第19話 暗い幻影

「ったく。俺に黙って消えやがって、また家出か?」


 親父はのろのろと歩み寄ってくると、俺のえりをつかみ上げた。


「黙りこくってんじゃねえぞ、コラ。さっさと俺にわびやがれ」

「な、なんで……」


 俺が口を開いた瞬間――


 親父の拳が、俺の顔面にめり込んだ。

 強烈な一撃にふっ飛ばされ、背中から地面に倒れる。そんな目にあってもなお、俺は頭が真っ白のままだった。

 親父は俺を蔑むように見下ろしながら、ボキボキと肩や指の骨を鳴らす。


「誰がくちいていいって言ったんだ? クソガキ」

「…………」


 黙るなと言ったり、口を利くなと言ったり、言ってることがめちゃくちゃだ。

 そう頭ではわかっていても、俺はなにも反論できなかった。


 ――どのみち、なにをしたって親父には殴られる。


 諦めを超えた倦怠けんたいのようなものが、俺の全身に鈍くまとわつく。

 殴られた頬と鼻はじんじんと痛むし、地面に打った背中もきしむように痛い。

 だが、この程度はまだ序の口ですらないことを、俺は十二分に知っていた。


 腕や脚を折られる。酒瓶で殴られ、頭から出血する。暇つぶしのためだけに、一日中サンドバッグにされる。そんなのは日常茶飯事だった。

 全身に刷り込まれた激しい苦痛、胃の中身を全部ぶちまけたくなるような気持ち悪さ、胸をかきむしりたくなるようなストレス――それらが一瞬でフラッシュバックして、俺の身体は反射的に降伏しているようだった。

 無論、降伏したところで親父の攻撃が止むことはない。


 だが――頭を抱えてうずくまっていれば、やり過ごすことくらいはできる。


 これは天災のようなものだ。自分では選びようもなく、避けようもない災厄。

 生まれた時から当たり前のように付き合ってきた、持病のようなもの。

 をナイフ如きでどうにかしようとしていたなんて、俺もどうかしていたようだ。


 俺が諦めたのを悟ったのか、親父は俺に馬乗りになって殴り続けながら、罵倒の言葉を吐き続けてくる。


「おいっ、このっ、クソガキがっ! 俺を見捨ててどこに行こうとしてやがった!? てめえを育てるために、いくら金を使ったと思う!? お前にゃ、その金をきっちり返してもらわなきゃならねえんだよっ!」

「…………」

「だいたい、お前みたいなガキがどこに行けるってんだ!? どうせ行き着く先も、こことゴミ溜めだよ! 拾ってくれるやつがいたところで、俺以下のクソ野郎に決まってる! それとも、売女ばいたにでも騙されたか? お前みたいなクズ、誰かに必要とされるわけねえだろ! もてあそばれてるだけなんだよ、この大バカ野郎がっ!」


 ――今、こいつはなんて言った?


 頭が急速にクリアになる。倦怠に支配されていた身体に怒りが浸透し、全身に活力がみなぎる。

 絶え間ない殴打を全身に浴びながら、俺はかろうじて声を上げた。


「…………が、う」

「あ? なんか言ったか?」

「…………違う……って、言ったんだよ。クソ親父」


 俺の言葉に、親父の顔から表情がなくなる。

 はは。こりゃ、相当ブチ切れてるな。


 ――だが、知ったことか。

 こうなったら、言いたいことを全部言ってやる。


「俺は、あんたとは違う。俺には信じてくれるやつがいる。望んでくれるやつが……心の底から必要としてくれるやつがいる。だから……あんたのようには絶対にならない」

「世間知らずのガキが……それが騙されてるって言うんだよ。いいからお前は、黙って俺に従ってればいいんだ!」

「いい加減見苦しいんだよ、クソ親父! なんでもかんでも、俺に全部ぶつけてきやがって……あんたの言ってることは、全部あんた自身のことだろ!? 売女に騙されて弄ばれて、ガキまで作ったってのに、金持って逃げられた……どうせそんなところじゃねえのかよっ!?」

