕事選びのときに周りからそう詰られたぼくは、反射的に薄ら笑いで誤魔化そうとした。

「なんだよ。やりたくてやってることなら誇れよ!」

 ウィークリーにそう言われて、ぼくは頷いた。

「ああ、そうだ。夢のような仕事に就いてる。だけど、向いてないみたいでね。世話を任された犬を五、六匹ほど、まとめて散歩に連れて行くんだが、帰ってくる頃には一、二匹ほどいない」

「逃げちまうのか?」

「預けられるのは、問題児ばかりだから」釈明もまた、習慣だった。「だけど今回は、おかげで君たちに会えた」

 ウィークリーと知り合ったのは犬の散歩の途中。絡まった六匹分のリードを解いていると、一匹が道沿いの民家に駆け出した。騒々しさに好奇心を惹かれたんだろう。庭先ではガレージセールが開かれていて、人だかりがあった。逃げ出した犬を捕まえたぼくは、テーブルに懐かしいものが置かれているのに気づいた。古びたグラスモニター。ぼくが幼かった頃は、どの親もみんな自分の息子や娘にこれを買い与えていた。

「お目が高い」声の主がウィークリーだ。無精髭を生やした、細身の色白な男。「だけど、それは売り物じゃない」

 ウィークリーは品定めするみたいに、ぼくが連れている犬、それからぼくの顔へと視線を移す。店主はお前だろう? と、吠える犬をぼくは宥める。

「タイニー・ドックを見るやつだろう、それ」

「覚えているのか」

「大好きな番組さ。アーカイブだって全部揃えた」

 ぼくの話にウィークリーは目を輝かせた。

「実はここだけの話なんだが」

 言いながらウィークリーは、ぼくに顔を寄せた。ぼくは思わず距離を取ろうとするが、肩を掴まれ引き寄せられた。

「実はこれは、ただのガレージセールじゃないんだ。これはある種のシカケだ。脈所は――」

 ウィークリーはグラスモニターを取った。

「こいつだ」

 首を傾げるぼくの脇で、犬が……犬たちが鼻を鳴らす。ウィークリーの口からはケチャップとマスタードの匂いがした。

「タイニー・ドックだよ」

 ウィークリーは自分が結成したっていうコミュニティの話を始めた。それが、〈タイニー・ドッグを語ろうの会〉だ。大部分はガレージセールを始める前からの面子なんだそうだ。

「集まりが悪いんだ。アバターの内側を見せたがらなかったり、他の用事で後回しにされたり」

 だから〈タイニー・ドッグを語ろうの会〉を拡大するために、ウィークリーはあの手この手で定期的にメンバーを補充しているらしい。

 ウィークリーは芝居がかった身振りを混ぜて続けた。

「近頃じゃ、好きなものに本気で熱意を注ぐ奴は少ない。みんな、情熱を忘れちまおうとしているようにさえ見えるよ。おれは嫌だね。そんな風には生きられない」

 ウィークリーの言うことに頷くように、ぼくが連れていた犬の一匹が一鳴きした。

「お前も、そう思うか」

 彼は本物だ。本当にタイニー・ドッグを愛している。口振りだけじゃない。ぼくが連れている犬に向ける目。あれは、タイニー・ドッグの物語を通して愛を学んだ者だけが持つ慈愛の目だ。ぼくの犬たちも、それを見抜いている。信用できる相手だぞ。他人の趣味に優劣をつけるような男じゃないって。

「本物の人生には、好きなものを好きだと言い合う場が必要なんだ。そうでなければ、どうやって自分を保つつもりだ?」

 その問いに、ぼくは後ろめたさを覚えた。

 ぼくはどうだ?

 ぼくのタイニー・ドッグへの愛だって本物だ。負けているつもりはない。だが、どうだ。日頃の自分はどうだ。タイニー・ドッグへの愛情は、どこに発揮されている?

 就寝前に壁一面を占めるアーカイブの一覧の前に立ち、自分のコレクションの完全性を確認するだけがぼくの情熱か? 日々の忙しさにかまけて番組を見返すことはおろか、タイニー・ドッグの名前を最後に口にしたのはいつのことだったのかさえ思い出せない。

 好きなくせに。

 タイニー・ドッグを好きなくせに。

「お前はどうだ」

 ウィークリーはぼくを追求する。タイニー・ドッグをどれだけ愛している?

