第11話 陰陽師なるいきもの
どろりと淀む大気の中、真っ白い肌を持つ若い女が目を開けた。
金に近いとび色の目が、闇を射抜くように天井へと向けられる。
そこからそろりと降りてきたのは、一匹の蜘蛛だった。
「仕損じたか」
「そうらしい。五体も式神を抱えておきながら、女一人傷つけられぬとは」
「我が弟はどうしようもない阿呆だが、人を害することにかけては長けている。誰ぞ加勢したか」
「ああ。川の神の成れの果てが一体、それから縁切り屋の青磁が一体」
「縁切り屋」
おうむ返しに言った女は、喉の奥でくつ、くつと耳障りな笑い声を立てた。
「あの哀れな小雀か! あれの主――野見山七生は忌々しい男だった。戦争でおっ死んでくれてせいせいしたわ」
「笑っている場合か。主が死んだのになぜ式神が生きている」
「さあ? 家に紐づいているのだろ。どうでもよいわ、さえずることしか能のない三流式神よ」
「だが弟御はそう思ってはおらなんだ」
蜘蛛は優雅に糸を垂らして、女の前に着地する。その姿が、骨ばった男の姿へと変じた。
青白い肌に、ビー玉のような大きな瞳。貴種めいた品の良さを持ちながら、どこかうらぶれた、幽鬼めいた気迫のある式神だった。
「弟御はお怒りだ。玉木薫ごとあの周りの連中を一掃するつもりでいるらしい」
「ふう……ん。まああれが怒っていない時などないからな。別段珍しいことでもないが、まあ、此度は少しばかり力を貸してやろうか」
悪戯っぽく笑った女は、懐から水晶玉を取り出した。
手のひらに収まってしまうほどのそれは、黒い煙のようなもので満たされている。玉を転がすと、その煙もゆらり、ゆらりと蠢いた。
「弟のことは死ぬほど嫌いだが、一つだけ評価できるところは、その潔癖症なところだ。恥をかかされても、その相手を殺してしまえば、恥をかいた事実はなかったことになる」
「殺すのか」
「さて? この玉――
愛おしむというにはあまりにも粘ついた手つきで、剥離糾を撫でる女。蜘蛛は主のその姿をただじっと見つめている。
「さ、行け」
蜘蛛は女から玉を受け取ると、闇の中に姿を消していった。
*
*
*
「あれ、小夜子? ……うん、あれ、今日も来ないの? うん、分かったけど……。体調が悪いんなら、ちゃんと病院に行ってね。うん、ちゃんとノートは届けるから」
電話を切ったひよりは、はふうとため息をつく。
今日も隣の席は空席だ。最近、友人の小夜子の様子が少しおかしかった。
何だか疲れているような、イライラしているような、そんな感じなのだ。距離を置かれている。ひよりだけではなく、他の学部の友人にも同じ態度らしい。
「何にもないと良いんだけどなあ」
他人に見せることを意識して、いつもよりもしっかりノートを取る。
普段たくさん話してくれる小夜子がいないと、なんだか拍子抜けだった。元気が出ないというか、何と言うか。
煮え切らないまま今日の授業を終え、大学を出ると、誰かに声をかけられた。
「ひよりちゃん!」
薫だ。しかもその後ろには、あの水の神さまもいる。
彼はデニムに大学名入りのスウェットというカジュアルな格好なのだが、それがやけに似合っている。やはり元々持っている素材が違うからか。
「薫さんと、プールの神さま」
「な、なんかそれ、トイレの神さまっぽくて嫌だな……。便宜上、霧生って名前をつけたから、それで呼んでくれる?」
「霧生さん……それは昔川だった頃の名前とかなんですか?」
「あ、いや、その時読んでた漫画から」
「二人って昔は恋人同士、っていうか夫婦だったんですよね!? それでいいんですかね!?」
「あ、ひよりちゃんも分かってたんだ。そうらしいね、なんか。でも聞いてみたら酷いんだよ、前世は霧生が先に死んじゃって、私を置いてったんだって! 私、二十代の若さで未亡人だよ未亡人! まったくもう」
