パイピング・アイシングクッキー
青島もうじき
1
そわそわしていると思われたくなくて、いつもインターフォンは5秒待ってから応答するようにしている。
モニターの向こうでは、無骨な黒いこうもり傘が羽を広げていた。画面を占める黒の割合は、そのまま圧迫感に繋がるのだろうか。いつもと変わらない、その少し不機嫌そうに見える真顔は、いつもよりも険のあるものに見えた。
今日も、時間ぴったり。
早く着きすぎちゃったらどうしてるのかな。もしかして、家の前でじっと立ってたりして。あれだけお堅い風貌の人だから、ご近所さんが見たら私の家の脱税を疑う国税査察官かなにかだと思いかねない。目つき悪いし。
ダイニングのテーブルに、ちらりと目をやる。そこに置いてある小袋が、ちゃんと無造作に転がしているように見えていることを確認してから、インターフォンの『通話』ボタンを押した。
「はーい」
チャイムの音を聞いて慌てて応答したかのように、軽く息を弾ませる小細工をしてしまう。
こんな演技はただの独り相撲だと思うのにそれがやめられないのは、画面越しにとはいえ一方的にじろじろ観察していることへの後ろめたさがあるからかもしれない。
『こんにちは。家庭教師の
さっきとまったく同じトーンで「はーい」と返し、ぱたぱたと廊下を駆ける。玄関脇に立てられたスリッパラックからアーガイル柄の赤いスリッパを引っ掴んで、並べた。
いつの間にか明庭先生専用のものになっていたそのスリッパは、初めのうちは色味の少ない服装に少しでも派手なものをあてがってやろうという気持ちから選んでいた。
毎週火曜日と金曜日、私の隣に座って勉強を教えてくれている姿を思い出す。
伸ばしているというよりもあまり手入れしていない風のロングヘアを、後ろでねじってまとめただけのヘアスタイル。上手く使えばお洒落なはずの、大ぶりのべっ甲のバレッタも、どこか野暮ったく見えてバレッタがかわいそうだ。
規則で決まっているのだというスーツだって、一切遊びがない。多分大学生のバイトなんだと思うけど、それにしてはスーツが似合いすぎてるし、今どき高校生でももう少しするぞと思うくらい化粧っ気のない顔も、年齢不詳をより加速させている。
だけどそれも、明庭先生らしいといえば、らしいんだけど。
つっかけ代わりのクロックスに足を通し、無駄に重厚なマホガニーの扉を押し開く。北欧のどこかの国から輸入したやつだってママが言ってた。ファサードなんだから小綺麗にしておかないと、とも。
最近知ったけどファサードは建築の用語で家の正面を指す言葉らしい。それならそう言ってくれた方が分かりやすいのに、とは思ったけど、明庭先生のことを見ていると、正面から見た印象が大事だという考えには同意できた。
数日前から降りつづく雨は、いまだその雨脚を弱めていないらしい。扉を開いた途端、這うような冷たい空気が家の中に忍び込んできた。
固く綺麗に巻かれた傘の先から垂れる水滴が、軒下の乾いたコンクリートに小さな水溜まりを作っている。
「こんにちは、
電球色の玄関灯に照らされて、薄い顔に薄い影が落とされている。
しとしとと降る春の長雨の中、鞄を携えてにこりともせずに佇む明庭先生は、なんだか腹が立つくらい絵になっていた。
* * *
私に家庭教師がついたのは、ちょうど中学に上がるころだった。
別段成績が悪かったわけでもないし、ちゃんとパパとママの言う通りに受験して、それなりの偏差値の私立の女子校にも入学できていた。
だから、どちらかというとパパとママは安心したかったんだと思う。
うちの家は共働きだ。
パパは製薬系の弁理士をしていて、ミュンヘンと日本を行ったり来たりしている。最近なんかは日本の家の方がセカンドハウスみたいになってきているような気がするし。
ママはママで大学病院に勤務する医師で、家に帰ってきたかと思えばオンコールで呼び出されて、みたいな生活をしている。
私が小学生の時には、むしろ無理をしていたのだと思う。情操教育がうんたら、みたいな本が薬学の専門書に混じってパパの書斎に刺さっていたのを見たことがある。
家でずっと一人にされた、構ってもらえない子どもがどうなってしまうか。きっとそれを危惧したのだろう。
私は結構一人の時間を楽しめるタイプだから、広い家に一人というのもどうってことはなかったんだけど、それでも両親はなにかの埋め合わせのように、私に家庭教師を雇った。