 ぼくは犬を見る。傍らの犬を。後ろで行儀良く待っている犬を。ガレージセールの客が連れてきた子供にちょっかいを出されて困惑している犬を。ぼくの生活は、犬と共にあった。タイニー・ドッグから始まり、そして、タイニー・ドッグが終わったあとも。名残を追って、犬と触れ合える仕事を見つけた。

自分なりに最善を尽くしている。犬、犬じゃない。今は犬のことはどうでもいい。タイニー・ドッグについて、ぼくは何をやってきた?

「おれたちは、おれたちの言葉で愛を語るんだ」ウィークリーは白い歯を見せて笑った。「どうだ。お前も」

 犬が吠える。

――信じてみろよ。

 犬が吠える。

――打ち明けてみろよ。

 年甲斐のない趣味だって、卑下するな。他人の価値観に倣って、自分の情熱を自分で貶めるのか?

 犬が吠える。

 ぼくは頷いた。

 そしてぼくは〈タイニー・ドッグを語ろうの会〉の会合の席で、緊張しながら自分の番を待っている。他人の誹謗から守るために、胸の奥底に隠してきた自分を打ち明ける。その順番を。

「お前は?」

 他の面々がタイニー・ドッグの思い出を語り終えると、ウィークリーはぼくに順を振った。

「お前はどうだ?」

「ぼくにとってタイニー・ドッグは……恩人だ」人じゃないぞ、と突っ込まれるのを期待したが、反応はない。「人じゃないが」

 ぼくに集まる視線は真剣で、誰も笑わなかった。

「ぼくは本当の親に会ったことがない。拾われたんだ」

 ぼくに注目していた面々が顔に悲しみを浮かべる。途端にぼくは恥ずかしくなった。

「続きを聞かせてくれ」と一人に話を急かされて、ぼくは続きを語る。

「拾われた先には本当の息子がいた。血は繋がっているが、あの世に逝った息子が。代わりにしたかったんだろうと思う。……あいつらには理想があった。円満な家庭ってやつさ。仲睦まじいだけじゃない。暮らし振りは町の平均よりもワンランク上で、近所に家族を紹介するとき……それぞれが自慢できるエピソードを持っているみたいな。そういう家庭だ」

「シットコムの題材みたいだな」

 ウィークリーに茶化され、ぼくは愛想笑いで返す。

「男は弁護士で、女はシステムエンジニアだった。大物の弁護を任されたことがあるだとか。インフラの自動化事業に加わっただとか。自慢の種は山ほどあった」

 こういうときは、話題の相手の顔が思い浮かぶものなんだろうが、ぼくは不思議とそれができない。代わりに描くのは犬の顔だ。スーツを着た犬。一方はドーベルマンで、もう一方はトイプードルだ。

「……だけど、息子が死んだ。交通事故だってさ。息子を亡くしたこと自体が、彼らにとっては一つの汚点だった。失敗や挫折なら美談にできたが、子供に先立たれるのは、ただの不幸だ。不幸は何にも発展しないうえに今後に一生つきまとう。素晴らしい家庭ね。でも、あそこの家、不幸があったの。憐憫の目を向けられたら贅沢な暮らしも、誰もが羨むキャリアも台無しだ」

「だから、お前が息子の代わりに?」

「そういう思惑があったんだろう。ぼくには死んだ息子の代わりなんてできなかったが」

 ぼくは同席している連中に見えるよう背中を向けて、上着を捲った。

「ぼくに死んだ息子を演じさせようとしたが、駄目だった。ギャップから生まれたフラストレーションは、暴力に変わっていった」

 ぼくの頭の中で、ドーベルマンが吠える。

「なんだ、そのしみったれた顔は。もう少し行儀良くできないのか。怒鳴りながら父親代わりの男はぼくを殴りつけた」

 ぼくの頭の中で、トイプードルが吠える。

「また部屋を汚して。母親代わりの女はぼくに首輪をつけて家中を引きずり回した。暴力も日常的になると、殴られることも疑問に思えなくなる。それでも、殴られたいわけじゃない。そこで、頭を使う。学校からの帰りを遅らせるんだ。帰りが遅ければ、遅いぞとぶん殴られるが、家に帰るまでは無事でいられる。早く帰れば家にいる間、思いがけない些細なことで何度もぶん殴られる。算数の問題だ。どちらの方がマシか」