薫の物言いは、照れ隠しというわけではなさそうだ。薫さんってほんとうにすごい、と感心しているひよりに、霧生が尋ねた。
「そなたの周りで、最近なにか妙なことは起こらなかったか」
「妙なこと?」
「ちょっと霧生、いきなりそんなこと聞いたってひよりちゃんも答えづらいでしょ。私から話すね」
姉さん女房的な仕切りを見せつつ、薫が説明したことを要約すると。
どうやら、薫にあの式神たちを放った連中が、満足していないらしいということだった。
*
帰宅したひよりは、薫の話を青磁にそのまま伝えた。
「つまり、連中が私たちに逆恨みをしている可能性があると? おかしなことを言う。あの式神たちに手を下したのはその霧生とやらではないですか」
渋茶をすすりながら、いかにも迷惑そうな顔をして言う青磁。
さすがのひよりもこれには突っ込まざるを得ない。
「青磁さんも、あのはさみで普通に式神の頭ちょん切ってませんでしたっけ?」
「当然です。あれだけ権能のあるはさみを持っておきながら、縁の糸を切るしか能がありませんなんて、そんなことあるはずないでしょう」
「いやだからつまり、青磁さんも狙われる理由があるってことですよね! っていうかあれ、結構由緒正しいはさみだったり……?」
「由緒正しくはありませんが、七生の曾祖父の曾祖父の曾祖父が、切れの悪いはさみを使って仕事をしている妻を見かねて打ったはさみですから、権能というか執念というか、そういったものならあります」
「優しい旦那さんだったんですねえ。っていうか、そんな昔からあるんだ……」
ん? と考え込むひより。
「ってことは、青磁さんはそんな昔からうちの式神なんですか!」
「ああいえ、はさみと私の誕生は必ずしも同一ではありません。少なくとも私が縁切り屋を始めたのは、七生の頃からですし」
「ふうん? じゃあはさみが先にうちにあって、それを青磁さんが譲り受けた?」
「ええ。縁があったのです。……私のことはいい、続きを早く言いなさい」
話が脱線したのは青磁のせいではなかったか、と思いつつひよりは先を進める。
「薫さんに式神を派遣した人たち――この人たちは、薫さんに直接恨みがあるわけじゃなくて、依頼されただけみたいなんですけど――は、どうやら青磁さんと私にも目をつけたみたいで。呪いを送ってくる可能性があるって、霧生さんが言ってました」
「呪い? ……まあ、式神の反魂をされれば、向こうの矜持はずたずたでしょうから、想像がつかないこともないですが」
「そういうものですか」
「陰陽師とは、子どものような生き物ですから。誇り高く、敗北を許容できない。自分が丹精込めた式神を反魂させられるのには、我慢ならなかったんでしょうね」
「反魂って、殺すってことであってます?」
「はい。縁を切ってから反魂したので、人間の方に危害は及んでいないはずなのですが」
青磁曰く、縁が繋がっている――契約状態の式神が反魂されると、その使い手にも少なからず影響が及ぶのだと言う。
それを避けるため、青磁は縁を切ってから霧生に退治させたのだ。
その心遣いがあだになってしまったということか。
ひよりは少しだけ歯がゆく思う。自分が七生のように強い陰陽師だったら、こんなに悩まなくても済んだかもしれない。
「だが、それで呪いとは穏やかではない。それがもしお前に及ぶようなことがあれば、私は……」
目を細める青磁。憂いを帯びたその表情に、少しだけどきりとする。
「分かりました。少し警備を強化することにします。石蕗にも伝えておきましょう。美味いものを作りなさい」
「は、はいっ」
*
パセリを大量に刻んでいると、おや、という声が後ろから聞こえた。
「またあのサーモンパイか?」
石蕗だ。すんすんと鼻を鳴らしている。
「今日はコロッケにしようかと。ひき肉とパセリだけの簡単なものですけど」
「青っぽい味が好きなのか、君は? まあいい、なんでも君、狙われているとかいうじゃないか。君のような昼行灯が狙われるなど、世も末だな」