「……死にてえのか、クソガキ」

「やってみろよ、クソ親父」


 親父の拳が、俺の顔面に炸裂さくれつする。

 同時に、俺はポケットから取り出したナイフで、親父の腹を刺していた。


 だが――親父は顔色ひとつ変えずに、俺に拳を振り下ろし続ける。

 俺はとっさに片腕でガードしながら、もう片方の手で親父の傷口をナイフでえぐった。


「そんなもんが効くとでも思ったか、クソガキ」

「…………っ!」


 その反応で、俺はようやく理解した。

 この空間は、まぼろしだ。


 ――『闇魔法』は相手の視界を塞いだり、影と影の空間をつないで移動したり、精神攻撃や幻覚を見せたり……トリッキーな魔法が多かったですね。


 アトリが以前、『闇魔法』について説明してくれたのを思い出す。


 この三六〇度真っ黒な空間は、闇魔法で生み出された幻だ。実際に暗闇で覆われたのではなく、俺の感覚自体が狂わされていたのだ。

 ドッペルゲンガーのスキルには、スキルレベル5の『闇魔法』があった。

 それでどこまでできるのかは知らないが、この空間を作り出す手段はそれ以外には思いつかなかった。


 そう考えると、親父がここにいるのも納得がいく。

 親父が異世界に召喚されるとも思えないし、仮にそうだとしてもこのタイミングで現れるのはどう考えても不自然だ。

 おそらく、ドッペルゲンガーは恐怖を増幅させるような幻覚を見せる『闇魔法』を発動させ、俺の深層意識が「自分にとっての恐怖の象徴」である親父を駆り出してきたのだろう。

 生身の人間ではないからこそ、ナイフでえぐられようとも眉一つ動かさずにいられるのだ。


 そして――俺の怒りが恐怖を上回ったせいで、幻覚の親父のも心なしか勢いを失っているのだ。


「そうとわかりゃあ、あんたなんて微塵も怖くないぜ」

「なんだと……?」


 親父がドスの利いた声で言ってくるが、俺は完全に無視して思考を巡らせる。


 眼の前の親父は、幻覚だ。

 ナイフで首をき切ろうが、心臓をえぐろうが、痛みすら感じないだろう。

 なら、俺はどうやってこいつを殺せばいい? どうすればこの状況から抜け出せる?


 思いつく方法は――ひとつだけあった。


「…………やってみるか」


 俺はにやりと笑うと、『魔力感知』を発動させた。


 魔法である以上、この幻覚は魔力によって維持されているはずだ。

 ならば――『魔力感知』を使い、いつもより細かい精度で魔力を探れば、この空間を生み出している核を見つけられるのではないか。


 親父が拳を振り下ろしてくるが、俺はまったく気にせず『魔力感知』を続ける。

 この程度の痛みなどとっくに慣れているし、


『魔力感知』でひときわ大きな反応を示しているのは、やはり親父だった。

 そこから更に感知のあみせばめ、親父の身体で最も魔力が集中している箇所を探る。


 時間にしてわずか数秒ほどで、俺はようやくそれを見つけた。

 親父の分厚い肩のあたりに、ひときわ強い魔力が集まっている。

 俺はナイフの刃先に魔力をまとわせると、親父の肩を突き刺した。


 魔力の塊が引き裂かれ、親父の像がぶれ始める。

 四方を囲んでいた真っ黒な壁も頭上から溶けていき、親父ももはや死体のように表情を失っていた。


 ……どうやら、これで幻覚の『闇魔法』は崩せたみたいだな。


 俺はぼろぼろの身体で立ち上がりながら、消えゆく親父の像に向かって吐き捨てた。


「……あばよ、クソ親父。を、殺しに行ってくる」 

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