それは白い雪のように

広咲瞑

第1話「秘密基地事変」

 木枯らしに背を押された真冬の雲が水色の空を泳いでいる。くすんだ色味のアスファルトを二つの足音が並んで歩く。二十代半ばの男と女。電信柱を通り過ぎ、古びた一軒家の錆びた門とその向こうで空になった犬小屋を横目に見た。立ち上る息が白く消える。風に流れたマフラーが竜の尾のように靡く。足音と風の音と、それ以外は無言の時間。

 目的地はすぐ目の前に見えていた。

「懐かしいね」

 微かな声。手袋をした両手が寒そうに重ねられている。彼は頷きながら携帯電話を開く。新着メールが一件届いている。


 ―――


 12月の風はこの街の木という木をすっかり枯らしてしまった。辛うじて薄い緑を残した銀杏の葉が積み重なり、舗装された歩道やむき出しの地面を覆い隠す。スニーカーが銀杏の実を踏んだ。少しだけ柔らかい。感触から想起されたイメージで平野孝一は笑う。

「コウ、お前何ニヤニヤしてんの」

 右隣を歩く後藤靖が言う。変声期には数年早い高めの声。おまえに言われたくないよと孝一は思う。彼も同じように笑っている。左隣の村木雅巳も同じ顔だ。

 そこにいる三人が全員そうだった。

 その笑い方が、秘密を共有する者達の連帯の証拠だった。

 足早に彼らが向かって行くのは廃墟のような公園だ。赤く錆びたブランコ、小人の国に作られたようなジャングルジム、萎れた花の並んだ花壇、まるで雪のような落ち葉の絨毯……。彼ら以外に人の気配はなかった。雀の声が稀に聞こえる程度だ。

 三人は公園の隅に建つ小屋へと急ぐ。そこには最早使われなくなった掃除用具と、彼らの宝物を隠してある。


 蝶番の壊れたドアをどけて三人は中へ。

 竹箒と塗装の剥げたちり取りと用途の分からない木箱が無数に積まれている。木箱のうちの一つに恭しい手付きで触れ、蓋を開いた。

 その表情が一変する。

 三人は俄に慌て始め、そこら中の木箱を開き始めた。舞い上がる埃に目が霞み喉をやられて咳き込み始めてもその動きは止まらなかった。やがて最後の木箱を開き、中が空であることを痛切な思いで確認した後、彼らは叫ぶ。

「どういうことだ」

 絶望に満ちた声で。

「オレたちのエロ本がない!」


「ふふふふふ……」

 後ろから笑い声がした。孝一たちは愕然として振り返った。聞き覚えのある声だったからだ。

 小屋の入り口で逆行になる位置に二人の少女が立っている。一人は後ろに控えるように、もう一人は威厳に溢れる仁王立ちだ。

「ごきげんよう、男子諸君」

 仁王様が口を開く。銀縁の眼鏡がわずかに光るのが見える。男子のようなショートカット、黒と赤のチェックのスカート、上はタートルネックのセーター。

「出た……ET……」

「ETって言うな! あったかいんじゃ!」

 垣野内智美は声を荒らげる。おもむろに人差し指を近付けようとしたが折られそうなので止める。

 渾名のきっかけは些細な不幸だった。前日の夜のテレビでスピルバーグの映画が流れ、クラス内での視聴率が50パーセントを超えた翌日、登校してきた智美の服装がたまたま茶色いタートルネックだった、それだけのこと。

 もっとも彼女をETと呼んでいるのは孝一だけである。

「何しに来たの、こんなところに」

 雅巳は笑顔を浮かべて二人に聞いた。孝一には相当に無理のある笑顔に見えた。だが女子連中としては特に思うこともないようだった。

「ええとね、ちょっと、村木くんたちに伝言……」

 智美の隣で一歩引いたような位置に立っていた少女、小野瑠璃が口を開く。

「うん、何」

 全員が瑠璃の姿を注視する。彼女は声が小さいので集中しないと聞き取れないのだ。

 その瞬間に空気が変わった――ように思えた。

 瑠璃は前に出した右足を軸に、腕を振りながら回転した。21.5cmの靴底が落ち葉の死骸を粉砕する。剣のような風切り音と共に右腕が水平に伸ばされる。コンマ三秒のウェイトを効かせた後に右手はピースサインを形作り、額に当て、外連味たっぷりのポーズがそこに顕現。

「『うわははは、おまえ達の大事な本は預かった! 返して欲しくば今日の午後2時に5年2組の教室まで来い! by美少女怪盗マユミアンドマイ!』」

 ドン引きの時間が流れる。

 遠くの木の上で雀が飛んだ。

 瑠璃はポーズを崩し、忘れてくださいと言いたげな具合に智美の影に隠れてしまった。

「っていう、伝言でした……」

 彼女は演劇部。

「うむ、よくやった瑠璃。褒めてつかわす」

「やめてよ、わたしだって恥ずかしいんだからっ……」

 しばらくいいこいいこした後、彼女は孝一たちに背を向ける。

「そういうことで伝言は伝えました。来るか来ないかはあんたたち次第ってことで」

「理不尽だぞ」

「言っておきますが」智美は銀縁の眼鏡を態とらしく直しながら言う、「あなたたちに選択権はないと思ってる。あの本のこと全部川田に報告してもいいのよ」

 川田とは彼らの担任のことだ。孝一の顔が青ざめる。想像してみたのだ。朝のホームルームは急遽会議の時間になる。三人が前に並ばされる、クラス全員の白けた視線が自分を射る、川田が黒板に議題を書く――議題、『スケベトリオの弾劾裁判』。

「俺からも伝言頼む。美少女怪盗に」

 立ち去ろうとする二人を靖が呼び止めた。「なに?」と智美が振り返る。靖は真顔で言った。

「鼻毛出てるぞって真剣な顔で言っといてくれ」

「……うん、気が向いたら」

 苦笑しながら智美はひらひら手を振った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る