女子校に進学させたのも、女の先生を選んだのも、私に変な虫がつかないようにということだったのだろう。その気持ちは分からないでもない。
一人目は、パパの大学時代の同級生の娘さんだった。すごくはきはきしていて、よく笑って、人当たりが柔らかくって。素敵な人だった。
中学生だった私はよく懐いていたと思う。ずっと私は一人っ子として生きてきたけど、もしもお姉さんがいたなら、こんな人がよかったなと思うくらいには。
だから、大学卒業を期に新しい家庭教師に引き継ぐことになったとその口から聞いた時には、すごく残念に思った。ちょうど、私も中学を卒業する年だった。
そんな人が一人目だったから、最後の授業の日、見学も兼ねて私の家に連れてきた"二人目"を見て私は驚いてしまった。
覇気がない、とは少し違うんだけど、なんというか、生気の薄い感じというか。有り体にいってしまえば、辛気臭いというか。
受け答えもしっかりしているし、なにより先生の信用している後輩だという紹介があったから、危険人物ではないんだとは思ったけど、それでもやっぱり変な人だという印象は拭い去れなかった。
なんだこの人。
それが、私の明庭先生に対する第一印象だった。
だけど、毒は時間をかけてゆっくりと回ってきた。一か月、二か月と明庭先生と一対一で接するうちに、だんだんとそのローテンションっぷりが愛嬌に感じられてきたのだ。
不思議なこともあるものだ。前とは違って、姉妹のような親しみを感じることはなかったのだけど、それとは違う種類の興味が湧いてくるのを次第に感じていた。
好奇心ってやつに近いのかな。未知の深海生物の生態を見てみたいと思うのと同じような感じで、私は先生に興味を向け始めた。
やっつけ感満載の雑なひっつめ髪も、なんだか先生のトレードマークのように見えてきたし、腫れぼったい一重まぶたの奥に覗く虚ろな瞳だって、いつの間にか私の目を吸い寄せるようになってきた。
頭の方は申し分なく良かったし、そういう人にありがちな、心の機微が読めないということもないらしい。
むしろ、そういったことにも聡いようで、自分が雇われている理由が勉強を教えることでないことにも気付いているようだった。
勉強が退屈になって雑談を振ってみても、歴史の年号を読み上げるのと同じ声色で話に付き合ってくれる。きっと、先生の目には、勉強も雑談も全く同じ仕事として映っているのだろう。
だから、今日持ってきた"謎"も、眉一つ動かさずに聞いてくれるのだろうという予感があった。
リビングへと続く長い廊下に、足音が二つ。雨が降っているからか、採光窓から入ってくる光も少なく、どこか陰鬱な空気が充満していた。電気を点けようかとも思ったけど、私の半歩後ろをぴったりとついて歩く先生のことを考えているうちに、機会を逸してしまった。
だから、リビングの光に迎え入れられた時には、つい数十秒前ぶりの空間だというのに、えも言われぬ安堵に包まれた。
「そうだ、そこに置いてあるクッキー、先生にあげますね。お茶淹れますから今食べちゃってください。昨日、学校で作ったんです」
ダイニングテーブルのいつもの席に座ろうとする先生に、何気なさを装った声で、数時間頭の中でぐるぐると演習していたセリフを投げかけた。
先生は、その見た目に全く似合わないファンシーな小袋を拾い上げ、まじまじと見つめた。
「ありがとうございます。アイシングクッキーですか」
「アイシング、ご存じなんですね。和梨の果実をイメージして作ったんです」
ビニールの内側にはころんとしたクッキーが数枚。それぞれの表面には『pear』の文字。「p」の左上がぴょこんとはねているのがかわいらしい。
ちょうど今、花の季節ですからね。なんて言いながら、お湯とアッサムのティーバッグを入れたガラスのティーポットを先生の前に出す。
これで作戦通り、蒸らしている間の時間は暇な時間となった。
完全にあらかじめそうなるようにと思って作った時間だったけど、さもぽっかりと空いた時間を埋める世間話を始めるように、私は口を開いた。
「そういえば、実は今日、学校で不思議なことがあったんです」
なるべく声を潜めて、気を引くような喋り方をしてみたけど、やっぱり先生の表情に大きな変化はなく。
ただ、「不思議なこと」とオウム返しをしただけだった。
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