緘黙

アヤメ

第1話 マキコの緘黙

私はいつも場面緘黙を起こす。

その場面になると、息が漏れるだけで声帯が震えることも音を出そうという努力も意識から消えてしまう。どうしてその時、私はいつも緘黙を起こすのか。わからない。言葉が出ないというわけでもない。何度も何度もその場面を想定してシミュレーションをしているし、その場面になる直前までは甘美だと褒められる低くてけだるい声が出ているのだから。

過去のトラウマを探ってみたこともあった。25歳の誕生日だった。はじめてのお給料で精神科を受診してカウンセリングを受けたのだ。良い記念にはなったけれど、トラウマはなかったと自己判断した。

私はいつもその場面になると声を失う。そう、言葉を失うわけではないのだ。まるで「黙れ」とその場の空気が私の声帯を止めてしまうような、そんなことを漠然と思っている。私は何でも理由を知りたがる。だから今はこの緘黙の理由を探している。四六時中。

私には好きな人がいる。どこへ行っても見つける彼はナイキの赤いスニーカーを履いている。だから私はいつも下を向いて歩いている。下を向いていれば赤いスニーカーにぶつかって、顔をあげれば彼かもしれないから。彼に会えるのはいつも偶然で、彼には完璧なルーティンがないから、私はいつも彼がいそうなカフェを巡礼している。彼に会うといろんなことがうまくいった。止まっていたことが一気に動くのは彼に会った時だ。私はそんなゲン担ぎまでするようになった。彼の名前は今も知らない。会った時に声をかけようと思っても勇気が出ない。あの場面のように、緘黙を起こす。あの鋭い目がパソコンの株式市況を追っているかと思うとどうしても声がかけられない。邪魔をしたくなかった。見ているだけで幸せといえるほど私はおとなしい女性でもないが、私がカフェに来た時に場を離れられるような痛みを想像すればただ黙ってその場で眺めていることが得策だとしか思えない。

緘黙の理由を探しつつ、カフェで探している。それが私の日常だ。友達がいないことはないけれど、どこへ行ってもいないことにしている。家族がいないわけではないけれど、どこへ行っても詳しく話さないことにしている。それはその緘黙が克服できる可能性を残しておきたいからだった。

私はいつも寂しそうな顔をしていると男は言う。私にとって男というのは私に恋をしている男のことで、その他の性別オスに関しては視界に入ってきても殻をかぶって氷の矢で目を射抜いて殺してしまう。面倒なことはすごく嫌いだから。そう、昔から優しいと言われれば私は絶望した。本当の私は私と神が知っているから、優しいと言われれば神にまた懺悔をしなければならないからだ。

私の緘黙は決して弱いからではない。面倒だからなのかもしれない。もしかしたら記憶から抹消しているのかもしれない、その場面の記憶を。だから、トラウマも見当たらないのかもしれない。

今日も私は彼に会えなかった。彼にあえないと緘黙も治らない気がする。なぜだろう。なぜだろう…。

彼のナイキの赤いスニーカーを追っていつも隣駅まで時間を決めていく。彼のいいところは一人でいるところだ。いつもひとりで飄々と…、いや、違う、やはり彼も氷の目で他人を射抜いて殺しているように見えた。その孤高ぶりが何よりもかっこよかった。まるで狼みたいだ。彼の氷の視線で私は射抜かれたことがない。殺されたことがない。私を見ると彼は途端に作業ができなくなってしまう。ただ、その他と同じように彼は私を愛してもいないようだ。そこがたまらなかった。私は愛されたくなかった。ただ、追っていたかった。私の魅力をかけらも感じず、ただ自分の道をまい進している男が好きだった。声をかけても気を引こうと緘黙を装っても、すべて無視するような、そんな男が好きだった。ただ、私が恥も見栄も外聞も捨てて、「あなたが好きなの!お願い!いっしょにいたいの…!!!!!」とすがった時に、共にいることを許してくれるような、そんな男が良かった。そして、彼にはその才能があるような気がした。優しい男が好きだ。だから緘黙を装って私は男を計る。気持ちとは裏腹に計算の上で気を引くようなバカな女に対してどう思っているか、私は計る。優しい男ならそんなバカな女にはかかわろうとしないだろうから。本当に優しい男なら自分を愛する女性を見極めるだろうから。私は女から嫌われることも男を計る道具にしている。女に嫌われれば男の本質が見えやすい。女に嫌われているこの身でもなお緘黙を馬鹿な女だと切り捨てられる男、そんな優しい男を今日も私は場面緘黙症という病の中で探している。だから、そう、今日も彼に話しかけられることを待っている。終わりのない片思いを今日も続けている。

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