第35話

 どうしよう。どうしたらいい。

 目の前に人が倒れている。たぶん、死んでいる。

 鉄アレイ(幸子と付き合い始めた太一がダイエット用に購入したものだ)で頭をかち割ったのはこの私だ。

 大変な状況にあるのに、幸子はどこか他人事だった。

 ずっとこんな状態が続いている。自分のことなのに、どこかふわふわとしていて実感がなく、ドラマや映画の中の出来事のように感じてしまう。

 ドラマや映画に出ようとしていた暮らしが長かったせいか。

 それがついにはかなえられなかったからか。

 私は「私」を非日常の世界に置いてきてしまったのか。だとしたら、どうしてそれをいつまでも取り戻せないのか。

 それは誰のものでもない、自分だけのもののはずなのに。

 幸子にはなにもわからない。

「私、馬鹿だから~」

 いつの頃からだろう。この感じは。楽なんだけど、泣きたくなるような、苦しくなるようなこの感じ。

 私は「私」をついに取り戻せなかった。

 いつかは・・・そう願う気持ちも萎み、今ではすっかり枯れてしまっている。

 しかし、こうなってしまった今、「私」を取り戻せなかったのは好都合だ。

 私が「私」を手にしていたら、今頃とっくに私はくるっていたかもしれないのだから。

「こんなふうにぼんやりとしか痛みを感じないんだから、やっぱり、幸子の幸は幸せの幸だね~」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る