「はあ」
ひよりはいつもと変わらない返事をしたつもりだった。だが石蕗は少し顔をしかめて、
「なんだなんだその生気のない返事は? そんなんじゃ陰陽師の格好の的になるだけだぞ。連中は弱い人間から狙うからね」
「私は弱いですか」
「強くはないだろ? 訓練を受けているわけでもないしな」
「私のひいおじいちゃん……七生は、強かったんでしょうか」
石蕗はひよりの首筋に触れる。
青磁が契約の印として刻んだ椿の模様。七生のものは桜の模様だったという。
「七生は、陰陽師としてはいい腕を持っていたが、壊滅的に世渡りが下手だった。いいか、壊滅的にだ。組織で動くのに最も向いていないのに、その最も向いていない役割を担わされた」
「……青磁さんと初めて会った時に、式神特攻計画っていう言葉を口にしてたんです。それと何か関係がありますか」
石蕗の顔が微かに歪む。苦い思い出をうっかり取り出してしまった、という表情だ。
「そうだな。俺は人間の馬鹿なところは結構気に入っているが、あれはちっとも面白くない、最悪の発想だった。要するに、弱い式神を相手に差し向け、最小限の力で殺そうとしたわけだ」
例えば、疾風程度の姿しか持たない式神でも、階段で敵兵の足下をふらつかせれば、階段から落として怪我をさせることもできるだろう。死に至ることだってある。
そのために陰陽師たちに、ありったけの式神を差し出させようとした。
その結果がどうなったかは、ひよりたち後世の人間が、一番よく知っているだろう。
「問題は、そういった計画をぶち上げてきた軍の人間に、七生は真っ向から反対してしまったことだ」
『式神は戦争の道具ではない。全ての式神を差し出し、あたら消滅させてしまえば、この国は滅びるであろう』
そう言って七生は、式神を差し出すことを拒否した。
直情的な人間の多い軍隊に対して、真正面から刃向かえば、それなりの制裁をされる。
それに思い至らなかったのか。
あるいは自分がそうなることを覚悟して、七生は抵抗したのか。
いずれにせよ言うことを聞かない七生を、軍部は嫌った。だから陰陽師であるはずの彼を、最前線に送ったのだ。
そして七生は戦死した。若い妻、生まれたばかりの子ども、そして井戸の中に封じ込めた青磁を遺して。
「でも、軍部の人たちに刃向かえるだけの力はあったんですよね」
それがどれだけ凄いことか、いつも人の言うことに従ってしあうひよりには分かる。
前からこうなっているから、こういう決まりだから、この人が言ったから、上の決定だから。
そう言ってなされる決定に疑いを挟む者はなく、足並みを乱せば嫌われる。組織の中で、既に決まっていることを覆すのは、とても難しいことだ。
「ひいおじいちゃんは強かったんだなぁ」
ちょっぴり裏切られたような気分だった。同じのんき者だと聞いているのに、自分だけが何にもできない未熟者だ。
「七生が強い、ねえ。事実なんだろうが、口にすると不思議な感覚だよ。いつもぼんやり道を歩いて、犬の糞を踏んでは、青磁に怒られていたからな」
石蕗はちらりとひよりを見る。コロッケをぺちぺちと丸めている姿に精気はない。
「だがその強さは、あの性質にあった」
「性質?」
「皆があれの前ではつい気を緩めてしまう。愚痴をこぼしたり、悩みを呟いたりな。そして七生はそれを見逃さず、手を差し伸べた。誰彼構わず、時に恨まれようとも」
「……やっぱり、強いです」
「そして七生とそっくりのお前は、その素地を持っている。柳の葉の風にそよぐ様を、弱いと嘲るか、しなやかだと感じ入るか。そういうことだな」
形を整えたコロッケを揚げる準備に入る。ひよりはフライパンに注いだ油をじいっと見つめていた。
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