19-2 最後の時間
「美邑」
呼ばれて振り返ると、朱金丸がそこにいた。形の整った眉を珍しく寄せ、美邑を凝視している。
「なんで、こんな早く」
おそらく、変化のことを言っているのだろう。美邑はほっと顔がゆるむのを隠しきれないまま「たぶん」と言葉を続けた。
「昊千代さん、かな。昨日、あのあと会って。今日の夕方には迎えに来るって言ってた」
「あの阿呆が……」
そう呟く朱金丸の顔は、怒っているようでもなく、力なく溜め息をついた。それをぼんやりと見つめてから、美邑は空を仰いだ。白い雲はくっきりと陰影を描き、あの雲に飛び乗ったら気持ち良さそうだなんて、全く関係ないことを思う。
「美邑」
「はい」
ほんの数秒の夢想。現実に返り、朱金丸の顔を見るが、果たして今が本当に現実なのかという気分にもなる。
「……大丈夫か?」
「なにがですか?」
唐突な質問に首を傾げると、朱金丸は「あんなに嫌がっていただろ」と、自分の頬を撫でる。
「鬼に成りたくないと」
「でも、成っちゃいましたし。どうしようもないこと、なんでしょう?」
「それに」と、美邑は周囲を見回した。
「鬼に成って……ちょっと、外見が変わったって、あたしはあたしだって分かったし。ただ、誰とも話せないのも気づいてもらえないのも悲しいから。だったら、朱金丸さんたちと一緒にいた方が、気持ちが楽です」
美邑の言葉に、朱金丸はなにも言わなかった。ただ拝殿を指差し、「あそこに」と呟くような声で言う。
「日暮れ前に来い。それまでは、好きにしろ」
「好きに、って?」
今一つ意味が呑み込めず、美邑が問い返すが、「そのままの意味だ」と返事は素っ気ない。
「日の昇りと日の入る時刻に、鏡が扉の役目を果たす。その時が来れば、貴様を『裏側』へ連れて行く。だからそれまでに、こちらの世界へ別れを告げるなりすると良い」
言うなり、朱金丸はすたすたと歩き出してしまった。
「ちょっと……朱金丸さんっ」
呼びかけても、振り返りすらしない朱金丸に、美邑は上げかけた手を降ろした。所在なく、周囲を見渡す。
(こっちとしては、もういろいろ、諦めてきたつもりなのに)
今更、「別れを」と言われても、困ってしまう。
仕方なく、美邑はとことこと拝殿の方へと向かった。玉砂利を裸足で踏んでも痛くないのは、鬼だからなのか――どうでも良いことだが、少し便利だななどと思う。
拝殿の階段に腰かけ、ぼうっとする。本当に、それ以外することもなく、遺された数時間の存在が苦痛で仕方ない。
今頃。両親は、美邑の不在に気がついただろうか? 病院に行くのを嫌って、逃げ出したと思っているだろうか。このまま美邑が見つからなければ、きっと警察へ行ったり探し回ったりと、大変なことになるだろう。せめて、置手紙でも残せば良かっただろうか。
(今からでも戻って、書いた方が良いかなぁ……)
だが、一体なんと書いたら良いのだろう。上手い言葉が思いつくわけもなく、ただまたぼんやりと時間を消費する。
(朱金丸さん、一人にしないって言ってたくせに)
夢の中での言葉を思い出し、美邑は眉を寄せた。やはり、夢は夢でしかなかったのだろう。
段々と、太陽が高くなっていく。もうすぐ、理玖も学校に行く時間だろう。改めてその姿を見るのは、ちょっとだけ辛いかもしれない。
場所を移動しようかと、視線をさ迷わせた、その先に。
「朱金丸さん」
緋色の着物。その後ろ姿が、いつの間にか目の前にあった。それにほっとする自分に気づき、美邑はかえって刺々しく「なんですか」と声をかけた。
「さっきは、好きにしろって言っておいて。今度はなんの用です?」
美邑の声に、朱金丸が振り返った――そう、思ったのだが。
(あれ……?)
その顔は、確かに朱金丸のようだが、しかし決定的に違った。頬に、例の精緻な刺青がない。また、目の端がいつもよりつんと尖り、ほんのりと笑みを浮かべている。
「えっと……誰、ですか?」
額には、角が一本ある。ということは、やはり鬼なのだろうが。
その鬼は笑みを深くすると、そのままゆっくり歩き出した。美邑がぽかんとそれを見ていると、一度振り返り、小首を傾げてくる。
(えっと……ついてこいって、こと?)
どういうつもりか分からないが、果たしてついていって良いものだろうか。全く見知らぬ鬼になんて――。
「……ま、いっか」
そもそも、美邑自身も既に鬼なのだ。それに、今更なにかあったところで、どうでも良いではないか。もう、人間ですらなくなってしまったのだ。これ以上、どうにかなるものか。
「分かった。行く」
捨て鉢な気分で立ち上がり、美邑はその後を歩き始めた。鬼も、満足したように頷き、また歩く。
鬼は、境内の奥へと向かっていた。舞殿の渡り廊下の下を歩いていると、既視感を覚える。
「あの……森に行くの?」
鬼は振り返ると、にこりと笑った。それが返事のつもりなのか、無言で歩き続けるその背中に、小さく息をつく。
案の定、森の中へと迷いなく入っていく鬼を見て、美邑はまだついていくべきか迷った。森の中で迷ったら、夕方までに戻ってこられるだろうか。
(でも……朱金丸さんも昊千代さんも、今まで頼んでもないのにあたしのいる場所まで来たし。だったら森の中で迷っても、気づいて迎えに来てくれるかな)
それくらい、甘えても良いだろうか。なにしろ、こっちは鬼になりたての後輩みたいなものだ。先輩を多少頼りにしても、バチはあたるまい。
(そうだよ。一人にしないって、言ってたんだから)
夢の中での朱金丸の台詞を、都合よく持ち出し、美邑は小さくなる鬼の背中を追いかけ、森に飛び込んだ。
振り返った鬼は、また一つ、にこりと笑った。
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