第10話 ヒコネサマーミュージックフェスティバル

 朝の冷たさは、まだわずかに石畳の隙間に残っている。けど、それもあと少しだけ。じりじりと勢力を増していく太陽が、夏の暑さを忘れていた町を呼び起こし始めていた。


「まもなく本番でーす。一応、全員揃ってるか、点呼取ります」


 副部長である大樹がメンバーの名前を呼び上げた。眠い目をこすっていたメンバーも自身の名前が呼ばれたことで、緊張感を持ち表情を変えていく。穏やかなはずの夏の朝の空気も少しだけピリピリとした刺激的なものに感じた。


「七海ちゃんは緊張大丈夫? 眠くない?」


「みちる先輩は、うちのことなんやと思ってはるんですか!」


「ごめんごめん、今までの癖で。もう先輩やもんね」


「そうです! 私も先輩になったのです!」


 みちるに向かって七海が、どうだと言いたげに大げさに胸を張る。膨らんだ肺が、Tシャツの胸もとに書かれたHSMFの文字を横に引き伸ばした。ちなみに、HSMFは、ヒコネサマーミュージックフェスティバルの略称で、今回のイベントを記念して発売されているものを部員は頂いた。


「それに昨日のコンボの演奏も良かったよ。けど、私にとって七海ちゃんは、ずっとかわいい後輩やからね」


「もう、みちる先輩照れるじゃないですかー。見ててください! 昨日の彦根城のパフォーマンス以上のものを見せてやります!」


 イチャイチャとする二人を他所に、みなこはモダンな町並みの向こうに見える空を見上げる。この大正時代を思わせる町並みが、本当にその時代だった頃から、この空はこんな澄んだ水色をしていたのだろうか。優しくて穏やかな、ちょっぴり切ない空気を肺に吸い込んで吐き出す。


 もし百年前と変わらない空の色ならば、これからもずっと変わらずにいてくれるのかもしれない。いろんなものが変わっていくだろう未来に、変わらずにいてくれるものがある安心感は、緊張と高ぶりが同時に囃し立てる心を少しだけ落ち着かせてくれた。


 *


 四番街スクエアの一角に、簡易なステージが設置されていた。夏らしいカラフルな花たちで区切られたステージと客席。派手な照明などなくとも舞台を鮮やかに彩るには十分だった。


 宝塚南がオープニングアクトを担当するこのステージを含めて、野外ステージが二箇所。それからライブハウスと市民館。合計四箇所の持ち周りで切れ間なくパフォーマンスが行われる。昨日、彦根城で行われた小さな音楽イベントが、インターネットの記事で取り上げられ、それに付随する形でこのイベントも紹介されたらしい。それが良い宣伝になり、SNSでも今日のイベントのことを書いている人がちらほらいるという話も聞いた。


 仮設テントの隙間から広場を覗けば、老若男女問わず多くの人が集まり出していた。地元の人っぽくはない観光客の姿や外国の人たちもいて、みなこはSNSの偉大さを知った。


 開演の時間が迫り、里帆が一同を集めて円陣を組んだ。


「今回、初めて行われるヒコネサマーミュージックフェスティバルのオープニングアクトです! イベントが成功するかどうかは、私たちの出来に掛かってると言っても過言ではありません。この重要なポジションを与えてくれた横山さんの期待に答えられるように、精一杯演奏しましょう!」


 おぉ! と人一倍大きな声を出したのは、みちるだった。久々のステージにかなりテンションが上っているらしい。「みんなの若さに負けんからね」と、年老いたことを言う彼女に「まだみちる先輩も若いでしょ!」と杏奈がご機嫌なツッコミを入れた。


 横山がイベントの開催の挨拶を終えると、大きな拍手が起こった。彼女のライブハウスだけでなく、この辺りに店を構える店舗や保育園など施設や自治体が一丸となってこのイベントが運営されている。


「みなこ先輩」


 つぐみが冷えたペットボトルの水をこちらに差し出した。わざわざ買ってきてくれたものらしい。「ありがとう」と礼を言って、みなこはそれを受け取る。


 どくどくと弾む胸の鼓動がひんやりと冷えたプラスチックの中の水を揺らした。緊張はいつだって、もぞもぞとこそばゆく、同時に少しだけ心地よい。ぴんと張り詰めた糸をゆっくりと丁度よい具合に弛ませる作業は難しいけど、それもまた本番の前の醍醐味の一つだ。


「頑張ってください!」


 つぐみの言葉に送り出されて、みなこは拍手に迎えられるステージへと一歩踏み出した。

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