書生と流行病と

阿部善

書生と流行病と

 普段のこの街は本当にうるさい。行き交う人々の雑踏ざっとう、話し声、喧嘩けんか牛馬ぎゅうばごえ、新しい物好きの金持ちが乗り回す『自動車じどうしゃ』とやらが発する音。けれども、どれも最近は少なくなった。路面電車の警笛けいてきが、はっきりと聞こえる位に、少なくなったのだ。当たり前だ、流行病はやりやまいを前に、みんな萎縮いしゅくしているのだ。そのおかげで、こんなボロい下宿げしゅくに居ながらにして、音を気にせずに本を読んだり、学問にいそしんだり出来る訳だが……だがそれが何だか寂しくもある。


(こいつら、全員流行病にかかって死ねば良いのに)

 そんな不謹慎ふきんしん妄想もうそうをしながら、僕は新聞しんぶんを見つめる。欧州おうしゅう戦禍せんかほのおに包み込んだ、あの大戦争。講和こうわ会議かいぎがフランスのヴェルサイユで開かれているようなのだが……。これで平和になる気はしないな。ウェルズは言った、これは『戦争を終わらせる為の戦争』だと。でも、僕はそうは思わない。こう言う欲にまみれた連中が、世界各国を牛耳ぎゅうじ続ける限り、戦争は無くならないだろう! フン、見て見るが良い、三十年もしない内に、また同じような戦争が起こるだろう、ハッハッハ!

 ………なんて妄想もうそうをした所で、何か生産的せいさんてきなものに繋がるか、そう言われれば、断じて『いな』だ。妄想は何も生み出さない。やめよう……。

 僕は今、外に出たくないという気持ちで一杯いっぱいだ。外に出て歩かなければ、身体からだなまる、気分が滅入めいる、心がすたれる。けれども外に出たくない、街ではスペイン風邪かぜなる流行病が猖獗しょうけつを極めているのだ。とても恐ろしい病で、高熱こうねつせきが出て、藻掻もがき苦しみ、高確率こうかくりつで死に至る。とんでもない病だ。だから僕は外へ出たくない。では何をすれば良い? もう本もきた、芝居しばい映画えいがには危なくて行きたくない。では、妄想しか無い? いや、妄想を、ある物へ昇華しょうかさせる方法があるぞ! そうだ、小説だ。引き出しから原稿げんこう用紙ようしを取り出し、万年筆まんねんひつを握り、小説をつづっていく。誰かが読むか? 誰も読まないだろう。だがそれで良い、良いんだ。僕の満足いくものでさえあれば。


支那しな風邪かぜ


 題名だいめいは、これだ。遠い遠い、百年後の世。支那で流行病が発生せり。この時代よりも遥かに科学かがくが発達した時代、飛行機ひこうき縦横無尽じゅうおうむじんに世界の空をけ、地には自動車がい、カラー写真が当たり前。そんな時代。支那で発生した流行病は、上海シャンハイ租界そかいの人々や、支那人の苦力クーリーを乗せた飛行機や自動車が世界中をめぐる事により、あっと言う間に爆発的に広まっていく。沢山の人が死に…………

 ダメだな、面白くない。人が沢山死ぬウイルスなんて、百年後に人々は打ち勝っていなければ……いなければ、困る、困るんだ! 百年後の人なら、絶対に勝てる、そう信じるんだ!

 じゃあ、こう書き加えておこうか。この時代、人々はあらゆる病気に打ち勝った、だから支那風邪など、最初から……では話が成り立たぬ!

 はあっ、ため息以外の何も出ない。僕には小説の才能さいのうなど、一片いっぺんも持ち合わせていないのだろうなぁ……。

 今まで書いた原稿用紙は全て捨てた。書こうと思う気力も失せてしまった。やっぱり外に出て、芝居とか、映画とかに行きたい。嗚呼ああ、いつになれば安心して外に出られるのか? 寒い一月、僕のため息は真っ白だった。

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