 ぼくが姿勢を戻すと目を合わせ辛く思ったのか、他のメンバーは伏目がちになった。

「飼ってやってるんだ。それが連中の大義名分ってやつ。家族になれなかったぼくは犬みたいに扱いだった。子供にしてみれば、家と学校が世界の全てだろう? だけど、ぼくには家族がなかった。役立たずだ。愛される価値がない存在だ。だから、ぶん殴られる。ぼくは困惑した。どうして誰も愛してくれない?」

 答えてくれる人は誰もいなかった。まあ、ぼくの方も、彼らから納得のいく答えが返ってくるなんて期待はしてないが。

「そこを救ってくれたのが、タイニー・ドッグなんだ。彼だけが、ぼくを愛してくれた。こんなぼくでも生き抜く方法を教えてくれたんだ」

 言い終えると、隣に座っていた男がぼくの肩を叩いた。

「話してくれて、ありがとう」

 なんだか、診療セミナーみたいな空気になってしまい、バツが悪く思えたぼくは気を取り直す。

「実は自慢したいものがあるんだ」

 神妙な面持ちで、膝に乗せた鞄に手を突っ込んだ。ぼくは含み笑いを浮かべ、周囲の期待を煽る。全員の視線が鞄に集まったのを確認してから、中身を取り出す。

「余程のコレクションなんだろうな」

 ぼくの掌に乗ったケースを見て、ウィークリーが言う。

「いいや、残念だが物じゃない。……思い出みたいなもんだ。実は……。実は公募に投稿したことがあるんだ。あっただろう? タイニー・ドッグの打ち切りが発表された半年前に。優秀な作品は本編に採用されたうえに、収録現場を見学できるってやつ」

〈タイニー・ドッグを語ろうの会〉の面々は互いに顔を見合わせた。覚えがないって顔つきだ。まあ、仕方ない。世間を騒がせるほどのキャンペーンではなかったから。

「テコ入れの、あれか」

 ウィークリーが言うと、他の連中が口を挟んだ。

「ああ、あれか。確かにあった」

「採用されたんだ。その……家の都合で収録現場には行けなかったけど」

「本当か!」

「凄いじゃないか!」

 次々にかけられる予想外の賞賛に、ぼくは面食らう。家族に同じことを話しても感動に共感してもらえず、教室で自慢してもクラスメイトは誰だお前って顔でぼくを眺めてるだけだった。だけど、ここでは――ぼくを見る彼らの目は――英雄に向ける眼差しそのものだ。

 犬が吠える。彼らは最高の仲間だろう?

 ぼくは照れ臭くなって目を逸らす。窓の外で歩道を駆けていく子犬を見つけた。ぼくは思い出す。言うべきことがまだある。ウィークリーたちが盛り上がる中、何度か口を開きかけるが、ぼくの言葉を挟み込む余地はなく、何時の間にか話題は変わり、言いたいことを切り出す機を失ってしまった。

 話に偽りがあるわけじゃない。ただ、続きがあるんだ。ぼくのタイニー・ドッグのエピソードは、アーカイブの一覧には実在しないってこと。どこを探しても、ぼくのタイニー・ドッグはいない。

 採用の通知文章が記念グッズと共に送られてきた。それっきり。ぼくが思い描いたタイニー・ドッグの話が形になる前に制作会社が倒産した。だから、ぼくが応募した話は、投稿者のぼくでさえ見たことがない。

 大丈夫。愛想笑いを浮かべて、ぼくは会話に加わる。大丈夫。全ては本当のことなんだから。

 それに、日の目を見ることがなかった話だが、ぼくの中では終わってない。タイニー・ドッグは続いている。

 足元で子犬が吠えた。窓の外で見たのと同じ子犬が、ぼくと床に転がる食べ散らかしを見比べる。ぼくは頷く。

「どうした?」

 ぼくの視線を追って、ウィークリーが床を見た。

「いや……犬が」

「犬? いないぞ」

「模様……。模様が、そう見えたんだ」

 ウィークリーは床よりもぼくの方を見て「そうか」と返し、また仲間と会話を始めた。子犬は先ほどから変わらず床に落ちた食い散らかしを貪っている。ぼくは慌てて子犬を『小屋』に放り込む。

「それで、お前も力を貸してくれるだろう?」

 ウィークリーが言う。不意の質問にぼくは返事に困った。

「なんだよ。聞いてなかったのか?」と他の奴。

 別の男が引き継ぐ。「計画があるんだ」

「計画?」

 ぼくが首を傾げると、ぼく以外がにやけた面でウィークリーを見た。

 ウィークリーはテーブルに身を乗り出し、それからこう言った。

「タイニー・ドッグを復活させるんだ」

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