第2話 ずるい

「ずるいっす!」


 つぐみが机の天板を両手で激しく叩く。痛かったらしく、彼女の眉間に皺が寄った。「つっうー」と声にならない声を漏らす。


「ごねん。でも上級生ばかりやったから気を使うかなって思って」


「みなこ先輩がいるなら火の中、水の中っすよ! まぁ、プールだったので、この場合は水の中っすけど」


 つぐみが腹を立てているのは、先日のプールに誘われなかったことらしい。もちろん、宝塚南の部員だけで行くのなら、一年生たちも誘ったけれど。あの場には陽葵や明梨もいた。互いに気を使わせるのは申し訳ないと思ったのだ。


「わかった、わかった。お盆は予定があるから無理やけど、後半のどこかの休みで、つぐみちゃんとも行ってあげるから」


「約束っすよ!」


 夏休み上旬、合宿が明けてからしばらくの間は個人練習が続いていた。三年生が模試や受験関係のことで休む機会が増えたからだ。文化祭まで一ヵ月半ほどしかないため、そろそろ練習に取り掛かりたいのだけど。


「っていうかさ。つぐみちゃん、最近、やけに私にべったりちゃう?」


「そうっすか?」


「そう思うけど」


「嬉しいですよね?」


「まぁ……」


「なんですか、その微妙な表情は!」


 もとから慕われていると言うよりかは、懐いてくれている節があったけれど、合宿明けくらいからそれが顕著になった気がする。


 後輩から親しく接して貰えるのは嬉しい。だけど、自分が想像していた先輩像とはかけ離れた現状に、思わずため息が漏れる。きっと自分の理想は知子のような『格好いい先輩!』だったのだ。そこに手が届かない現状に至って初めて、自分の理想に気付かされた。


「はいはい、嬉しいよー、慕ってくれて」


「心がこもってないっす! もう一回」


「えぇ……」


 懐かれているという前言は撤回しないといけないかもしれない。時折、主人と飼い猫の立場が逆転する現象を感じるから。なるだけ心を込めて、「嬉しい!」とみなこは喉を鳴らした。


「許してあげます」


「私はいま何から許されたの?」


「心を込める神様からです」


「なにその神様?」


「日本には八百万の神様がいるんすから」


「その神様はいるかなぁ」


 隣のスタジオからは低い重低音が聞こえる。杏奈と奏がベースの練習をしているらしい。個人練習の時に二人がスタジオに入ると、誰も邪魔をしないのが暗黙の了解になっていた。奏が杏奈と共に練習できる時間はもうそれほど残されていないから。


 机に置いていたクリップボードを手に取り、挟まれた用紙を見つめながら、つぐみがため息をこぼす。


「そういえば、今日も井上くんがお休みしてるっす」


「まぁ個人練習の日の参加は自主性に任せてるからね」


「にしても、今週四日目っすよ? 合宿終わりには、二日も休日があったのに」


 部員の出席は、合宿後、正式にマネージャーへ就任したつぐみが管理している。ミーティングや練習の日程など、今まで学年リーダーを通して報告していた業務が一本化されて、全員への連絡がスムーズになった。本人もやりがいを感じているらしく、人から頼りにされることは嫌いではない性分らしい。


「夏休みやし、用事でもあるんちゃう?」


「んまぁ、そうかもしれないっすね。明日の定例セッションにはちゃんと参加するみたいなので」


 ただ、と言葉を濁して、つぐみは耳元で編まれた三編みを指先で転がした。


「なにかあるん?」


「いや、明確なことはなにもないっす。それとなく休む理由を聞いたら、はぐらかされたので」


「あんまりプライベートなこと聞くのは良くないよ」


「それは分かってるっすけど」


 時々、竜二は部活を休む日があった。本当にたまに、だ。受験を控えている三年生はもちろん、みなこや佳奈だって休む日はある。家の用事だったり、個人的な用事だったり。今回の竜二は、それが夏休みで偶然続いただけのことだろう。


 とはいえ、休みの連絡を直接聞いたつぐみにだけ感じ取れた機微があることも否定は出来ない。けれど同時に、気にしすぎだということだってある。何分つぐみはマネージャーの仕事を張り切り過ぎている。


「同じ学年やしね。ちょっと気にしてあげてれば、それでいいんちゃうかな?」


「うーん。そうっすね。わかりました」


 少し消化しきれない表情を浮かべたままつぐみは頷く。手に持ったクリップボードを脇に抱えると、隣のスタジオの方へと身体の向きを変えた。


「ちょっと、つぐみちゃん」


「なんですか? あー、小スタで杏奈先輩と奏先輩が練習してることですよね? 分かってますよ、邪魔はしませんって。でも報告があるんで、それだけ伝えるっす」


 気の使える女でしょ、と言いたげにつぐみはふんと鼻孔を膨れさせる。けど、みなこが言いたいことはそこじゃない。


「その報告を私はまだ受けてないんやけど」


「あー! 忘れてました!」


 つぐみがスタジオに入って来るなり報告よりも先に世間話が始まった。プールの話になっていたのはそのせいだ。誘われなかったことが悔しくてすっかり忘れてしまっていたらしい。


 クリップボードから小さなメモ用紙を取り、つぐみはそれをこちらに手渡した。オレンジ色に縁取られた枠の中に、つぐみの手書きの可愛らしい文字が並んでいる。


「文化祭の曲は週明けに決めるみたいっす。お盆前の中央公会堂のイベントの曲を見てから調整するみたいなので。向こうの選曲が決まり次第、部長に報告して欲しいらしいです。このメモは此花学園との打ち合わせの日時っす」


「めっちゃ大事なことやん! 危うく聞き逃すところやった」


「恐ろしいですねー」


 下手くそに微笑む口端を可愛らしいと思うのは、親心が強すぎるだろうか。他人事のような言い草でミスを誤魔化す後輩を強く注意出来ない。


「日時は、めぐちゃんにも伝えた?」


「はい。サックスセクションで練習されてたので、さっき伝えておきました」


 打ち合わせの場を設けて選曲をしようとなったのは、明梨や詩音もいるグループラインでの会話だった。人数の多い此花学園側が曲を指定してきてくれても良かったのだけど、せっかくだからとの提案を詩音がしてくれた。


 そのグループ内で打ち合わせの日時や場所を決めなかったのは、これが公式の行事であったからだ。生徒の独断で動くのではなく、ちゃんと学校や大人を通した方がいいという話になった。こういうしっかりとした提案をしてくれるのは、もちろんめぐだ。


「それよりも、みなこ先輩のクラスは文化祭でなにするんですか?」


 それよりも、という言葉に引っかかりを覚えつつ、みなこはメモをスカートのポケットにしまった。


「うちはダンス」


「みなこ先輩がダンスっすか!」


「なんか馬鹿にした目してない?」


「気のせいです。これは様々な期待を込めた視線なので」


「様々なってなに?」


「もちろん八百万の期待です」


「それって馬鹿にしたニュアンスも混じってるってことやん!」


 へへっと愛嬌のある笑顔を浮かべて、つぐみは小スタジオの方へと逃げるように駆けていった。

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