10-2 振り出しへ

 「仕方ないよ」と呟いたのは、モモだった。


 美邑の部屋に、モモが遊びに来るのは久しぶりだ。ベッドに腰かけながら、すっかりくつろいだ様子でいる。


 モモには、昨日あったことをすっかり話した。昊千代のこと、右目のこと、襲ってきたナラズのこと、朱金丸の言葉、そして――右目が再び元に戻ったこと。


 モモに話すことに、不安はなかった。両親よりも、こういうときに美邑の気持ちを理解してくれるのは、モモだという確信があった。

 案の定、モモは美邑の話を止めることも、笑い飛ばすこともなく、最後まで相槌を打ちながら聞いてくれた。



「お母さんとお父さんは、ミクちゃんのことが心配なんだし。だって二人から見たら、ミクちゃん高校入ったのに新しい友達も作んないで、わたしとばっか遊んでるし。大したこともないのに午前中で早退して、元気ない様子なんだもん。そりゃ、心配しない方がおかしいでしょ?」


「それは……そうかも、だけど」



 犬の顔が大きく印刷されたクッションを抱き締めながら、美邑はむぅと口をへの字に曲げた。



「だからって、病院……とか。大袈裟過ぎ」


「ミクちゃん、病院キライだもんね」



 クスクスと、楽しそうにモモが笑う。



「眼科とか歯医者さんとかなら、別に。でも、病院ってなんか暗いって言うか、イメージ良くないし」



 ぶつぶつと言い訳じみたことを言うも、モモに「はい、はい」とそれを流される。頬を膨らませた美邑は、手前のテーブルに置いてある饅頭をばくりと頬張った。



「……良いんじゃない? 夢ってことで」


「え?」



 急に話が戻され、美邑は急いで麦茶を煽った。大きな餡のかたまりが、喉を流れていく。

 モモはけろりとした顔で、美邑を見ていた。



「だからさ。全部、夢だったで良いんじゃない? 右目だって、今は見る限り普通だし」


「そうだけど……」



 モモにそう言われると、確かにそうなのかもしれない、という気になってくる。昨日までは、全てが夢だったかもしれないと思うのすら、現実と夢の境界がなくなるようで怖かったのに。



「結局それで、ミクちゃんの気持ちが楽になるなら、良いじゃない。怖いでしょ? 鬼に成るかも、だなんて。そんなの」


「う、うん……」



 怖い――その通りだ。

 自分が人間でなくなるのも、家族が家族でなくなってしまうのも、モモと一緒にいられなくなってしまうのも。


 夢だったならば。ここ数日のできごとが全て、なかったことになるのなら。そうすれば、昨日無くしてしまったと思った美邑の日常が、返ってくる。



「でも……モモも、見たよね? その、朱金丸……」


「見たけど。はじめに言ってたみたいに、ただの不審者かも。屋上から飛び降りたフリして、実はなんか仕掛けがあったりして」



 なんということにいように言うモモの言葉は、無茶苦茶なようだが、そもそも朱金丸が鬼だということの方が、ずっと荒唐無稽なのかもしれないと、美邑に思わせてくれる。



「ミクちゃんが鬼だなんだって言うのも、結局その朱金丸とか昊千代っていう、グルになってる二人でしょ? だったら、信じる必要ないじゃん。ただ二人の不審者に影響されて、変な夢見ちゃっただけかも」


「そう……かな」



 聞きながら、ぼんやりと頷きかける。もしそうだとしたら。もし、モモの言う通りだとしたら。



「――でも、駄目なんだ」


「ダメ?」



 美邑の言葉を、モモがおうむ返しに訊き返してくる。それに、こくりと首を縦に振る。



「モモがね。心配して、そう言ってくれるよは嬉しいけど。実際モモの言う通り、あたしすごく怖いし。全部、夢ってことにして忘れちゃえば……きっと、楽になれる」



 「でもそれじゃ駄目なんだ」と、美邑は繰り返した。



「夢なら夢で、ちゃんと確信したいし。万が一……本当のできごとだとしたら。どうするのが一番良いのか考えないと……いけないんだと、たぶん、思う」



 恐ろしいのは。

 もし、夢だと信じきって――いつか忘れた頃に、人でなくなってしまうこと。鬼どころか、ナラズのようなモノになってしまうこと。

 そんな不安を抱えながら、今後を生きていかなければいけないということ。

 それではいつまで経っても、日常は帰ってこない。



「これ以上、怖いことなんて、嫌だから。だからこそ、目や耳を塞いで知らないふりしてるのは、駄目なんだと思う」


「……そっか」



 モモが溜め息まじりに頷いた。



「ミクちゃんがそう言うなら、わたしも手伝わなきゃね」


「モモ……」



 やはり、モモは優しい。美邑の決意は、所詮「これ以上、怖いのは嫌だ」マイナスからのものでしかない。それを馬鹿にしたり否定したりせず、正面から受け止めてくれる。



「だから、モモのこと大好き」


「わたしもミクちゃんのことが一番だから、お互いさまね」



 くすりとモモが笑い、かと思えばすくりと立ち上がった。



「それじゃ、行こうか」


「行くって……どこに?」



 きょとんとする美邑に、モモはほんの少し眉を寄せながら、しかしきっぱりと言った。



「こういうのは、最初におかしなことがあったとこに行くのがセオリーってものでしょ」



 言われて思い出すのは、朱金丸が「迎えに来た」と現れた屋上だ。あのとき、美邑の日常が突然、壊された思いがしたものだ。



「でも、今日は学校休みだし」



 「校舎に入れないよ」と言う美邑に、「違う、違う」とモモが首を振った。



「ミクちゃんの話だと、もっと前にあったでしょ。えっと……朱金丸? に、初めて会った場所」



 首を傾げながら、美邑は考え込んだ。朱金丸と初めて会話をしたのは、確かにがっちりの屋上だったはずだが――


 はっとした顔になる美邑に、モモがにやりと笑った。



「行くよ。鏡戸神社に」

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